Q.ニートやフリーターは老後どうするの?

なるべく働かないような生き方をやっていると様々な意見が寄せられる。

肯定的なものだったり、否定的なものだったり。

文脈を理解していないような、いわゆるクソリプのようなコメントには「ちゃんと文章を読んでくれ〜」と思ってしまうけれど、きちんとした否定的な意見はありがたい。

「確かにその通りだな」と思えるようなものもあるし、新たな知識や価値観を知れたりもする。

考えによってはクソリプでさえ、インターネットの風通しがいいという証拠なのかもしれない。過度に閉じられたコミュニティは自分もあまり好きではないし。(換気されているとコバエがどうしても少し入ってきてしまうような)

前置きが長くなってしまったが、今回の記事では、よく寄せられる”ある意見”について考えてみようと思う。

それは

「ニート生活で老後はどうするの?」

「将来のこと考えてるの?」

「若いうちはいいかもしれないけど、中高年独身フリーターは悲惨だよ」

などについてである。

まずは「確実なこと」から考えていこう。

我々は絶対に死ぬ。どうあがいても死ぬ。

つまり、この問題は

【① 家族や大した貯金を持たず、老後にどう死ぬのか?】

【② 中高年の無職やフリーターはどう暮らすのか?】

と言い換えてもいいだろう。

これらについて自分の意見を述べていこう。

【① 家族や大した貯金を持たず、老後はどう死ぬのか?】

まず、自分が主張したいのは「死ぬ」ということ自体はそこまで恐ろしくないということである。

死ぬということは、生まれる前と同じような「無」に戻るだけなのだ。

生まれる前に「楽しい」や「苦しい」のような感覚はあっただろうか。

永遠の天国も、永遠の地獄も特に無い。

別に、善くも悪くもない「無」に還るだけなのだ。

そう考えれば、案外気楽なものではないだろうか。

問題はその過程である。

誰だって苦痛を味わうのは嫌だ。

孤独死なのか、餓死なのか、病死なのか分からないが、自分も苦しんで死んでいくのだろう。

ここで主張してみたいのは以下の3つである。

(1.1)「苦しんで死ぬ」のは当たり前

(1.2)家族やお金があれば、幸せな最期を送れるのか?

(1.3)主体的に死を選択するという生き方

順番に見ていこう。

(1.1)苦しんで死ぬのは当たり前

我々は「資本主義の家畜小屋」でぬくぬくと育ってきたので、あまり理解されていないように思えるが、この世の本質は「苦」なのである。

生まれてきてしまったからには、他者に喰われて苦しんで死ぬということであり、万が一、寿命まで生き延びたとしても、老いて、病気になって、苦しんで死ぬのだ。

この事実をまずは真摯に受け止めるべきなのだと思う。

「自分だけはふかふかのベッドで苦痛も無く、眠るように死ねる…」

そんなものはただの都合のいい妄想だ。

苦しんで死ぬのは当たり前、というか生き物は全員そうなのである。

そもそも、我々は生きる為に他の動物や植物の生命を犠牲にしている訳だ。

それなのに、「自分だけは苦しんで死にたくない!」なんていうのは、ちょっと虫が良すぎるようにも思う。

もちろん、自分も苦しんで死ぬのは嫌だ。

今は達観ぶっているけれど、死にそうになったらそれなりに抵抗するだろう。

けれども、「生まれて苦しんで死ぬことは”自然の摂理”である」と、きちんと理解しておけば、今際の際の心持ちはそれなりに違うのではないか、と考えている。

(1.2)家族やお金があれば、幸せな最期を迎えられるのか?

ここで問うてみたい。

あなたの祖父や祖母は「幸せな最期」を迎えられただろうか?

自分の祖父祖母は以下のような最期であった。

父方の祖父…70代。風呂中にヒートショックで溺死。

父方の祖母…長生きしたが、80代後半にもなるとボケてしまい、老人ホームで耄碌に過ごす。最期は病院で衰弱死。

母方の祖父…70代後半から老人ホームで過ごす。80代にガンで亡くなる。

母方の祖母…60代後半、脳出血で倒れ、まともに会話もできなくなる。そのまま、身体が弱って肺炎で死亡。

うーむ。確かに家庭を持って、しっかりお金を貯めておけば、野垂れ死ぬようなことはないだろう。

しかし、幸せな老後生活だったか?(または最期だったか?)と問われれば微妙なものだ。

突発的に病気で死んでしまったり、老人ホームという名の姥捨山に追いやられ、大なり小なり苦しんで最期を迎える。

思うに、「家族を築いて、老後に向けて貯金をしておけば、幸せに死ねる」というのは一種の労働教による洗脳なのだ。

(「労働教」などと言うとエンターテイメントで扇動的な要素が強くなるけど)

信じれば天国に行けると言っている宗教もあるが、労働教は労働という苦行を行えば、穏やかな最期を迎えられると主張している訳である。

日頃の行いに関係なく、人は平等に死ぬ。

不確実な老後の為に、紛れもない今を犠牲にするような生き方は果たして正しいのだろうか。

(1.3)主体的に死を選択するという生き方

老年の自殺というと、惨めで孤独なようなイメージがあると思うが、ぶっちゃけ言ってしまえば、自分は「アリ」だと考えている派だ。

むしろ、「主体的に死ぬ」ということは「受動的に死ぬ」ということよりも、よほど人間らしい在り方だと思う。

ここ最近、2回も記事にしたのだが、ある大学教授/哲学者/社会研究家の須原一秀氏は「人生を生き切った」という理由から、完全にポジティブな心持ちで自死に踏み切った。

詳細は須原氏の著書や別記事を参照してほしいが、ここでは印象に残った2つの文章を引用させてもらおうと思う。

「人が自ら死を選択する理由は二つしかない。「何かのために死ぬ」か、「何かから逃れるために死ぬ」か、そのどちらかしかないのである。」

『自死という生き方』 須原一秀

「人生は全体として、意味が有るものでも意味が無いものでもない。人生のある部分がある人にとって意味が有り、別のある部分はその人にとって意味が無いだけのことである。」

『自死という生き方』 須原一秀

先程も述べたが、「真面目に働いて生きていれば、ギリギリまで健康で、穏やかに眠るように死ねる」なんてことはありえないのだ。

最期まで自我が保つかどうかも危ういものだし、寝たきりのような苦痛の延長戦もあり得る。”自然死の付近”には多くの苦しみが付き纏うだろう。

そう思えば、サクッと一瞬の苦痛で死んでしまうことは、むしろ潔いようにも思える。

(ただ、この記事は自殺を推奨するものではなく、須原氏の家族も連鎖自殺が起こることを望んでいない、ということには注意されたし。)

①「家族や大した貯金を持たず、老後はどう死ぬのか?」についてまとめよう。

ここまで色々と、それらしい理屈を述べてきた。

しかし、現時点での自分の結論を言ってしまえば

「まだ、そんな死について考えなくてもいい」

「今を楽しく生きよう」

というシンプルなものなのである。

未来の自分の気持ちなど分からないし、途中でぽっくり死んでしまうかもしれない。

少子高齢化問題を解決する為に老人安楽死制度が導入される可能性だってある。

それに須原氏の言うように、「人生を生き切った」という理由で死ぬ為には、何よりも今をエンジョイすることが必要不可欠だ。

とりあえず、現在をそれなりに楽しく生きよう。

「いつ死ぬか分からない」ということも含めて、それが我々にできるベストだ。

(セミリタイアなどの計画的苦行を除き)今が楽しくないのなら、何か間違っているのである。

人生というのは、ぼんやりとした未来のことではなく、紛れもない今現在のことなのだ。

決して「バカになれ」という訳ではない。

本質的に存在する”死”という絶対的ネガティブから目を逸らさずに、それでも強く、だからこそ今をポジティブに生きよう。

そう主張したいのである。

それでは次の問題に移ろう。

【② 中高年の無職やフリーターはどう暮らすのか?】

ということである。

これについては自分はコミュニティのようなものに所属したい、もしくはそのようなものを立ち上げたいと考えている。

「人との繋がり」と「生活コストの削減」が目的だ。

分かりやすい例で言えば、山奥ニートのような。

自分は人付き合いに疲れてしまいやすいタイプだと思う。なるべく1人でいるのが好きだ。

それでも、完全に1人で生きていくというのは寂しい。(というか不可能だろう。)

ごはん派でも死ぬまでずっとごはんを食べ続けるのは厳しいというか。たまにはパンも食いたくなる。

やはり、人間というのは「人との間」で自身を見出していくものであるのだろう。

ここで疑問点になってくるのは

(2.1)家族や子供を持たなくていいのか?

(2.2)社会不適合者が小さな社会を営めるのか?

ということだ。

まずは前者について述べよう。

以前にエッセイでガッツリと述べたのだが、自分は家族や子供を持つことに特に執着が無いのである。(気になる方は読んでほしい)

ルサンチマン(弱者の妬み)ではなく、おそらく容姿が優れていて、お金に不自由していなかったとしても、子供は作らなかったはずだ。

簡潔に言ってしまえば、自分の家庭環境が良くなかったので、家庭というものに良いイメージが無いのである。

良く思わないものを再生産しようと考える人は少ないだろう。

子供が嫌いな訳ではないけれど、DNAを残したとしても、いつかは人類も滅びるし、そんなに個人で躍起になることでもないな、と思う。

産みたい人は産んで、産みたくない人は産まなければいいのだ。

結婚も「そういう流れ」があったのなら、ナシでは無いのだが、同じ家に暮らすのは厳しいかもしれない。週末に会うぐらいの方がいつまでもフレッシュな気分でいれるのではないだろうか。(知らんけど)

余談だが、将来的に低コスト生活者同士の結婚が各地で起こっても、おかしくない流れだと思う。

子供を持たないセミリタイア夫婦はたまに聞くが、近々には寝そべり族夫婦も誕生するかもしれない。生活費が浮くのは合理的でもある。(そして、子供を作ったカップルが叩かれる流れが見える…)

そして、次は「社会不適合者が小さな社会を営めるのか?」ということだ。

分かりやすい例で言えばお金の問題かもしれない。

例えば、シェアハウスを運営したとしよう。

住民を募集して、仲良くなったとしても、お金が払えない人が現れたのなら、出て行って貰わざるを得ない。

この時に心を鬼にすることができるのか?そして、トラブルが発生しないのか?

いつだって恨まれるのは「最後に突き放した人」なのである。重大な事件が発生してもおかしくはない。

また、生活の面でも問題は現れるだろう。

遁世界隈などを見ていると、ぶっちゃけクセの強い人ばかりだ。

そんな人々が無闇にコミュニティを作り上げたら、ぶつかり合いが発生することは間違いない。(自分も含めてだが)

…これらの問題に関しては、信頼できる、または気の合う人間同士でコミュニティを作成すればいいのではないかと思った。

クローズで選民意識が強いようなコミュニティはあまり好きではないのだが、世の中の多くの人々が「家族」または「夫婦」という好き勝手なグループで暮らしているように、気の合う人々で「寝そべり部族」を組めばいいのだ。

1からメンバーを募集するのではなく、ある程度「この人たちとなら暮らせていけそうだなー」というメンツを固めるか、もしくは追加メンバーのみ募集かつ仮住まい体験必須などにすればやりやすくなるのではないだろうか。

オープンで風通しの良いことは素晴らしいと思うが、実生活についてシビアに考えることも必要だと思われる。

② 「中高年の無職やフリーターはどう暮らすのか?」についてまとめよう。

「独身の中高年は悲惨だよ」

という脅し文句があるが、それは人によるとしか言えないだろう。

独身だって楽しんでいる人はいるし、家族や子供という「一般的な幸せのイメージ」に囚われている人はいつまでも幸せになれないかもしれない。

それでも確かなことは「人はある程度のコミュニティに所属していないとやっていけない」ということだ。

「私は孤独な一匹狼です。」と主張しているような人も、インターネットで自分の存在をある程度主張しないとやってられないのである。(世の中には本当に誰にも言わず、孤独に暮らしているようなホンモノもいるのかもしれないが…〔別にホンモノが偉いとか正しいとか言う訳ではない〕)

このように、現代には良くも悪くもインターネットが発達している。

家族に限らない、インターネットを通じたオルタナティブなコミュニティ。

実生活を共にするとは限らないが、たまにリアルで遊ぶだけでも、人々は孤独を乗り越えてやっていけるのではないだろうか。

河原に一緒に寝そべってもいいし、無職村みたいなところでキャンプをしたりしてもいい。

そういった新しい繋がりを持てば、低コスト生活者でもやっていけるような気がするのだ。

(『ハンチョウ』みたいなノリで生きていきたい)

総括的なコメントをすると、難しい話かもしれないが、「ニートやフリーターでも卑屈になるな!」ということかもしれない。

自分はポジティブ…というか淡々と生きているだけなのだが、今でも学生時代の友人には遊びによく誘われたりする。

例えば、プロ奢氏などが顕著な例なのかもしれないが、「面白い無職」というだけで、普通に働いている人にとっては充分に魅力的なのである。

とある本では、「働かない人(スラッカー)」について、このように解読されていた。ここに紹介しておこう。

…そんな訳で

あたかも自分には平穏な老生活が約束されたかのように「ニートで老後はどうするの?」と聞かれても、「老いた後は僕もあなたも苦しんで死ぬだけですよ」としか答えようがない。

我々にできる「老いの恐怖」に対するせめてもの抵抗は、今を楽しく生きることのみである。

と、あなたにも伝えたい。

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