虚無だけど、とりあえず生きる

俺が働いて、俺の口座に金が振り込まれて、俺が美味いものを食べて、俺が満たされて、だから何なんだ

あー、すごい分かるなー。

生活を営んでも、だから何なんだ、という虚しさ。

現代人はこういったニヒリズムに陥りがちだと思うし、自分も散々悩んだけれど、結論としては「とりあえず、生きてみる」かもしれない。

「人生に意味はない」というのは、ある種の真理のようなものだと思う。

つまり、「人生に意味はない。けれど、そこからどう生きるか?」というテーマに自然と行き着くことになる。

よくありがちなのは、「人生に意味はない。だからこそ自分で意味を見出す」というものだ。

家族、仕事、趣味など「人生の意味」になるものは多数あるように思う。

これは自分の中だと、「信仰」に分類される。

ある本で「虚無観から抜け出すには、宗教か哲学をやるしかない」と読んだことがあるのだけれど、何か特定の価値観に意義を見出して、それに熱中するのは、信仰だと言ってもいいだろう。

このような生き方も人生の答えの1つだと思うが、ある意味ニーチェが唱えたニヒリズムの議論に堂々巡りしてしまっていると言えなくもない。

ニーチェはキリスト教の価値観、又はそれに従って生きている人々に対して「神は死んだ」と言った。

つまり、当時の人々の多くは「神によって創られた人間には、当然生きている意味がある」と考えていたのだが、「人生に意味はない」と言ってしまったのである。

これは現代の信仰にも、同じことが言えるはずだ。

「家族、仕事、趣味に熱中したところで、それらには意味がない」のだと。

家族も死ぬし、仕事も死ぬし、趣味も死ぬのだ。

(念の為言っておくと、自分は別にそのように「生きがい」を見つけて生きている人々を否定したい訳ではない)

そうなると次に思い浮かぶのは、「人生に意味は無い。それならば、さっさと死んでしまおう」ということだ。

別に間違っているとは思わないし、むしろ、一番正しいのかもしれない。

けれど、自分はシンプルに「苦しんで死ぬのは嫌だなー」と考えてしまう。

人はなぜ自ら死んでしまうのだろう。

以下のような”自死の公式”を考察してみた。

「生きてる苦しみ」-「生きてる喜び」+「死への衝動」>「死の恐怖」+「死に至るまでの苦痛への恐怖」

生の苦しみが生の喜びによってかき消せない程であり、それが死に対する恐怖や苦痛を上回った時、そこに衝動が加わると死んでしまう。

こう書き起こしてみると、虚無人は案外死なないのではないかと思った。

むしろ、エネルギッシュな人の方が、激しく苦しみ、衝動的に死んでしまうような。

生きてる苦しみはあるが、喜びが無いわけでもない(苦しみも喜びも等しく虚しい)。そして、別に衝動的でもなく、死に対してはそれなりに恐ろしいと考える。

将来は「人生に意味はない!人生に意味はない!」と言いながら町内を徘徊する老人になる可能性がある。

何かに熱中するのもダメ、自ら死ぬのもダメとなると、タイトルで述べた通り「虚無だけど、とりあえず生きる」ことになる。

なぜそのような結論に至ったのかと言えば、「人生は分からない」こと。そして、「虚無の先に何があるのか」を知れるかもしれないということだ。

Bライフ先駆け人の寝太郎氏の本で印象的だったのが、インドでマリファナ入りクッキーを食べた話である。

翌朝、昨晩の経験を冷静に思い出してみるに、第一に思ったのは「遠い昔に、あんな世界に住んでいた」という感想だった。他人の目線もなく、死の視線すらなく、「この世界は自分の世界だ」という感覚があるだけだった。

まだ自分自身がそのまま一個の存在であった頃の、目の前の現実にどっぷりと没入するだけの未熟な幸せ、それが麻薬の幸せだった。

それは、なぜ僕が今生きていて、そしてなぜ死ぬのかという問いに答えるものではなかった。単に死の人格を切り捨て、死についての問いが生ずる前の状態に退化してしまうに過ぎなかった。

余っていたバングークッキーはガンジス川に捨てた。

『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか』

寝太郎氏の「死」に対する問いと、自分の悩みが同じものであるとは言わないが、人間とは、生きていれば虚無や絶望をいずれ味わうものだと思う。

自分にとっても、この虚無感を誤魔化して生きるのは、子供に戻ろうとしているようなものであり、正しいことであるとは思えなかったのだ。

史実上でもフィクションでも、不老不死を求めた人々は多く存在するけど、そんな存在になってしまったら虚しくて虚しくて仕方がない気がする。

例えば、不老不死まで行かなくても、千年や1万年生きた人のメンタルはどのようになってしまうのか。

植物のような精神領域に突入するのか、悟りを得た生きる即身仏のようになるのか。

自分はそんなに長生きする訳ではないけれど、人生は心境も含めてどうなるか分からない。

分かりやすく言ってしまえば、「虚無を抱えたまま生きた人間はどうなるのか?」という疑問を検証する為でもあるのだ。

虚無の向こう側に何か次のステップが存在するのか。それとも、虚無はどこまで行っても虚無なのか。

とりあえず、自分は死にたくもないし、行けるところまで、ポジティブでもなく、ネガティブでもなく、虚無人としてぼんやり生きていこうと思う。

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