宇宙を漂うただの肉塊

最近ずっと寝ていた。

人間や生き物というよりはただの肉塊になっていた。

生命維持装置(電気毛布)に包まりながら天井を見上げている肉の塊だった。

何もしたくない時には何もしない。

ニート・寝そべり生活も4年目に突入すると、時間を無為に過ごすことの恐れがなくなる。

そもそも、無駄な時間とはなんだろう。

個人的な感覚から言わせてもらえば、あらゆるものには意味がないし、あらゆるものには意味がある。

例えば、これはもう100万回ぐらい言っているけど、宇宙的なスケールから考えれば、僕たちの行いには何も意味がない。

人類も、地球も、宇宙も、いつか無くなってしまうからだ。

その一方、人生単位のスケールで考えれば、あらゆるものには意味があるだろう。

例えば、ニートやひきこもり、何もしていない時間だって、それは熟成の期間だと言える。

その「無駄だと思うような時間」があったおかげで今の自分が存在している訳だし、現にこのような文章が自分の中で生まれたりする。

僕がよく分からないのは「これは意味があって、これには意味がない」と判断するような人々だ。

(まあ、そんなこと言ってしまえば世の中の大半の人はそうなのかもしれないが……)

無駄を肯定できる人こそが、自分の人生をまるごと肯定できる人なんじゃないだろうか。

多くの人にとって、人生とは理想と現実のすり合わせである。

かつての自分は理想を重視するタイプの人間だった。

それはそれでよい在り方なのかもしれないが、想像上の観念にすぎない理想に振り回されて、苦しんでしまうことも少なくない。

今となっては、現実に基づいて生活を組み立てるようになった。

体力が無くて、メンタルも不安定な人間なんだから、それは仕方ないことだ。

何もしたくないのなら、何もしない。

眠いのなら、眠る。

働きたくないなら、なるべく働かない。

堕落しているように思えるかもしれないが、これはこれで地に足の着いた生き方ではないかと考える。

宇宙から考えれば全て意味が無いと、思想家じみたことを言えど、腹は減るし、死にたくもない。

いや、死にたくないというのは、あまり正確な表現ではないかもしれない。

正しく言えば、苦痛を味わいたくないだけなのだ。

僕たちは死を恐れるが、本当に死とは恐ろしいものなのだろうか。

36億年前、海の中で物質がかき混ぜられ、原始の生命が生まれた。

それから、何億年もの間、生物は進化を続けてきた。

進化というよりは、「そういう個体」が生き残ってきたという表現の方が適切なのかもしれない。

それらはつまり、死を回避するような性質を持った生き物たちである。

僕らの感じる苦痛や痛みも、そういった類のものだろう。

とはいえ、それらは「死を回避する為のシステム」であって、苦痛が悪いものであっても、死そのものが悪いとは限らないはずだ。

例え話をしてみよう。ある山では、頂上で素晴らしい景色が見えるという。

しかし、山頂を目指す為には、とても険しい道のりを越えていかなければならない。もちろん、これには大変な苦痛が伴う。

ここで言いたいのは、「山頂の景色」と「険しい道のり」は別物だということだ。

そこに至る為の道のりが、苦痛だからといって、山頂の景色までもが苦痛だとは限らない。

「死」と「生命本能としての苦痛」の関係性に言いたいのも、そのような理屈である。

僕自身は「死そのもの」に関してはそれほど恐れていない。

そもそも、死に関しては、僕たちは知覚することができないのだ。

よく、死ぬと「天国/地獄に行く」「永遠に快楽/苦痛が続く」などというが、そんなことは有り得ない。

僕たちは五感と思考によって、今の自我が生まれている訳であるが、死とは「その五感と思考の消失」である。

死という状態になるのではない。死とは無そのものなのだ。

古代ギリシアのエピクロスはこう言っている。

「死はわれわれにとって何物でもない、と考えることに慣れるべきである。というのは、善いものと悪いものはすべて感覚に属するが、死は感覚の欠如だからである」

「死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、実はわれわれにとって何物でもないのである。なぜかといえば、われわれが存する限り、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである」

この論理には非常に同意である。

また、このめんどくさい肉体から解放されるのであれば、それはそれでとても気楽なことなのではないか。

死は悪いものでは無いし、その本質まで苦痛と関連付けられるようなものではないと、ここに記しておく。

「初めに言葉があった」ってすごい書き出しだな、と思う。

とはいえ、これは「(神が言葉を作ったからこそ)人間はあらゆるものに言葉でラベリングして、世界を見ることができる」という意図ではなく

原文「アルケーはロゴスなり」→「根源的原理は、キリストである」という意味らしいが。

最近、言葉による解釈に疲れた……。

ニートとか、寝そべり族とか、そういったラベリングからも少し離れたい。

人間とは、もっと自由に存在できるのではないだろうか。

老子はこう言っている。

「この世界においては何事もただそこにあるだけだ。そこには美醜も善悪もない」

「あなたが『美しい』と思うことで、『醜い』が生じる」

「それらは、あなた自身が、作り出しているにすぎない」

「『名前』によって、世界を切り分けるから、何事もうまくいかなくなる」

やっぱり、老荘はいいな。

こんなことを言うと、不特定多数から反感を買いそうだけど、インターネットの住民は言葉に囚われすぎなんじゃないだろうか。

発達障害とか、毒親とか、HSPとか。

もちろん、そういった事実はあるし、人生を対処していく上で、ひとつの方針にはなると思う。

けれども、その言葉の中に自分を落とし込んでしまって、それに浸り嘆くような在り方になってしまっている人も少なくない気がする。

昨日読んだ『悟らなくたっていいじゃないか』では、俗世的な認識を「ベクトルのある世界」とか「物語の世界」と表現していたけど、まさしくそういった感じだ。

瞑想やマインドフルネス、気づきを得ることは、究極のメタ認知を目指すこと。

あるがままを見る。それはxとyの平面世界で自身に向き合うのではなくて、z軸から俯瞰的に平面世界を眺めることだという。

それ自体はそれ自体であるのだ。そこに在るだけで、それは善くも悪くもない。

もちろん、瞑想をしたからと言って(一般的な感覚として)人生が上手くいく訳ではないけれど、視点の切り替えというテクニックは練習しておいてもいいんじゃないだろうか。

世の中の人々は、「このラベルを貼られたら終わりだ……」とか「自分をよく見せる為のラベルを張るぞ!」と藻掻いているけど、そんなものは誰かや自分によって恣意的に作られた解釈にすぎず、文字や肩書きがあったところで、中身は何も変わらない。

自分は、ただ、宇宙を漂う肉塊なのだ……。

 

 

最近、読んだ本

 

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