運命論から考える「自分=世界」

今回の日記は若干スピっているような内容であるので、話半分ぐらいに聞いてほしい。

最後に怪しいツボを売りつけたりはしない。

「親ガチャ」というワードがここ最近流行している。

つまり、裕福で美形の家庭に生まれれば恵まれた人生を送れる可能性が高いものであるし、貧乏で醜形の家庭に生まれれば不幸な人生を送る可能性が高い、ということである。

これは何しも日本国内に限った話ではない。

先進国に生まれれば、高水準な文化や社会のセーフティーネットに囲まれながら生きることができるだろうし、発展途上国に生まれれば疫病や無茶な労働、治安の悪さから事件に巻き込まれて死んでしまうことも多いだろう。

個人の感想を言わせてもらえば、親ガチャは間違いなく「ある」。

こんなことを言うと、大人たちは「なんてことを言うんだ」「どんな親でも育ててもらったことを感謝しろ」と言うかもしれないが、そうやって臭いものに蓋をし続けても仕方がない。

親ガチャの存在を認めた上で、「どう生きるか?」「どのような社会システムにすればいいのか?」と考えていくことが大切なのではないだろうか。

さて、ここで思うのは、親ガチャから「運命論」に至る人がいてもおかしくないということである。

親ガチャ、つまり言い換えてしまえば、「肉体」と「環境」のガチャ。

人生における行いは肉体と環境の条件によって、決定されてしまうということだ。

自分は自由意志の存在について懐疑的であり、運命論に対してもどちらかと言えば肯定的なスタンスである。

我々はビッグバンから始まった巨大なビリヤード台の球に過ぎないのだ。

しかし、ここで考えてみたい。

我々は「自我」が先行して存在していると思いがちであるが、自身が存在していることの天文学的確率を考えると、現在の”そのような条件”が揃ったからこそ、今の自我が存在しているのではないだろうか。

つまり、自我が環境に対応して人生をやっているのではなく、先に肉体や環境の条件があり、後から自分が発生したのだ。

単純に2人の男女から1人の固有な人間が生まれる確率を計算してみる。

1人の男性/女性から作られる精子/卵子の種類は、約840万通りであり、これらを組み合わせると約70兆通りのパターンとなる。

1/70000000000000。

ここで両親の出会う確率なども考えたら、分母の数はとんでもない数字になっていくだろう。

更に、その両親や祖父祖母、先祖代々が生まれる確率や出会う確率を考慮したら?

これはもう「肉体ガチャ」という点においては、先に条件が決定されて、その後に自分が発生したと考える方が自然である。

人の生まれ持つ個性や性格は、肉体や環境という条件による。

そう考えると、自分は誰しもに足り得るし、誰しもが自分足り得る、と考えてしまう。

よく漫画やアニメなどのフィクション作品で

「オレとお前、立場が違えば逆だったかもしれないな…」

というような演出や表現がある。

自分が主張したいのは、まさしくこういうことだ。

例えば、現実世界でどうしても気の合わないような粗暴な人間がいたとしよう。

けれども、その人は「そのような肉体と環境の条件に生まれてしまっただけ」であり、もし、自分がその人と同じ「肉体と環境の条件に生まれていた」のなら、その人と全く同じ人生を送り、同じ振る舞いをしていたのではないだろうか?

そして、その逆も然りであり、その嫌いな人が、もし自分と同じ肉体と環境の条件に生まれていたら、その人は自分と同じ人生を送り、同じ振る舞いをしていたはずである。

「人間は、肉体と環境の奴隷である」

そんなことを考えると、特定の人物を強く非難したり、恨んだりする気持ちにはあまりなれない。

(ただ、何かしら被害を被っているのなら、もちろん抵抗するべきである)

以上のように考えると、人間やあらゆる生き物というのは、元々「魂の海」みたいな場所に存在しており、条件が揃った所から、それぞれ自我が開花していくのかもしれない。

自分はたまたま咲いた場所からこの世界を観測しているに過ぎないのだ。

そして、死ぬというのは、ただ魂の海に還るだけなのである。

魂の海というのが観念的なものなのか、それともこの世界そのものなのかはなんとも言えないが、「自分 ≒ 他者 ≒ 世界」と捉えてみてもおかしくはないと、自分は考えている。

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