5日間ぐらい死んでいた。
年に1,2回レベルの強い抑うつが襲来してしまったのである。
元々自分は鬱でニートになり、引きこもり生活を送っていた。
ここ最近は、バイトをしたり、文章を書いたりできるぐらいには回復したが(それでも慢性的にはだるい)、突然ガクンと激しい鬱が再発してしまう時がある。
よく言われているのは、鬱は快調と不調を繰り返しながら、波のように回復をしていくということだ。
“鬱の波”に飲み込まれるとどうすることもできない。
今回は本当に「存在しているのが苦しい」というレベルであった。
落ち込みを誤魔化すために、地元の好きなメシ屋に行ってみたりもしたが、全ての喜びがニセモノのように感じてしまうのだ。
「確かに、料理はうまい」「でも、だからなんなんだ?」
プラスチックを食べているような感覚だった。
自身が厭世的な価値観を持ち合わせてしまっているのも、あまりよくないのかもしれない。
「このまま快楽と苦痛の飴と鞭でせかせかと生かされて一体何になるんだ」
「さっさと首でも吊って死んでしまおう」
実感が思想になるのか、思想が実感になるのかは分からないが、それらが強く一致した時、人間は行動に移る。
今回は死ななかったけれど、それは果たして”良いこと”なのだろうか。
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自分は別に「こんな世の中死んでも構わない」と考えているのだが、何かに役立つかもしれないので、重度な鬱、または突発的な激しい鬱をしのぐ方法をここに記載しておく。
それはひたすらに「抵抗しないこと」である。(ストレス源からは既に逃れていることを前提として)
鬱は波のように回復していくと先程に述べたが、その波を予測したりコントロールすることは難しい。
鬱に飲み込まれている時に暴れたり、アクションを起こしてみても、さらに溺れてしまうだけなのだ。
正解は静観であり、「ああ、今は激しい鬱に飲み込まれているだけなんだな」とメタ認知をすることが大切なのである。
波に身を任せておけば、いつかは回復方向に流れが変化する。なんだかんだ、鬱になってしまったとしても、人間は生きるように設計されているのだ。
別の例えで言えば、天災のようなものかもしれない。
例えば、大嵐が来ているのに、外に出て「止まれバカヤロー!!」と叫んでも何の意味もない。
逆に、物が飛んできてぶつかったり、川に流されたりして死んでしまうこともあるかもしれないだろう。
このような場合は、嵐が明けるまで、家でじっとしているのが正しい、と誰だって答えるはずだ。
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『鬼滅』でラスボスの無惨が「私に殺されるのは自然災害に遭遇してしまったようなものだと思え」、と主人公たちを煽るシーンがちょっと前にインターネットで話題になっていた気がする。
悪役としてヘイトを買うためのセリフなのであろうが、自分はこの「無惨理論」が分からなくもない。
あらゆる物事に対して、「なぜイラつくのか?」と考えてみると、それは「コントロールできると思っている物が、コントロールできないから」である。
大嵐に「止まれバカヤロー!!」と叫んでいる人がいたのなら、それは狂人であるが、自分は他人に対して「バカヤロー!!」と叫ぶ人もそこそこおかしいと思ってしまう。
なぜ、「自然はコントロールできない」と多くの人が認知しているのに、「自分」や「他人」はコントロールできると考えてしまうのだろうか。人間だって自然の一部であるはずだ。
「実際に人間は指示を出せばコントロールできるじゃないか」と言う人もいるかもしれないが、運命論的に考えてみれば「地球に人間が誕生すること」「人間が社会を成立すること」「その社会で人が人に指示をすること」さえ、自然の流れによって決定されており、コントロール不能なことかもしれない。
ブッダさんは「一切皆苦」、つまり「この世は全く自分の思い通りにならんよ」と言ったが、やっぱりセンスあるなー、と思う。
悲しくて厭世的な教えであるようにも感じてしまうが、自分はむしろ気が楽だ。
自分も他人も社会も災害もどうすることもできないのだから、自然の流れに従って脱力的に生きればいい。
あらゆるものは思い通りにならない、だからこそ、あらゆるものにイラつくこともない、という感覚である。
自分の激しい鬱の波だって「自然災害」のひとつなのだ。
コントロールできないものに対しては「脱力してやり過ごす」しかないだろう。
…とはいえ、言ってしまえば、「生まれてきてしまったこと」が最大の災害なのかもしれないが。(厭世ジョーク)