生まれてしまったことは本当にめんどくさい

「生まれてこない方がよかった」とは言わないが、「生まれてしまったことは本当にめんどくさい」と思う。

我々は勝手にこの世に生み出され、決して思い通りにならない人生を歩み、老いて、病気になって、死んでいく。

たまに、反抗期の青年が親に対して「産んでくれなんて頼んでない!」とキレるようなシーンをテレビドラマなどで見かけることがある。

大人たちはその様子を見て「まだまだ青いなあ」とか「自己中心でまだ子供だなあ」などと考えるのかもしれないが、青年の言っていることは何一つ間違っていない。

我々は望んでもいないのに、一方的にこの世に生み落とされ、生老病死の苦しみを味合わされるのだから。

生まれる肉体や環境を選べないということも非常に残酷だ。

現代に生まれた我々はまだマシである。

呑気に「人生はめんどくさい」と言えるのはかなり恵まれている方ではないだろうか。

古今東西、逆らうことのできない自然の摂理や時代の流れ、近年で言えば戦争や飢餓によって「何のために生まれてきたのか分からなかったような人たち」「苦しみだけを受けてこの世を去っていった人たち」はたくさん存在したはずだ。

全ての生物に当て嵌めれば、そんな存在が大半を占めるかもしれない。

「生まれてしまう」ということはこんなにも惨たらしい。

さらに言ってしまえば、我々の「生」にはなんの意味もない。

いずれは人類も、地球も、宇宙も滅んでしまう。

全ては無意味で虚無なのだ。

それなのに、多くの人々はなぜか「生きること」を当たり前のように肯定している。

そんなものは何かに酔っ払ってるとしか思えない。

思うに、生の本質は「苦(死)」であるのだが、それから逃れる反作用の特典のようなもので「快」が用意されているのだろう。

「生まれてしまう」ということは、例えるならば、中央に死が待ち構える蟻地獄に落とされてしまったようなものなのだ。

何もしないとそのまま下に落ちていくのだが、これには苦痛が伴い、最終的に死に飲み込まれてしまう。

それを避けるためには、他の生命を踏み台にしてでも、必死に上に這い上がろうとする他に無いのだが、この「上に上がる」という動作が快楽と紐付けられているのである。

分かりやすいものだと「食べる」ということだろうか。

自然界の弱肉強食に限らず、人間社会においても、「弱者を蹴落とす」や「権力を得る」など、生存や繁殖に有利な事柄が「快楽」と結び付いている訳である。

それにしても、人間として生まれてしまった時点で「これが気持ちいい」とか「これが不快だ」とか言うことが既に決定されてしまっているのは、本当にくだらないことだと思う。

言ってしまえば、快楽や苦痛、現代的に表現するなら脳内物質によって、我々は「意味のないレース」を頭上にニンジンをぶら下げたウマのように、飴と鞭で走らされているだけなのだから。

そして、頑張ったとしても最終的に力尽き、レースから脱落して、死という名の蟻地獄に飲み込まれることは免れない。

ああ、生まれてしまったことは本当にめんどくさい。

 


それでも我々は、めんどくさい人生を、死の待ち受ける蟻地獄を、無意味なレースを歩んで行かなければならない。

いったいどうすればいいのだろう。

まず、真っ先に思い浮かぶのは「さっさと死んでしまえばいい」ということである。

それも1つの選択肢だ。別に主体的に死を選ぶのは咎められることでもない。

難病によって苦痛しか続かない人、どうあがいても生きているのが苦しいだけの人、そんな人々にとっては救いですらあるだろう。

ただ、自分のような「めんどくさいから死にたい」という人はちょっと思い止まってみてほしい。

「我々が生まれたことは奇跡である」

…などと言うと急に偽善的なことを言い始めたように思えてしまうかもしれない。

けれども、”我々が天文学的な確率の上に存在している”ということは間違いない事実だろう。

それが「超幸運」なのか「悪魔的不運」なのかは分からないが。

若いうちに「めんどくさい」という理由で、この非常に稀な現象を手放してしまうのは、早急すぎる判断だと言える。

主体的に生きること(生まれること)を選択するのは不可能だが、主体的に死ぬことなんていつでもできるのである。

そう。死のうと思えば、いつでも死ねる。

だからこそ、「とりあえず生きておく」という選択肢を選んでおくこともアリではないだろうか。

そうしたのならば、「とりあえず、どのように生きるか?」という問題にシフトする。

ある哲学者の本にはこのようなことが書いてあった。

「生きることは無意味である。けれども、『無意味である意味』、すなわち”真理”を追求することによって強く生きることができる(要約)」

なるほど。確かに、快楽や苦痛、幸福や不幸を基準とした人生は虚しいものだが、「真理の追求」を目的とすることによって、新たな人生の軸を設定することができると。

これは言ってしまえば、「”ある要素”を変換することによって個人特有の快楽を得る方法」であるが、単純な”快楽と苦痛”を目安にした生き方よりは「人間らしい」のかもしれない。真理を追求する為には苦痛も厭わないのだから。

これは”哲学的な真理”に限らず、スポーツや芸術においても、”極み”のような言葉で表現できるのではないかと思う。

「そこに到達するには苦痛が伴うが、それでも真理や極みを追求する為に生きる」

「生きることの無意味さ」から目を背け、何かに酔っていることには違いないが、それでも単純な快楽/苦痛を目安に生きるよりは高尚な在り方であるのかもしれない。

ただ、上記の生き方は「強い人」向けなのである。

何か才能があったり、それに打ち込めるだけのエネルギーを持ち合わせているような。

無気力で”人生に酔えない”ような人が、「とりあえず生きていく」にはどうすればいいのだろう、ということについても考えてみる。

ここで主張してみたいのは、貪欲に快楽を目指すのも、悟りを求めて積極的に苦痛を得るのも、”めんどくさい”ということだ。

足るを知る。「暖かい飯を食べて、暖かい布団で寝れるならばそれなりに幸福である」と認識することが、とりあえず無気力な人でも生きていける方法ではないだろうか。

このような自分の考えには古代ギリシャの哲学者、エピクロスの快楽主義がバックボーンにあるのだが、そのエピクロス曰く

「どのような快楽も、快楽自体が悪ということはないのだが、不必要な快楽を追求することはそれ以上の苦痛が伴う(要約)」

と述べている。快楽主義の詳細については過去の記事を参考にしてほしいのだが、エピクロスの”必要な快楽”と”不必要な快楽”とは

必要な快楽→質素な衣食住、健康、人との繋がり、など

不必要な快楽→豪華な家や食事、地位や名誉、など

のことである。

つまり、現代で言う俗っぽい”不必要な快楽”といえば、「バリバリ働いて、偉くなって、たくさんお金を稼いで、タワマンに住んで、高級車を乗り回して、パートナーをとっかえひっかえする」のようなイメージだろうか。

確かにこれらは”快楽”であるのだが、0からそこに至るまではとんでもない努力や苦痛が必要となってくるはずだ。

そのような在り方を否定する訳ではないが、そういう人々は生まれ持った肉体や環境が我々と違うように思う。恐ろしくエネルギッシュだったり、エリートの家系に生まれたような。

無気力人間からしてみれば、「寝てるだけで充分に幸せ」ということに気づいた方がコスパは良い。

それに「タワマンで暮らす」というのは極端な喩えだったかもしれないが、普通に正社員として働いている人も、ちょっとおかしい状態の人が多いように思う。

必要以上に働いて、必要以上に消費をする。ストレスを打ち消す為に、無駄に金を使ってしまうような。

人間に「穴を掘らせて、その穴を埋めさせる」という無意味な作業をやらせ続けるとおかしくなってしまうと言うが、現代人の在り方もそれに近しいものを感じてしまう。

少し脱線してしまったが、ここで分かりやすく箇条書きで「とりあえず、めんどくさい人生をそれなりにやり過ごす方法」をまとめてみる。

世界観は「死が待ち構える蟻地獄」で再生してみてほしい。「下がると苦痛、上がると快楽」というやつだ。

・必要以上に快楽を求めること、すなわちむやみに上に登ろうとする行為は、それ自体に「苦痛」が伴う。(現実でもボルダリングは疲れる)

・そのように「真理」や「極み」を求める人もいるが、わざわざ死や苦痛に向かう必要はない。

・必要最低限の快楽(衣食住、健康、人との繋がり)で満足するのがよい。

さらに言えば、しょぼくても「真理」や「極み」を追求するようなライフワークがあればよいかもしれない。

砂地獄の位置、つまりは快楽/苦痛の縦軸に因らない幸福、そんな+αで”人生の酔い”を嗜む程度に楽しむ。

例えば、自分が趣味で文章を書いているのもそうである。別に究極を目指しているようなものではないが。

「我々にこのような意識が発生していることは、天文学的な確率で奇跡である」と先程に述べた。

しかし、だからといって「命を大切に扱う」必要はそこまで無いと考える。

なんとなく誕生させられてしまったのなら、なんとなく生きればいいし、なんとなく死んでもいい。

真面目に生きないことが、このめんどくさい世の中への当てつけになるのではないだろうか。

 


最初に「生まれてこない方がよかった」ではなく、「生まれてしまったことはめんどくさい」と述べたのは、何かに夢中になることを”酔い”などと厭世的に皮肉ってみたものの、それに対して「生きててよかったー」と思えるような気持ちの存在を否定することはできないからである。

(逆に言えば、それぐらいでしか生を肯定することはできない)

自分の根底にあるものは、完全にネガティブなのだが、それを踏まえた上で「どうせ生きていくのなら、ある程度のポジティブでいた方がいい」という心持ちに至った。

「酔っ払う」のも悪くない。

問題は「快楽と苦痛の上下」に人生の主体性を奪われてしまうことにあると思うのだ。

自分のように心の弱い人間は、なるべく大きな快楽や大きな苦痛を避けて、小さな幸せを嗜むことが、この世をベターに生きていく方法なのではないかと考えている。

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