当たり前の話なのだけど、みんなそれぞれ違う世界を見ているんだな、と思った。
自身の持つ色眼鏡を通じて、見聞きし、そこに生きている。
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「クオリア」の話が分かりやすいかもしれない。
クオリアというのは、脳が主観的に感じる質感のことだ。
例えば、リンゴを見た時に感じる「赤さ」がクオリアである。
物理的に考えると、「リンゴを赤い」と感じるのは、リンゴから反射した赤色の波長の光が、我々の目に入り、脳内で電気化学的な信号として「赤い」と処理されるからだろう。
けれども、それは物理的な説明であって、「脳というめちゃくちゃ複雑なパズルが”赤”を示す特定の状態になった」=「我々の意識が”赤”を認識する」、ということはどうしても説明できない。
これがクオリアの問題だ。
そもそも、全員が見ている「赤い」は同じなのだろうか?
「この文章に引かれているラインは赤色ですか?」と尋ねたら全員が「YES」と回答すると思う。
ただ、それぞれが認識している「赤」が同じなのかどうかは分からない。
こんな例えはどうだろう。
男女二人組が温泉旅館を訪問した。
二人はそれぞれの大浴場に入った後に、感想を語り合うのである。
「あの温泉気持ちよかったよねー!」「露天風呂が最高だった!」
そんな会話をして、盛り上がるのだが、厳密に言えば、二人が体験したものは別物なのだ。
風呂の内容は同じものとして、男女では大浴場の造りに差異があるだろう。
全く同じものに対して、全く同じ体験をしているということはありえない。
けれども、我々は「全く同じことを共有しているつもり」で、コミュニケーションを行っているのである。
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ちょっと脱線してしまったので、本題に戻ろう。
人はそれぞれ違う価値観を持って、この世を捉えているという話だ。
確か、寝太郎氏の本で読んだ気がするのだが、「死」というのは我々の価値観を浮かび上がらせるジョーカーのようなものらしい。
「どうせ死ぬのだから…」
と考えてみると、自分の価値観がよく分かるのだという。
「どうせ死ぬのだから、楽しく生きよう」
「どうせ死ぬのだから、人生は虚しい」
人によって回答は千差万別だろう。
文章では表現しきれないかもしれないが、全く同じ価値観を持っているという事はあり得ないはずだ。
そして、それは「この世」の捉え方にも影響する。
ある研究結果で「健常者と鬱病患者では、見えている世界が違う」というものがある。
他の例では、水が半分入ったコップに対して、ポジティブな人は「まだ半分もある」と、ネガティブな人は「もう半分しかない」と評価するのだという。
人々は自分の持つ価値観に合わせて、この世を「見たいように見ている」ということだ。
そんな我々では、日常的に争いが起きるのは当たり前である。
「あいつは明らかにおかしい!理解できない!」
そんなのも当然の話だ。見えている世界が違うのだから。
それぞれの持つ価値観をぶつけ合って、我々はこの社会を生きている。
なんだか、異種格闘技戦のようだな、と思った。
「プロレスvs相撲」!
「仏教徒vsメンヘラ」!
みたいな。(観たいな)
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自分の好きな作品で『喧嘩稼業』という漫画がある。
「刃牙の異種格闘技トーナメントをハンターハンター的な心理戦でやる」のような漫画だ。
作品の重要なテーマとして「最強の格闘技は何か?」というものがある。
その中である登場人物がこんなことを言っていた。
一つの道を究めた先に最強はあるのか
あるわけがない
他競技・他流派のいいものは取り入れる
己が流派の形にこだわり
進化を拒んだ競技は最強たり得ない
打・投・極のすべてを学んだ上で
己の資質にあった格闘技を選択
抽象的な表現で答えが複数存在する事になりますが
その選択の先こそが紛える事のない最強の格闘技
マンガ的には、すごい無難でつまらない答えではあるけれど、言っていることは間違っていないと思った。
「どんな価値観を持って生きるのが正解なんだろう」
「真理を追究したらどのような価値観になるのだろう」
そんなことについて迷い考え込んでしまう時もある。
けれども、特定の何か一つを極めることが正解とは限らない。
「誰にとってもこれが絶対的に正解」という、哲学や宗教、価値観はあり得ないのだ。
最強の格闘技じゃないけど、最強の価値観(心の在り方)を持ち合わせる為には、いろんな本を読んだり、様々な人生体験を積んでいく中で、必要だと思ったものを取り入れていくべきなのだと思う。
まさしく、己の資質に適したものを選択するような。「魂の骨格」に適したスタイルと言ってもいい。
生まれ持った身長や体重によってベストな戦い方は異なるはずだ。
そのように、魂(現代的に言えば生まれ持った脳の造り)にも自分に適したスタイルが存在するのではないだろうか。
仏教徒として生きるのが一番魂が輝く人がいれば、メンヘラとして生きるのが一番魂が輝く人もいる。
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そんな訳で我々は「全く同じ世界」を共有することはできないが、殴り合うことはできる。
というか殴り合いでしか、お互いを理解することができない。
この文章だって、一種の「暴力」だ。
「分かるわー」と受け止める人もいれば、「スカしてムカつく」と反撃してくる人もいるだろう。
それでいいんじゃないだろうか。
ぶつかり合いの中で散る火花みたいなものが、人間らしさなのだ。
自分は「寝そべり流」として、脱力的に人生を極めていこうと思う。