他人に心など無いと考えた方が、やさしくなれる

ネットサーフィンをしていたら、このようなツイートを見かけた。

なるほどなー、と思った。

「心は観察する側に宿る」

「極端に言えば、人に心はなく、人は互いに心を持っていると信じているだけだ」

その通りなのかもしれない。

我々は「自分には心や感情がある」→「同じ人間で同じ振る舞いをする他の人々にも心があるはずだ」という推論で、「みんな心を持っている」という当たり前をやっているのだ。

他者への思いやりはもちろん必要な道徳である。

ただ、これは言い換えてしまえば、「色眼鏡」でもあるな、と思った。

良くも悪くも、一種の偏見ということだ。

よくある話で、「高度に発達したロボットは人間と見分けがつかなくなる」というものがある。

そして、逆に言われているのは「人間というのは物凄く高度な有機ロボットのようなものでしかない」というものだ。

脳や人間の仕組みはものすごく複雑だけれど、インプットとアウトプットを繰り返して、自律的に行動するコンピューターのようなものとも言えるだろう。

有機物/無機物のようなカテゴリ分けさえあれど、その辺の石ころとコンピューター、そして人間。これらは「どれだけ複雑な振る舞いするか」という違いでしか無く、存在としては対して変わりのないものなのかもしれない。

たまにインターネットで「自分以外もしかして高度な人工知能なんじゃないかと思う時があるw」という書き込みを見かけるが、それはある意味で正しい捉え方だ。

アニメや漫画において、サイコパス的なキャラクター表現として、「他者の心や感情など存在しないと認識している」ような描写が行われているのを見たことがあるのではないだろうか。

そうして、主人公や我々は「人の心が無いのはオマエじゃい!」などと糾弾するのだが、本当に世界を正しく認識しているのは”サイコパス”の方だとも言えるはずだ。

「他者の心」など、我々が「あるだろう」と思い込んでいるに過ぎないのであって、それはある意味「価値観の押し付け」でしかないのである。

他人に熱湯シャワーを浴びせて「俺は全然熱くない!」と断言する肉蝮氏。(『闇金ウシジマくん』より)

仏教的に言えば、「人は見たいように世の中を見ている」らしい。

そういう何重にも重なった「色眼鏡」を外して、世界を正しく認識していこうよ、ということだ。

そういう意味では「他者に心がある」というのは一種の色眼鏡なのである。

ただ、ここで主張したいのは「サイコパスのように、他者の気持ちを一切配慮しないような行いをしていこう」ということではない。

「他者に心など存在しない」と「やさしさ」は両立するはずである、と自分は考える。

それはこの世のあらゆるものに慈しみを持とう、ということだ。

おそらく、植物に感情はない。だからといってむやみに理由もなく、踏み潰したり、刈り取ることをするだろうか?

コンピューターだってそうだ。コンピューターに感情は存在しない。けれども、むやみに乱雑に扱ったりすることがあるだろうか?

おそらく、人間だって「とても複雑な有機コンピューター」であって、主観的に考えれば感情など存在しないのだ。

だけれども、むやみに傷つけることはしないだろう。

「人に優しく」という薄っぺらい道徳ではなく、「他人に心など存在しない」という認識をすることによって、もう一段階上の「やさしさ」を持ち合わせる。

そんなことが可能なのではないかと思う。

例えば、「苦手だな」とか「嫌だな」と思うような人がいたとしても

「そういう振る舞いをする存在なんだなあ」

「彼/彼女も一生懸命に生きてるんだなあ」

という、俯瞰的な認知が可能なのである。

有機ロボットが何か音声を吐き出したとしても、ただ、それだけのことなのだ。

なにも自身の心を削ってまで、真摯に対応する必要などない。

他人に心など無いと考えた方が、一回り大きく、やさしくなれるのではないだろうか。

…と、あなたにとっては心が無いように思える存在が主張してみる。

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