このところ、死に関するツイートばかりしている。
梅雨で憂鬱になっているのだろう。
低気圧、高湿度。
客観的に考えれば、それだけだ。
「なんかダメだな」って時はスーパー銭湯に行ってサウナに入れば大抵どうにかなる。
でも、家から出ることができないから「なんかダメ」なのだ。
救急搬送のガラガラみたいなヤツで銭湯まで運んで欲しい。
もしくは這っていく、ナメクジみたいに。
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さっき、自分のブログを読み返していて、自分の文章のことがあまり好きじゃないな、と思った。
分かりやすくて、読みやすいとは思うのだけど、「みんなが読みやすい文章」「人に評価されるための文章」といった感じが鼻についてしまう。
裏テーマとしては「鬱でも読みやすい文章」があるから、あながち間違っている訳ではないのだけれど。
自分は、人に評価される為に育てられてきたし、それに順応するような性格を持ち合わせてしまったと思う。
ヒステリックで教育的な母親の顔色を伺うことを続けて、学校では分かりやすく、評価されるレポートを書き続けてきたような。
もちろん、人に評価されるというのは良いことでもあるのだが、自分の生き方が染み出してしまっているようで、やるせない気持ちになる。
相互フォロワーで、よくブログを読んでしまう方がいるのだが、文章の途中にも「ふあああああああ」といった言葉にもならない素の呻きが書かれていて、すごくいいなと思った。
ニート気質の人の文章は大体おもしろい。
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フォロワーが増えすぎてしまったのも、あまり良くないのかもしれない。
期待されると、それに応えるようなことを行わなければならないという強迫観念に駆られる。
小さい頃から「期待されること」を押し付けられ続け、誰にも相談できることなく、生きてきたからだ。
フォロワーが多いといえば、インフルエンサーの人も大変だなと思う。
例えば、ぷろおご氏の言っている内容は基本的に好きなのだけれど、この前、産婆術で反出生主義の人々をボコボコにしてたのはあまり好きじゃないなと思った。
(産婆術:古代ギリシアの哲学者、ソクラテスがよく用いた問答法。簡単に言うと
相手「〜は◯◯だ!」
ソクラテス「◯◯って何w?」
相手「◯◯は△△だ!」
ソクラテス「△△って何w?」
を相手が詰まるまで続けるというもの。議論のように見えるが、高台の上から一方的に石を投げつけているようなものなので、負ける訳がない。ソクラテスはこれで政治家たちをボコボコにしまくって怒りを買い、死刑になった)
インフルエンサーでいるためには、常に「エンターテイメント」であることが求められるのだと思う。
そうしたギラギラした雰囲気が苦手だ。
知名度を上げるためとはいえ、「生まれてこなければよかった」なんて思ってしまうような人々を踏み台にするのはいかがなものなのだろうか。
ただ、まあ、これに関しては反出生の人ももうちょい考えた方がいいとは思った。
あんな頭がキレるアルファアカウントに中途半端なリプライを送っても晒されるだけに決まっている。
結局、人間は「人にどう思われるか?」ということからは逃れられないのかもしれない。
自分は世間体の為に無理にサラリーマンとして生きるなんてくだらないなー、とは思うけれど、ニートたちだって「インターネットおもしろ人間」として認めてもらおうと必死だ。
人間として生きている限り、どうあがいてもある種の「めんどくささ」からは逃れられないのかもしれない。
「自分以外の人間が全員死ねば、あらゆる悩みは解決する」という話を聞いたことがある。
だけど、それだったら自分だけ死んでしまった方が手っ取り早いのではないだろうか。
ただ、死ぬのもめんどくさいな、と思う。
痛いのとか嫌だし。
別に、「生きてることは素晴らしい」とか「死ぬのは悪いことだ」とか言うつもりは無いけれど、ある意味、人生に付きまとう「だるさ」によって、死なずに済んでいるという側面もある。
生きるのもだるいし、死ぬのもだるい。
そういう人は寝そべりながら、インターネットでプカプカするような余生を送るしかないのかもしれない。