天国に行く夢をみた。
夢の中で自分は死んだことになっていたのである。
あの世の光景はこんな感じだった。
・巨大なプールアトラクションが無限に広がっている。流れるプールやウォータースライダーなど。
・人間は自分しかいない。
・雲ひとつ無い快晴で鳥の鳴き声だけする。
・一方には巨大な多肉植物が生えていて花を咲かせている。その更に向こうには山々が見える。
・もう一方には海と水平線が続いている。
もちろん、これは自分が作り出したイメージである。
自分の中の天国は誰ひとりいないプールで過ごすことなのだろうか。
そんなことを考えてみるのも面白い。
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昔の人々は本当に死んだら天国に行けると信じ込んでいたという。
科学教育によって育った我々とは違い「大マジのガチで」ということだ。
生活レベルは低かったのかもしれないが、それはそれで幸せな在り方であったのだろう。
自分は特定の宗教や神様を信仰している訳ではないが、そのような価値観を決して否定するつもりはない。
現代の資本主義だって、「価値を生み出すもの(資本)を信仰している」ということだ。昔の人々と対して変わらない。
みんなお金を必死に集めれば天国に行けると思っているのだ。
自分だって実に現代的な天国(自然に囲まれたリゾートプール)をイメージしたものである。
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ふんわりとした話だと「イデア論」が好きだ。
イデア論とは「我々の世界とは別に、理想の世界(イデア界)が存在している」という論説である。
イデア界に存在する、理想の存在をイデアと呼ぶ。
例えば、この世に理想の三角形は存在しないだろう。
△←この記号だって拡大していけば、ドットで歪み、完璧な三角形ということはありえない。
ただ、我々が不完全な三角形を、三角形だと認識できるのは、イデア界に理想の三角形が存在し、その影響を受けて、この世界を観ているからだという。
もちろん、イデア界には「正義」や「美しさ」なども存在する。
イデア論を提唱したプラトンは、そうした理想の何かを追求していこうよ、と提唱したのだ。
「そんなのただの妄想やんw」と思う人にはこんな説明もある。
三角形の内角の和の定理(どんな三角形でも内角を全て足すと180°になる)がある。
→ 人間が存在しなくても、その定理は存在するだろうか?
→ おそらく、するだろう。
→ どこに、存在するのか?
→ 数学界?もしくはイデア界である。
人はイデア界から「なにか」を掬い上げているに過ぎない、といったイメージだろうか。
(より要約)
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イデアの世界があると思うとちょっと救われるような気持ちになる。
自分は「自我とは、肉体と環境という条件が揃ったことによって発生した現象」にすぎないと思っている。自由意志は存在しない派だ。
それでも現世に因らない影響、例えば、それこそイデア界の影響を人が受けているのだとしたら、人間の可能性は変わってくる。
本当にあるのか?ということはさておき、「”絶対的な何か”を追求する」という姿勢も嫌いじゃない。
イデア界には理想のニートも存在するのだろうか。
自分は理想の社会にはそもそもニートが存在しない、もしくは全員がニートである。と考える派だ。