僕は「快楽主義者」である – 現代だからこそ学びたいエピクロスの哲学

快楽主義。

その言葉からどんなイメージをするだろうか。

多くの人は豪華な食事や派手なファッション、性の悦びを堪能するような享楽的な生き方を想像するかもしれない。

一般的な「快楽主義」のイメージ(?)

確かに、一般的な「快楽主義」にはそのような意味もある。

しかし、快楽主義者(epicurean)の語源となった、古代ギリシャの哲学者、エピクロスの唱えた本来の「快楽主義」は欲を貪るような生き方とは真逆と言ってもいいほどの哲学だ。

自分は後者の意味で「快楽主義者」である。または、そのような生き方を目指していると言ってもいい。

今回の記事では、現代だからこそ、我々の人生に取り入れたい、エピクロスの快楽主義について紹介していく。

まずはエピクロスについての生い立ち、思想が成立した時代背景を見てみよう。

エピクロスは紀元前341年、アテネの植民地であるサモス島に生まれた。

父親は入植者の教師であり、当時としては身分の低い立場だったので、扱いは悪く、家族の生活は貧しかったとされる。

そして、紀元前323年、アテネ人の青年には2年間の徴兵義務があり、18歳のエピクロスはアテネに上京する。

幸か不幸か、ちょうどこの年は世界帝国を築いたアレクサンドロス大王が急死した年であった。

当然、権力争いによってアテネも騒乱に巻き込まれる。エピクロスも一兵士として戦いを目の当たりにしたことだろう。

その後は哲学を学び、講義や議論を続けたが、弾圧や迫害により各地を転々としたという。

紀元前307年にはアテネの郊外に土地を購入し、住居と庭園を作り上げ、弟子たちと学問の研究を行いながら社会と離れて慎ましく暮らした。いわゆる「エピクロスの園」である。

そして、紀元前270年、72歳でこの世を去った。

エピクロス(紀元前341-紀元前270)

まとめると、この時代は非常に不安定であった。

アレクサンドロス大王による征服や急死により、ギリシャ(アテネ)社会が急激に変化し、貧富の差が拡大したり、争いや弾圧が各所で発生した。

その結果、個人の力ではどうすることもできない無気力感に人々は苛まれたはずだ。

エピクロスも例外でなく、貧困、差別、戦争、弾圧、迫害を経験している。

政治に期待できないような時代になると、人々は「社会よりも、自分がどう生きるか?」という思想を求めるようになる。

そんな背景から生まれたのが、個人主義的な哲学。エピクロスによる快楽主義や、ゼノンによる禁欲主義であるのだ。

ーーー社会や政治に期待のできない時代。

これはまさしく、我々の生きる時代と言っても過言ではない。

飽和した資本主義社会、拡大する貧富の差、横行する自己責任論。

労働の価値を見失った我々にも「社会よりも、自分がどう生きるか?」を追求していく流れが生まれつつある。(少なくとも自分はそうするだろう)

そんな時代を生きる我々にとって、エピクロスの哲学は大きなヒントとなってくれるはずだ。

以下では、思想や生き方、残された言葉たちから「快楽主義」のエッセンスを学んでいこう。

① エピクロスの主張する「快楽」とは

「快楽こそが善であり人生の目的だ」

エピクロス

「快楽とは肉体の健康と心の平穏である」

エピクロス

エピクロスの「快楽」とは「飢え、渇き、寒さ、暑さ」などの苦痛を取り除いた「普通の状態」のことである。

エピクロスは欲求を3つに分類した。

① 自然で必要な欲求

→ 健康、衣食住、友情、など…

② 自然で不必要な欲求

→ 豪華な家、贅沢な食事、など…

③ 不自然で不必要な欲求

→ 名声、権力、など…

このうち、自然で必要な欲求のみを求めることが、心の平穏に繋がると主張した。

まずは、快楽主義の誤解を解こうと思う。

エピクロスの主張する「快楽」とは「肉体の健康」と「心の平穏」のことである。

つまり、とても自然で慎ましいものであったのだ。

刹那的な快楽や享楽的な快楽とは、むしろ真逆。

それらを追求することは、結果的に快楽よりも不快や苦痛を生み出すことをエピクロスは知っていたのだ。

ひとことで言うならば

「(世俗的な)快楽を追求するのではなく、苦痛を避ける」

それが分かりやすいスタンスかもしれない。

大原扁理氏の「嫌なことで死なない」にも通じるものがある。

現代では「肉体の健康」に気を使っている人は多いかもしれないが、肝心の「心の平穏」は蔑ろにされがちだ。

快楽とは「肉体の健康」と「心の平穏」。

この2つは同じぐらい大切なものであるとエピクロスは主張しているのだ。

② 足るを知るミニマリスト

「パンと水があれば、神とも幸福を競うことができる」

エピクロス

これは食事に限った話ではない。

「足るを知る」であれば、その幸福度は神にも匹敵すると主張したのだ。

必要以上の欲望は我が身を苦しめるだけである。

ちなみにチーズも食べていたらしい。流石に栄養失調が心配になるのでよかった。

③ 遁世的生活のススメ

「隠れて生きよ」

エピクロス

エピクロスはアテネの郊外に学園を開き、そこで弟子たちと共に自給自足の生活を送った。

社会や政治を煩わしいものと考え、都市から離れて田舎で暮らそうと主張したのだ。

現代の「山奥ニート」のようである。

「エピクロスの園」では奴隷や娼婦も生徒として受け入れていた記録があるという。

この辺りにエピクロスの言葉だけではない、人間としての深みを感じる。

④ 「死」や「神の存在」について

「我々にとって死は何者でもない。なぜなら、我々が生きている限り死は存在せず、死が訪れたときに我々は存在しないからだ」

エピクロス

「善いことや悪いことは全て感覚に属するが、死とはまさにその感覚の欠如である。死が我々を苦しめることを恐れる必要はない」

エピクロス

もし、全知全能の神がいるのならば、いちいち人間などに気をかけるだろうか。全知全能の神が「アレはするな」「アレは食べるな」と言うだろうか。むしろ、神に対してイメージを押し付けることの方が失礼ではないだろうか。従って、人間は神を気にかける必要はない。(要約)

現代でも充分に通用するドライでクールな価値観の持ち主だ。

これで紀元前の人間だというのだから驚きである。当時の価値観からすれば、とんでもないことだろう。

「死」や「神の存在」に怯える暮らしに「心の平穏」はあり得ない、ということでもある。

⑤ 人との繋がりを大切にした

「真の快楽とは友愛である」

エピクロス

腹の病が重く、その激しさの度は減じない。だが、それにもかかわらず、君とこれまで交わした対話の思い出で、私の心は喜びに満ち溢れている。(友人との手紙より要約)

エピクロスは遁世思想であったが、厭世思想という訳ではない。

中でも人との繋がりを大切にしたのだ。

エピクロスや快楽主義を批判する人でさえ、エピクロスの人格については褒め称えたという。

「人との繋がり」については自分もよく考える。

正直、一生他人と関わらずに生きていきたいなんて思ってしまう時もある。

しかし、そんなことを文章にして公開してしまう時点で「他者と関わりを持たずにはいられない」のだ。

一匹狼な自分を認知してほしい、そんな矛盾を抱えている人も少なくないだろう。

「人間」とは「人の間」、結局は他者との繋がりの中で自分を見出していくしかない。

自分のように「なるべく働かないで生きていく」なんて人間は少数派である。

現実の身近な人間関係でそのような生き方を主張していれば非難は免れない。

例え、固く決心していたとしても、ダメージや揺さぶりは受けてしまうものだ。

だからこそ、遁世主義者は同じ価値観をもった人々と、ゆるい繋がりを作り出すべきなのではないかと日頃から考えている。

このぐらいでエピクロスや快楽主義についての概要は抑えられたのではないだろうか。

現代的な解釈も含めてまとめると、以下のようになる。「現代流 快楽主義」とでも名付けよう。

・「肉体の健康」と「心の平穏」を人生の指標にする。この2つはどちらが欠けてもいけない。労働で心を犠牲にするような生き方は間違っている。

・快楽を追求するのではなく、苦痛を避ける。嫌なことで死なない。必要以上に働かない。

・健康、衣食住、人との繋がりなど自然で必要な欲求を大切にする。人間なんてものは、本来、飯を食べて暖かい布団で寝れるならば、充分に幸せなのだ。我々を不幸にしているのは「不必要な欲求」である。

・清貧で質素な生活を送り、足るを知る。生活コストを下げて、ミニマルに生きよう。余計なモノも煩悩も持たない。

・隠れて生きよ。都会は煩わしいことばかりだ。生活コストを下げるためにも、隠遁的な暮らしをしよう。

・「死は我々にとって何者でもない」「神が存在していたとしても、いちいち人間を気にかけるとは思えない」、淡々とドライな価値観を持って生きていこう。

・人との繋がりを大切にしよう。なんだかんだ言って人間には友愛が重要なのだ。現代にはインターネットという便利なツールがある。同じ価値観を持つ人々とゆるい繋がりを持つのも悪くない。

などである。

寝そべり族、セミリタイアラー、山奥ニートのような生活をしている(または目指している)人々には非常に同感してもらえる内容になっているのではないだろうか。

「快楽主義」の良いところはハードルが低いところだと思う。

例えば、仏教に関する本を読んだりすると、内容自体には納得できるのだが、実践は難しい。

自分のような普通の人間が、悟りを得たり、完全に無欲になることができるだろうか。(いや、ムリだ)

その一方、快楽主義は内容が自然かつ実践しやすいものとなっている。

「資本主義社会におけるしょぼい悟り」といってもいいかもしれない。

現代は欲望と競争によりとても歪な社会と価値観が形成されている。

それでも、そのカウンター的な哲学とも言える、快楽主義を習得し、己の人生を充実したものにしてほしいと思う。

「いい歳して哲学」は全く恥ずかしくない。哲学は心の護身術でもあるのだ。

なぜなら、我々はボーッとしていたら社会に殺されてしまうのだから。

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