ニヒリズムは二刀流でもいいじゃない

昨日、こんなツイートをした。

インターネットの住民なら分かってくれたかもしれないが

このような「ビジネス系アカウントによる気付き列挙ツイート」のパロディである。

日常的なライフハックよりも、よほど人生における”本質情報”を述べたつもりなので、本来なら99億回リツイートぐらいされてほしいものだ。

「全てのものごとに意味や価値は無い」

「自分の存在も含めて全ては無価値である」

このような思想をニヒリズム(虚無主義)と呼ぶ。

ニヒリズムの代表的な哲学者であるニーチェは、ニヒリズムに対して2つの姿勢が存在するとした。

それは「弱いニヒリズム(受動的ニヒリズム)」と「強いニヒリズム(能動的ニヒリズム)」である。

弱いニヒリズムとは

「無意味な人生や世の中を悲観的に捉える」

「どうせ無意味なのだからと自堕落に陥る」

「夢や目標を持たず、トラブルを避け、時間を潰す為に生きる」

のような価値観のことである。

ニヒリズムという言葉を知らなくても、現代ではこのような生き方に陥っている人は少なくないはずだ。

ニーチェはこのような人々を「末人(まつじん)」と呼んで批判をした。

一方、強いニヒリズムとは

「無価値であっても、それを肯定していく」

「一瞬一瞬を強く生きる」

「無価値だからこそ、自分で新たに意味を見出していく」

のような価値観のことだ。

ニーチェは、人生の無意味さを受け入れた上で、それでも”この瞬間”を肯定し、強く生きる人間のことを「超人」と呼んだのである。

なるほど。ニーチェの言っていることも分かる。

あらゆるものごとが無意味だからって、無気力に陥るのが正しいとも思えないし、時間を潰す為だけに生きるような人生もなんだか間違っている気がする。

けれども、「一瞬一瞬を強く生きる」なんていうのも、ちょっとめんどくさいように感じてしまう。

ここからは哲学でもなんでもなく、ただの個人的な持論であるのだが、ニヒリズムは「二刀流」でもいいのではないだろうか。

自分もニヒリズムやニーチェの思想には救われた。

今ではそこそこハッピーに暮らしているが、ニートになったばかりの頃は、現代社会的な価値観に囚われ、「自分はダメ人間なんだ…」という意識に苦しめられたものである。

そんな中、ニヒリズムの「社会の価値観は誰かに作られた相対的なものにすぎない」のような考えには助けられたように思う。

まず、誤魔化してはいけないのは「全ては無意味」ということである。

これはある種の「真理」のようなものだ。

ここを偽ったり誤魔化したりするのは間違いであり、後々に苦しむことになるだろう。

だけれど、強いニヒリズムだけが正しいとは思わない。

弱いニヒリズムだっていいじゃないか。

これらは改名をするべきなのだ。

弱いニヒリズムではなく、「柔のニヒリズム」。強いニヒリズムではなく、「剛のニヒリズム」などどうだろうか。

社会で落ちこぼれたり、ブラック企業に追い詰められたりして、死にたくなったのなら、柔のニヒリズムによって、「全て無意味なんだからテキトーに生きてもいいじゃない」と考える。

一方、何かにチャレンジしたりするときには、剛のニヒリズムによって、「全て無意味なんだから好きなことをやろう」と考えればいいのだ。

強いニヒリズムというけれど、現代を生きていく為には、「柔と剛を自在に使いこなす」ような”強さ”が必要であるように思う。

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