昨日、ツイッターのコミュニティで「死ぬの怖くね?」みたいな話になった。
わかる。本当に死ぬのは怖い。
僕は基本的に死ねば「無」になると思っている派なのだが、あの「死」(もしくは「無」)を想像したときの、絶対的な絶望感はなんなのだろうか。
どうあがいてもどうにもならない、あのブラックホールに吸い込まれるような感覚。
映画やドラマ、フィクションの話ではなくて、僕たちは近いうちに「本当に死ぬ」のである。
実体験として待ち受ける、永遠の無。
そんなことを考えると、体全身がめちゃくちゃにひきちぎられるようだ。
現代においては、「死」を”塗りつぶして”生きている人が多いように思う。
勉強、趣味、恋愛、仕事、家族……。
社会の中で生きていると、ゆっくりと「死」について考える暇は無い。
それは、忘れるというよりは、塗りつぶす。
絶対的な死を、様々な色をしたペンキで見えないようにしてしまうのである(最終的には黒々とした「死」が浮かび上がることは間違いないのだが……)。
しかし、メメントモリ(死を忘れることなかれ)と呼ばれるような生き方は必ずしも善いのだろうか?
例えば、僕のように結構な頻度で死ぬのが怖いと考えているような人間が、あまり幸せであるようには思えない。
これは嫌味でもなんでもなく、「ウェーイ!」というノリで、何も考えないで生きている人の方が幸せであるようにも見える。
死に対する態度は、主に2つに分けられると思う。
まず、最初に「何かに集中して、死を忘れる」という態度だ。
これは社会での役割やイベントをこなすことでもあれば、娯楽などで人生を”塗りつぶしていく”姿勢でもある。
「いや、僕はウェイ系じゃないぞ」という方でも、良質な作品(本、映像、ゲームなど)に触れて、”時間を忘れた”という体験をした方は少なくないだろう。
勘違いしないで欲しいのだが、僕はこういった態度を批判している訳ではない。
むしろ、人生で「熱中できる何か」や「生きがいと呼べるようなもの」を見つけるのは、王道であり、正しい在り方なのだろうな、とすら思っている。
それとは対称的な在り方としては、もう一つの「”死”をとことん見つめる」だ。
僕はどちらかといえば、こっちのタイプだろうか。
「そんな生活をしていたら鬱病になりそう」のような意見もあるかもしれないが、このような生き方にはこのような生き方のメリット(?)がある。
ここで参考になるのは、中島義道氏の言葉だ。
氏をよく知らない人の為に解説しておくと、氏は哲学者であり、本の中で「ぼくはこの地上に産み落とされて、まもなく死ぬ」「生きることに意味はない。人類も、太陽系も、宇宙をいずれ消えてなくなるからだ」と決まり文句のように述べる。
しかし、中島氏はこのようにも言う。
「そんな絶対的で理不尽な不幸のことを考えると、あらゆる不幸が小さなことに思えてくる」と。
確かに、この意見には同意できる。
よく「社会のレールから落ちたから人生詰んだ」「好きな人に振られてしまったから死にたい」と言っているような人がいるが、色付けのされていない、素面(しらふ)な世界から見てみれば、「いや、元から絶対死ぬ時点で”人生は詰んでいる”し、僕らは絶対的に不幸だぞ」と思うものだ。
他に例を挙げれば、仏教には「不浄観」という修行法があるという。
これは文字のまま、不潔なものを観るという意味であり、具体的に言えば、人間の死体をマジマジと見つめることである。
醜悪な腐臭が漂い、ウジが湧く死体。それを眺めることによって、”無常”を身を持って理解していたのだ。
(似たようなものでは、『九相図』という死体が腐って朽ちていくまでを描いた仏教絵画が存在する。最近では、漫画『呪術廻戦』にも、これにちなんだキャラクターが登場したので、名前を聞いたことがある方もいるかもしれない)
ただ、このような生き方のずるいところは、真摯な仏教徒でもない限り、”遊ぶ”こともできる、という点である。
別に「人生は虚しい」と言いながら娯楽を堪能してもいいし、なんならそういったニヒリストを名乗る時点で、それをどこかで楽しんでいるのである(このニュアンスが分かるだろうか?)。
今日の日記では、大別して2つの態度を挙げたが、もしかしたら本当は、死を塗りつぶすでもなく、死を見つめるでもなく、死を楽しむでもなく、目指すべき「中道」があるのかもしれない。
死の難しいところは、ある日には「死にたい」という考えに陥る一方で、次の日には「死ぬのが怖い」という考えに取り込まれてしまうような、そのピーキーさにあるように思う。