ニートのための一般教養 -『般若心経』

ニートと仏教の親和性は高い。

仏教著述家の魚川裕司氏の言葉を借りるなら、ブッダの教えとは、「異性とは目も合わせないニートになれ!」である。

確かに、托鉢(物乞い)で食料を調達し、働かずに修行をしていた当時の出家者たちは、ニートのようだと解釈できるかもしれない。

この世の無常を見つめ、煩悩を断ち切り、無欲な生活を送る。そんなタイプのニートがいたら、仏教徒タイプだ。

 

僕はけっこう図書館で仏教の本などをパラパラと読むのだが、最近改めて般若心経を暗唱できるように覚えてみた。

さすが一番有名なお経であるだけあって、たった262文字に仏教のさまざまなエッセンスが詰まっている。

ニートなら一般教養として、般若心経ぐらい覚えておいてもいいのではないかと考え、ここにちょっとしたガイドをまとめておくことにした。

 

■ 仏教の基礎知識

紀元前5世紀ごろ、ブッダ(ゴータマ・シッダールダ)が教えを広める(原始仏教)。

ブッダが死んでから100年後、教団が上座部(保守派)と大衆部(革新派)で分裂する。これを根本分裂と呼ぶ。

その後、紀元前100~紀元後100年ごろ、権威主義化した上座部仏教の批判運動として大乗仏教が生まれる。

これは、上座部仏教のように自身の解脱のみを目指すのではなく、大衆の救済を目指すという運動である。

大乗仏教では、如来(完全に悟りを開いた者)や菩薩(修行者)への信仰があり、僕らが知っている仏像に祈るような仏教のイメージはここから生まれている。

この大乗仏教の経典が般若心経(はんにゃしんぎょう)だ。

 

■ 般若心経の成立と伝来

インドで300~350年ごろに成立したとされる。

もともと、般若心経は『大般若波羅蜜多経』という600巻にもわたる経典を要約したものであり、これらを649年にインドから中国に持ち帰ったのが、三蔵法師のモデルでも有名な玄奘三蔵だ。

玄奘はサンスクリット語を漢語に翻訳し、我々が読んでいる般若心経も、玄奘の翻訳が流布されて広まったものである。

(なお、玄奘が初めて中国に般若心経をもたらしたわけではない。最初に翻訳を行ったのは、4世紀末にインドから中国に来た渡来僧の鳩摩羅什(くまらじゅう/クマーラジーヴァ)だとされる。)

日本に初めて般若心経が伝わったのは、609年に遣隋使の小野妹子が持ち帰ったサンスクリット語のものによるとされるが、これには異論も多く、東京国立博物館の調査によれば法隆寺に現存していた写本は7~8世紀ものである可能性が高いという。

ちなみに、この写本は現存する最古のサンスクリット語による般若心経である。

 

■ 般若心経を覚えると何がいいのか?

神秘的な効果を挙げると、玄奘三蔵いわく以下のような効果がある

・般若心経を心に受け入れ、声に出して読むと、解毒、治病、除災の霊験がある

・般若心経を写経し、それを他に与えれば、功徳は大きく、何らかの霊験を得る

 

実用的な効果を挙げておくなら

・仏教の内容をおおまかに理解することができる

・人生において仏教の哲学が役に立つ

・般若心経を唱えることで精神統一やリラックスの効果がある

・お寺を参拝するときに読み上げることができる

 

俗っぽい理由を挙げれば

・脳トレ

・ひまつぶし

・一発芸になる

 

■ 般若心経全文

それでは、実際に般若心経を見てみよう。

 

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

(ぶっせつまか はんにゃはらみた しんぎょう)

 

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄

(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ しょうけんごうんかいくう どいっさいくやく)

 

舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是

(しゃりし しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう くうそくぜしき じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ)

 

舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 

(しゃりし ぜしょほうくうそう ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん)

 

是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

(ぜこくうちゅう むしき むじゅそうぎょうしき むげんにびぜっしんい むしきしょうこうみそくほう)

 

無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故

(むげんかい ないしむいしきかい  むむみょう やくむむみょうじん ないしむろうし やくむろうしじん むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこ)

 

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃

(ぼだいさった えはんにゃはらみったこ しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんどうむそう くきょうねはん)

 

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提

(さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)

 

故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚

(こちはんにゃはらみった ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ のうじょいっさいく しんじつふこ)

 

故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

(こせつはんにゃはらみったしゅ そくせつしゅわつ ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか)

 

般若心経

(はんにゃしんぎょう)

 

うーん。初見では全く意味が分からない。

「色即是空 空即是色」や「ギャーテーギャーテー」をなんとなく知っているぐらいだろうか。

 

■ 般若心経 日本語訳

次は日本語訳を見てみよう。

観音菩薩が、 深遠なる「智慧の波羅蜜」を行じていた時、

〔命ある者の構成要素たる〕五蘊はすべて〔いかなる本質、実体をも〕欠いていると明らかに見て、

すべての苦しみと災い〔という河〕を渡り切った。

 

「シャーリプトラよ、

色(肉体)と〔実体を〕欠く〔というあり方〕とは異ならない。

〔また、実体を〕欠く〔というあり方〕と色とは異ならない。

色は〔実体を〕欠いている。〔また、実体を〕欠いている〔ものこそ〕が色である。

受(感覚を感じる働き)、想(概念)、行(意志)、識(認識する働き)もまた同様である。

 

シャーリプトラよ、

すべての現象(一切法)は〔実体を〕欠いていることを特徴とするものであるから、

生じることなく、滅することなく 汚れることなく、汚れがなくなることなく 増えることなく、減ることもない。

 

ゆえに「(実体を)欠くということ」の中には、

色は無く、受、想、行、識も無い

眼、耳、鼻、舌、身、意も無く、 色、声、香、味、触、法も無い

眼で見られた世界(眼界)も無く、意識で想われた世界(意識界)も無い

無明も無く、無明の滅尽も無い “老いと死”も無く、”老いと死”の滅尽も無い

「これが苦しみである」という真理(苦諦)も無い

「これが苦しみの集起である」という真理(集諦)も無い

「これが苦しみの滅である」という真理(滅諦)も無い

「これが苦しみの滅へ向かう道である」という真理(道諦)も無い

知ることも無く、得ることも無い

もともと得られるべきものは何も無いからである

 

菩薩たちは、「智慧の波羅蜜」に依拠しているがゆえに 心にこだわりが無い

こだわりが無いゆえに、恐れも無く 転倒した認識によって世界を見ることから遠く離れている。

過去、現在、未来(三世)の仏たちも「智慧の波羅蜜」に依拠するがゆえに 完全なる悟りを得るのだ。

 

それゆえ、この「智慧の波羅蜜」こそは 偉大なる呪文であり、

偉大なる明智の呪文であり、 超えるものなき呪文であり、

並ぶものなき呪文であり、 すべての苦しみを除く。

〔なぜなら〕真実であり、偽りなきものだからである。

 

〔さて、〕「智慧の波羅蜜」という呪文を説こう、 すなわち呪文に説いて言う:

“ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー”

(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に正しく往ける者よ、 菩提よ、ささげ物を受け取り給え)

 

〔以上が〕般若心経〔である〕。

wikisource より(https://ja.wikisource.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C

うーん。日本語になってもよく分からない。

なんだかやたら「無い無い」言いまくっていたり、「すごい呪文がある!」と言っているようだ。

 

■ 般若心経 読み上げ

実際の読経はこんな感じだ。一度、聞いておこう。

般若心経 唱えてみよう(漢字、ひらがな、英文付き)/Heart Sutra/The Prajñā-pāramitā-hṛdaya sutra 読経:松島龍戒 英文:大來尚順 色即是空

 

■ 般若心経を覚えるためには?

この記事は「般若心経を覚えよう」という趣旨なので、その辺りを解説していこう。

昔ながらの方法だが、以下を並列しておこなっていく。

 

① 聞く

とりあえず、意味が分からなくとも、音声を聞きまくる。

動画であれば、同時に文字を追おう。

 

② 読む

般若心経を読んでみる。

音声と同時でもいいし、ふりがな付きの文章を読み上げてもいい。

 

③ 書く

般若心経を写経してみる。

声に出しながらだと、効率UPだ。

 

④ 内容を理解する

内容を理解すれば、覚えやすさも大幅に上がる。

関心があれば、なぜかポケモン151匹の名前が覚えられるようなものである。

 

まずは、般若心経全体のイメージをつかんでから、個別のパートごとに何を言っているのか把握する。

その後、頭から暗唱できるようにしていくのが個人的にはおすすめだ。

それでは、これから般若心経の内容を細かく解説していく。

 

■ 般若心経パート分け

 

■ Aパート 仏説魔訶般若波羅蜜多心経

(A-1)

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

(ぶっせつまーかーはんにゃーはーらーみーたーしんぎょう)

まずは、タイトルである。

区切るなら、「仏説/摩訶/般若/波羅蜜多/心経」となる。

仏説は「仏が説く」。魔訶は「偉大な」。

ここまでは分かりやすいだろう。

 

般若」は、サンスクリット語の「プラジュニャー(prajna)」が原語だ。

「pra(前に/進んで/極めて)+ jna(知る)」から、「悟りの智慧」という意味になった。

それが俗語化して「パンニャー」になり、更に漢訳されたものが「般若」というわけだ。

(ちなみに、般若といえば、あのお面を想像する人が多いかもしれないが、般若心経の存在が先であり、あの面の作者が「般若坊」という名前だったにすぎない。)

 

また、「波羅蜜多」もサンスクリット語で、「パーラミター(paramita)」が原語である。

これは「param(彼岸に)+ ita(至れる)」、または「parami(彼岸に至れる)+ ta(状態を表す抽象名詞)」だ。

彼岸とは、あの「お彼岸」の彼岸であり、「彼岸=悟りの世界・仏の世界」、「此岸=迷いの世界・凡夫の世界」である。

波羅蜜多を日本語で言えば、「彼岸(悟りの世界)に渡ること」となるだろう。

般若と波羅蜜多を合わせると、「完全な智慧」、もしくは「智慧の完成」という意味になる。

 

「心」はサンスクリット語「フリダヤ(心臓→心髄)」の訳だ。

「般若波羅蜜多の心髄」と「般若心経は『大般若経』600巻分の心髄」という2つの意味がある。

 

「経」はサンスクリット語「スートラ(たて糸)」の訳だ。

ブッダの教えという意味で、ブッダ以外にも如来や菩薩が代わりに説法するパターンがある。

 

ここはタイトルなのでそのまま読めばいいのだが、一応まとめて訳しておくなら

「仏が説く偉大な『完全な智慧(パンニャーパーラミター)』の心髄の教え」といったところだろうか。

なんだかすごそうな名前である。

 

■ Bパート 観自在菩薩 ~ 度一切苦厄

Bパート 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄

(B-1)

観自在菩薩

(かんじーざいぼーさー)

「観自在菩薩」とは、観音菩薩、つまり有名な呼び名で言えば、観音さまのことである。

観音菩薩は、「観音さま、助けてください」と名を唱えれば、姿かたちを変えて、人々を救ってくれるという特徴があるという。

その人気から、般若心経の語り手としてキャスティングされたようだ。

ちなみに、仏ランク的には「如来 → 菩薩 → 明王 → 天部」である。

 

(B-2)

行深般若波羅蜜多時

(ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー)

行深とは「深く行う」、つまり「実践する」ということだ。

「般若波羅蜜多(パンニャーパーラミター)」は(A-1)で紹介した通り、「完全な智慧」という意味である。

つまりは(B-1)と(B-2)で「観音菩薩が完璧な智慧を実践していたとき」という意味になる。

今後は、観音菩薩がそのような立場にいること前提に話が進んでいく。

 

(B-3)

照見五蘊皆空

(しょうけんごーうんかいくう)

照見とは、「正しく見きわめた」ということ。

それでは、観音菩薩は何を見きわめたのか?

 

まず、「五蘊(ごうん)」とは、「5つの集まり」という意味で、「(しき)」「(じゅ)」「(そう)」「(ぎょう)」「(しき)」の5つを指す。

 

」は「物質的な存在」「形あるもの」を意味しており、僕たちの身体や物体を指すと考えればいい。

 

一方、「受 → 想 → 行 → 識」は僕たちの精神的な作用を表している。

 

」は、外界からの情報を五感と心で受け取ることを示す。つまりは、感覚だ。

(例)「り・ん・ご」という音(波)を耳が捉える。

 

」は、その情報からイメージを行うことを示す。つまりは、知覚だ。

(例)「り・ん・ご」という音の情報から、果物の「りんご」をイメージする。

 

」は、発生したイメージに対して、考えが生まれることを示す。つまりは、意志だ。

(例)「りんご」に対して「食べたいなあ」という意志が発生する。

 

」は、行で発生したイメージが蓄積されていくことを示す。つまりは、認識だ。

(例)幼いころからりんごを食べることによって、「りんご=おいしいもの」といった認識が生まれる。

 

以上、言われてみれば当たり前にその通りだな、と思う内容なのではないだろうか。

仏教では、「無我」の教えが有名であるが、原始仏教では「五蘊仮和合(ごうんけわごう)」という、「私は無我であるが、五蘊が何らかの縁によって仮に集まり、世界が成立している」という論が主張された。

 

そして、皆空は「すべてが空」という意味だ。それでは、「(くう)」とは何か。

ひとことでいえば、「実体はない」である。

ここでちょっと難しいのは、ただの「無い」ではないということだ。

この「空」の理論は非常に重要なものであるのだが、話すと長くなってしまうので、本格的な解説はパートCで行うことにしよう。

 

それでは、まとめると「照見五蘊皆空」は、「五蘊はみな空である(実体がない)と正しく見極めた」である。

え、五蘊ってないんですか?

 

(B-4)

度一切苦厄

(どーいっさいくーやく)

「度」とはなんだろう。一見よく分からないが、これはさんずいを付けて「渡す」と考えればいい。

つまり、「渡す → 彼岸(悟りの世界)に渡す → (悟って)克服した」を指すのだ。

 

「一切」は仏教でよく使われる言葉で「すべての」「あらゆる」という意味であり、「苦厄」はそのまま苦しみや災いだ。

(なお、仏教の「苦」といえば、四苦八苦が有名である。

「生まれる苦しみ」「老いる苦しみ」「病気になる苦しみ」「死ぬ苦しみ」

「愛する人と別れる苦しみ」「嫌いな人と出会う苦しみ」

「望むものが手に入らない苦しみ」「自分をコントロールできない苦しみ」)

 

よって、「度一切苦厄」は「あらゆる苦厄を克服した」という意味になる。

 

Bパート まとめ

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄

(かんじーざいぼーさー ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー しょうけんごーうんかいくう どーいっさいくーやく)

→「観音菩薩が、完璧な智慧を実践していたとき、物質や心の働きには実体がないことを見きわめ、あらゆる苦しみを克服した」

 

■ Cパート 舎利子 ~ 受想行識亦復如是

Cパート 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是

(C-1)

舎利子

(しゃーりーしー)

舎利子とは、実際に実在したブッダ(ゴータマ・シッダールタ)の弟子のひとりである。

サンスクリット語では、シャーリプトラと発音する。

シャーリプトラは、十大弟子(ブッダの偉大な10人の弟子)の中でも非常に頭がよく、後世では智慧第一と称えられた。

Bパートでは、「観音菩薩が智慧を悟ったのだ」という説明だったが、このCパート以降は「観音菩薩によるシャーリプトラへの説法」という形で話が進んでいく。

つまり、ここでは観音菩薩が「シャーリプトラよ」と呼びかけているのである。

 

(C-2)

色不異空 空不異色 色即是空 空即是色

(しきふーいーくう くうふーいーしき しきそくぜーくう くうそくぜーしき)

非常に有名なフレーズであるが、言っていることは単純だ。

 

「色不異空」は、「色は空に異ならず → 色は空と違わない」

「空不異色」は、「空は色に異ならず → 空は色と違わない」

「色即是空」は、「色はこれすなわち空である → 色とは空である」

「空即是色」は、「空はこれすなわち色である → 空とは色である」

 

つまり、「色=空」を言い方を変えて繰り返し言っているだけなのだ。

観音菩薩なりの、「大切な事なので4回言いました」というやつである。

 

ここで「色」とは、先ほど(B-3)で解説した、五蘊のひとつである「物質的な存在」のことだ。

 

そして、「空」は「実体がない」であるが、「色=空 → 物質に実体はない」とはどういうことだろう。

これは「あらゆる物質は相互関係の中で変化しており、実体と呼べるようなものは存在しない」ということだ。

 

これを聞いて、「いや、僕は今現在ここに実体として存在しているぞ」と考える人もいるかもしれない。

しかし、よく考えてみれば、「自分」とはなんだろう。

この顔だから自分なのか、この手だから自分なのか、この足だから自分なのか。

この脳だから自分なのか、この心臓だから自分なのか、この感覚を持つから自分なのか。

「空」の理論に基づいて答えれば、「自分」とはこれら全ての関係性の上に成り立っている呼称であるにすぎない。

そして、僕たちの身体は今この瞬間も細胞が分裂と死滅を繰り返しており、やがて死んで朽ちていく。

あらゆるものに実体はなく、それらは相互関係の中で、縁起による生滅を繰り返しているだけなのだ。

このように「空」として存在していることを、空性(くうしょう)と呼ぶ。

 

ここで改めて注意しておきたいのは、空は「無い」ではないということだ。

また、全てのものに価値がないとするニヒリズム(虚無主義)とも違う。

「ある」と断定するのでもなく、「ない」と断定するのでもない。

あらゆるものは「空」として在るという、中道的な理解が必要になるのである。

 

(C-3)

受想行識亦復如是

(じゅーそーぎょーしきやくぶーにょーぜー)

さて、ここの「受想行識」とは、五蘊(色+受想行識)の中で「色」以外のものである。

復習しておくと、「受=感覚」、「想=知覚」、「行=意志」、「識=認識」であった。

 

そして、「亦復如是」とは、「またかくのごとし」と読み下せる。

これは「以下、同様である」という意味だ。

 

これらを組み合わせると、「受想行識においても、以下、同様である」という意味になる。

つまり、「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」だけでなく、それ以外の五蘊においても「〇不異空 空不異〇 〇即是空 空即是〇」だと言っているのだ。

まとめてしまえば、「感覚も、知覚も、意志も、認識も、全部『空』なのだ」と主張しているわけである。

 

Cパート まとめ

舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是

(しゃーりーしー しきふーいーくう くうふーいーしき しきそくぜーくう くうそくぜーしき じゅーそーぎょーしきやくぶーにょーぜー)

→「シャーリプトラよ、物質は空と違わず、空は物質と違わない。物質は空であり、空は物質である。感覚も、知覚も、意志も、認識も、同様に空である」

 

■ Dパート 舎利子 ~ 以無所得故

Dパート

舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減

是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故

(D-1)

舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減

(しゃーりーしー ぜーしょーほーくうそう ふーしょうふーめつ ふーくーふーじょう ふーぞうふうげん)

Dパートは再びシャーリプトラへの呼びかけから始まる。

「是諸法空相」は、「これらの諸法は『空』の性質を持つ」という意味だ。

(ダルマ)」とは、仏教において「宗教」「真理」「存在」など様々な意味を持つのだが、般若心経においては「存在するもの」というニュアンスが強い。

よって、「この世のあらゆるものは、実体がなく、変化し、流動するものである」と言っている。

 

そして、あらゆるものは実体がない故に、生まれることもなく、滅することもない(不生不滅)。

汚れることもなく、清められることもない(不垢不浄)。増えることもなく、減ることもない(不増不減)。

だって、そうではないだろうか。実体のないものを、どうやって汚したり、清めたりすればいいのだろう。

「汚い」だとか、「きれい」だとか、そういった考えを生み出しているのは、僕たちの心なのである。

 

まとめると、「シャーリプトラよ、この世のあらゆる存在は『空』であり、生せず滅せず、汚れず清まらず、増えも減りもしない」となる。

 

(D-2)

是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

(ぜーこーくうちゅう むーしき むーじゅうそうぎょうしき むげんにーびーぜっしんにー むーしきしょうこうみーそくほう)

「是故空中」は、「この故に空の中には(空の立場では)」という意味になる。

この限定文はDパートの最後までかかっていることに気を付けよう。

ここから、般若心経の特徴である、「無」ラッシュが続く。

 

まず、「無色」と「無受想行識」は、先ほどに学んだ通り、五蘊(色+受想行識)のことである。

ここでは、「五蘊はない」と言っている。

 

次に、「無眼耳鼻舌身意」と「無色声香味触法」であるが、これらは「六根(眼耳鼻舌身意)」と「六境(色声香味触法)」と呼ばれるものだ。

六根が「五感+心」であり、六境は「それに対応する6つの感覚対象」である。これらを合わせて十二処とも呼ぶ。

本文を見ていくと、「六根(眼耳鼻舌身意)はない。六境(色声香味触法)もない」ということになる。

(なお、五蘊の「色」と、六境の「色」は別物であることに注意されたし)

 

(D-3)

無眼界 乃至無意識界

(むーげんかい ないしーむーいーしきかい) 

六根(眼耳鼻舌身意)と、六境(色声香味触法)は先ほど解説したが、これらが出会った結果、生まれる6つの認識を「六識」という。

六識は、「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識」であり、これら「六根」「六境」「六識」を合わせて、十八界と呼ぶ。

 

ごちゃごちゃしてきたので、ちょっとまとめよう。

六根 → 眼・耳・鼻・舌・身・意

六境 → 色・声・香・味・触・法

六識 → 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識

 

十八界はその名の通り、「眼界(六根の眼+界)」から、「意識界(六識の意識+界)」まで、18つの界があるとされる。

そして、般若心経においては、やはりこれらが「ない」と言われているようだ。

「無眼界 乃至無意識界」、ここで「乃至」とは「中略」という意味であり、眼界と意識界の間の16個の界を省略している。

すなわち、「十八界(眼界~意識界)はない」である。

 

(D-4)

無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽

(むーむーみょう やくむーむーみょうじん ないしーむーろうしー やくむーろうしーじん)

やたら、むーむー言っている部分である。

まず、前半から見ていくと、「無無明」とは、「無明がない」という意味である。

仏教において、「明」は「明るい → 正しく見える → 悟り」であり、智慧を意味するので、無明とは「智慧がない」ということだ。

とりわけ、「人間の根源的な無知」を指す。

そうすると、「『人間の根源的な無知』がない」という意味になる。

否定の否定でいいことに思えるが、とりあえず、続きを見ていこう。

 

次の「亦無無明尽」は、「また、無明が尽きることもない」という意味だ。

これを言い換えると、「また、『人間の根源的な無知が尽きること(≒ 悟り)』もない」となる。

 

これらを合わせれば、「無明もなければ、また悟ることもない」と整理することができるだろう。

つまりは、無明だとか、悟りだとか、そういった構造ごと、般若心経は否定をしていることになる。

 

具体的にいうと、このパートで般若心経が「ない」と言おうとしているのは「十二縁起」である。

これは原始仏教においてブッダが説いた教えであり、十二縁起における最初の項目が無明だ。

 

① 無明(根源的な無知)によって、行(潜在的形成力)が生じる。

② 行によって、識(認識作用)が生じる。

③ 識によって、名色(名前と形態)が生じる。

④ 名色によって、六入(6つの領域)が生じる。

⑤ 六入によって、触(感覚器官と対象の接触)が生じる。

⑥ 触によって、受(感受)が生じる。

⑦ 受によって、愛(誤った囚われ)が生じる。

⑧ 愛によって、取(執着)が生じる。

⑨ 取によって、有(生存)が生じる。

⑩ 有によって、生(誕生)が生じる。

⑪ 生によって、老死(老いと死)が生じる。

 

後半を見てみると、「乃至無老死 亦無老死尽」であるが、この「老死」とは十二縁起の最後の項目である。

同じように訳してみると、「(中略)、老死もなく、また老死が尽きることもない」である。

そして、乃至(=中略)には、「〇もなく、また〇が尽きることもない」という、十二縁起のそれぞれの項目が省略されている。

まとめると、このパートは「十二縁起はない」と言っている。

 

(D-5)

無苦集滅道

(むーくーしゅうめつどう)

ここでは「苦集滅道」がないと言っている。

これは仏教の基本的な教えでもある、四諦のことである。

「諦」とは「あきらめる」という意味ではなく、あきらかにするという意味の「諦」だ。

つまり、「4つの真理」とでも理解してもらえればいいだろう。

 

四諦は以下の4つである。

① 苦諦 → 人生は苦であるという真理

② 集諦 → 苦には執着という原因があるという真理

③ 滅諦 → 執着を無くせば苦を滅することができるという真理

④ 道諦 → 執着を無くす方法があるという真理

 

ちなみに道諦の「執着を無くす方法」とは、八正道と呼ばれるものだ。

① 正見(正しい見解)

② 正思惟(正しい決意)

③ 正語(正しい言葉)

④ 正業(正しい行為)

⑤ 正命 (正しい生活)

⑥ 正精進(正しい努力)

⑦ 正念(正しい思念)

⑧ 正定(正しい瞑想)

 

四諦を「ない」ということは、必然的に八正道もないということになる。

ここでは、「四諦や八正道もない」と言っているのだ。

 

(D-6)

無智亦無得 以無所得故

(むーちーやくむーとく いーむーしょーとっこー)

Dパートもこれでラストだ。

「無智亦無得」は「知ることもなく、また、得ることもない」と言っている。

「以無所得故」は、「故」が「~であるから」という意味であり、「もともと、得るべきものはなにもないのだから」となる。

 

このDパートは文字数も多く、「無」が頻出するゆえに、般若心経における一番の挫折ポイントであるのだが、落ち着いて整理してみれば、言っていることはそこまで難しくない。

 

(D-2)における、「是故空中」→「この故に空の中には(空の立場では)」という限定文を踏まえて、(D-2)から振り返ってみると

「空の立場では、五蘊も、六根も、六境もない。(D-2)

十八界もなく、十二縁起も、四諦(八正道)もない。(D-3)(D-4)(D-5)

知ることもなく、得ることもない。

(なぜなら、空の立場では)もともと、得るべきものはなにもないのだから(D-6)」

と言っている。

 

そもそも、なぜこんなにそれまでの仏教の教え(「空」の思想以前の教え)を「ない」と言いまくっているかというと、これは伝統的な上座部仏教に対する反論であったとされる。

ブッダが亡くなってから約100年後、教団は根本分裂を起こしたが、その後、上座部の説一切有部(西北インド)では、人間や世界の存在についてこと細かに分析する学問が盛んになった。

それはそれで、面白そうな結果が生まれそうだが、ブッダが広めようとしていた仏教とは本当にそういうものであったのであろうか?

そういった仏教の在り方にストップをかけようとしたのが、空の理論であり、それを基礎づけたナーガールジュナ龍樹)なのである。

言うならば、このDパートは「仏教の教えにさえ執着するな」と主張していると考えてもいい。

 

Dパート まとめ

舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減

(しゃーりーしー ぜーしょーほーくうそう ふーしょうふーめつ ふーくーふーじょう ふーぞうふうげん)

是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

(ぜーこーくうちゅう むーしき むーじゅうそうぎょうしき むげんにーびーぜっしんにー むーしきしょうこうみーそくほう)

無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽

(むーげんかい ないしーむーいーしきかい むーむーみょう やくむーむーみょうじん ないしーむーろうしー やくむーろうしーじん)

無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故

(むーくーしゅうめつどう むーちーやくむーとく いーむーしょーとっこー)

 

→「シャーリプトラよ、この世のあらゆる存在は『空(実体がない)』であり、生せず滅せず、汚れず清まらず、増えも減りもしない。

これゆえ、空の立場では、五蘊もなく、六根もなく、六境もない。

十八界もなく、十二縁起も、四諦(八正道)もない。

知ることもなく、得ることもない。もともと、得るべきものはなにもないのだから」

 

■ Eパート 菩提薩埵 ~ 得阿耨多羅三藐三菩提

Eパート

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖

遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提

(E-1)

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖

(ぼーだいさったー えーはんにゃーはーらーみーたーこー しんむーけーげー むーけーげーこー むーうーくーふー)

般若心経も後半戦である。Dパートを乗り越えたなら人なら、だいぶ楽に感じるはずだ。

 

まず、「菩提薩埵」とは、サンスクリット語の「ボーディ・サットヴァ」の音写であり、「悟りを求めて修行をする人」と理解してもらえればいい。略して菩薩だ。

そして、復習しておくと、「般若波羅蜜多」は「完全な智慧(パンニャーパーラミター)」であった。

よって、「菩薩は般若波羅蜜多(完全な智慧)に依るが故に」となる。

 

「心無罣礙 無罣礙故」の「罣礙」とは、仏教用語で「こだわり」や「さまたげ」を指す。

よって、心無罣礙が「心にこだわりがなく」であり、「無罣礙故 無有恐怖」は「こだわりがない故に、恐れることもない」となる。

 

まとめると、「菩薩は般若波羅蜜多に依るが故に、心にこだわりがなく、こだわりがない故に、恐れることもない」だ。

 

(E-2)

遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃

(おんりーいっさいてんどうむーそう くーきょうねーはん)

「遠離一切顛倒夢想」は、「一切の顛倒夢想から遠く離れて」となる。

「顛倒」はひっくり返るという意味であり、「夢想」と合わせて、「間違った認識」とでも言えばいいだろうか。

つまり、「一切の間違った認識から遠く離れて」である。

(ちなみに、原典や玄奘が訳したものには「一切」と「夢想」はなく、流布本にいつの間にか追加されていたらしい)

 

「究竟涅槃」はその言葉のイメージ通り、完全な涅槃、パーフェクト・ニルヴァーナである(実際の英訳もこの通り)。

なお、ニルヴァーナとは、改めて確認しておくと、「煩悩がなくなった、静けさに満ち足りた仏の悟りの境地」を指す。

 

まとめると、「一切の間違った認識から遠く離れて、完全に心が安らかな境地を得た」である。

 

(E-3)

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提

(さんぜーしょーぶつ えーはんにゃーはーらーみーたーこー とくあーのくたーらーさんみゃくさんぼーだい)

三世諸仏は「過去の仏・現在の仏・未来の仏」である。

大乗仏教では、「最近だと、お釈迦様(ゴータマ・シッダールダ)が仏になったけど、それなら過去にも未来にも仏はいるんじゃね?」と考えた。

 

「依般若波羅蜜多故」というフレーズが登場するのは2回目だ。「般若波羅蜜多(完全な智慧)に依るが故に」である。

 

「阿耨多羅三藐三菩提」は、サンスクリット語の「アヌッタラ・サンヤック・サンボーディ」を音写したものである。

特に漢字に意味はなく、3つの何かがあるわけではない。

「アヌッタラ(anuttara)」は、「この上ない」。

「サンヤック(samyak)」は、「正しい」。

「サンボーディ(sambodhi)」は、「完全な覚(さと)り」。

これらを合わせると、「阿耨多羅三藐三菩提」は、「この上なく正しい覚(さと)り」という意味になる。

 

まとめると、「過去・現在・未来の仏も、般若波羅蜜多に依るが故に、この上なく正しい覚(さと)りを得た」となる。

 

Eパート まとめ

菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖

(ぼーだいさったー えーはんにゃーはーらーみーたーこー しんむーけーげー むーけーげーこー むーうーくーふー)

遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃

(おんりーいっさいてんどうむーそう くーきょうねーはん)

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提

(さんぜーしょーぶつ えーはんにゃーはーらーみーたーこー とくあーのくたーらーさんみゃくさんぼーだい)

→「菩薩は般若波羅蜜多に依るが故に、心にこだわりがなく、こだわりがない故に、恐れることもない。

一切の間違った認識から遠く離れて、完全に心が安らかな境地を得た。

過去・現在・未来の仏も、般若波羅蜜多に依るが故に、この上なく正しい覚(さと)りを得た」

 

■ Fパート 故知般若波羅蜜多 ~ 真実不虚

Fパート

故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚

このFパートからは、これまでの内容と打って変わって「真言(呪文)」という密教の教えが始まる。

密教とは、秘密仏教の略であり、大乗仏教の中でも、呪術的要素を取り入れたグループである。

ちょっと戸惑う人もいるかもしれないが、なにはともあれ、続きを見ていこう。

 

まず、「故知般若波羅蜜多」は、「故に、般若波羅蜜多(の真言)を知るべし」である。

 

次に、ここから頻出する「呪」は悪い意味ではなく、「真言(呪文)」という意味だ。

「是大神呪」は、「これは偉大で神聖な真言である」。

「是大明呪」は、「これは大いなる智慧の真言である」(明 → 明るく正しく見る → 悟り・智慧)。

「是無上呪」は、「これはこの上ない真言である」。

「是無等等呪」は、「これは無比の真言である」(無等等 → 等しいものがないに等しい(ぐらいすごい))

 

そして、「能除一切苦 真実不虚」は、「一切の苦をよく除き、真実にして虚にあらず」となる。

とりあえず、ハンパなくすごい呪文だということは伝わってくる。

 

Fパート  まとめ

故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚

(こーちーはんにゃーはーらーみーたー ぜーだいじんしゅー ぜーだいみょうしゅー ぜーむーじょうしゅー ぜーむーとうどうしゅー のうじょーいっさいくー しんじつふーこー)

→「故に、般若波羅蜜多(の真言)を知るべし。これは偉大で神聖な真言である。これは大いなる智慧の真言である。これはこの上ない真言である。これは無比の真言である。一切の苦をよく除き、真実にして虚にあらず」

 

■Gパート 故説般波羅蜜多呪 ~ 般若心経

Gパート

故説般波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

般若心経

ついに、クライマックスだ。

「故説般波羅蜜多呪 即説呪曰」で、「故に説く、般若波羅蜜多の真言を。すなわち、真言を説いていわく」となる。

いよいよ、次の言葉が般若心経の核心であるというわけだ。それが、以下の有名な言葉である。

 

「羯諦羯諦(ギャーテーギャーテー) 波羅羯諦(ハーラーギャーテー) 波羅僧羯諦(ハラソーギャーテー) 菩提薩婆訶(ボージーソワカ)」

 

これが、『大般若波羅蜜多経』600巻のエッセンスを抽出した、般若心経262文字の中でも、心髄の心髄となる部分である。

「最初から最後まで覚えられないよ~」という人は、とりあえずここだけでも覚えるべし、ということなるだろう。

 

単に、パワーを持った言葉の響きだと理解してもらえればいいが、あえてサンスクリット語から翻訳するのなら

「羯諦(gata)」は女性単数形の呼びかけであり、「(悟りに)往ける者よ」である。

「波羅(para)」は「彼岸・悟りの世界」であったので、「波羅羯諦」は「彼岸に往ける者よ」になる。

「波羅僧羯諦」の「僧(sam)」は、動詞の前に付くと「完全」を表す接頭辞である。よって、「彼岸に全く往ける者よ」となる。

「菩提(bodhi)」は悟りを意味し、そして「薩婆訶(suaha)」は「よく言った」「めでたい」を意味する。

 

仏教学者、中村元の有名な翻訳を引用するなら

「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ」

となる。

 

以上が、般若心経だ。

Gパート まとめ

故説般波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

(こーせつはんにゃーはーらーみーたーしゅー そくせつしゅーわつ ギャーテーギャーテー ハーラーギャーテー ハラソーギャーテー ボージーソワカ)

般若心経

(はんにゃしんぎょう)

→「故に説く、般若波羅蜜多の真言を。すなわち、真言を説いていわく。

往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。

(以上が)般若心経(である)」

 

■ 真言の”意味”

般若心経の解説はどうだっただろうか。

いきなり覚えるのは難しいかもしれないが、「大体こんなことを言っているんだな」と把握してもらえたなら、それで充分だ。

 

だが、中にはこんなことを思う人もいるかもしれない。

「ブッダの教えや、空の思想はなるほどって思ったけど、結局最後はおまじないのオカルトか~」というような感想である。

そのような感覚も分からなくない。むしろ、僕も最初はそう思った。

特に、「宗教としての仏教」ではなく、「哲学としての仏教」から入った人にはありがちである。

 

だが、仏教を哲学として考える人は、同時にこんなことも思わないだろうか。

「諸行無常(全ては移り変わる)とか、諸法無我(全てに実体はない)とか、言ってることは分かるけど、現実はそうもいかないよなあ~」というような感想だ。

確かに、仏教の教えを学んでみると、「なるほどな」とは思う。

けれども、現実は厳しく、それを実践するのは非常に困難であるのだ。

 

だからこそ、そんな時は文字をこねくり回したり、頭の中でいろいろ考えたりすることには限界がある、と考えてみてもいい。

つまり、ただ無心に般若心経を読み上げてみたり、ギャーテーギャーテーの真言を唱えてみるのだ。

言葉や思考の分別を離れて、仏の教えに身を委ねてみる。

そういった考え方もできるのではないだろうか。

 

■ グレーを知っておく

こういった宗教の話をすると、「なにか怪しい勧誘をしている人なのかな」と思われるかもしれないが、僕は別に特定の宗教を信仰しているわけではない。

逆に、僕が危険だと思うのは、「宗教は危険! 危ない人がやるもの!」と断定的に思い込んでいる人である。

確かに、世の中にはカルトと呼ばれるような宗教があったり、私利私欲にまみれた宗教があることも事実だ。

しかし、だからこそ宗教の知識はある程度学んでおくべきであると、僕は考えている。

勉強をしておけば、勧誘されたとしても、「ああ、○○教の△△系から派生した団体か……」といった風に、冷静に対処できるのではないだろうか。

「白か黒か」のような思考をしている人の方が、オセロのようにひっくり返りやすいものである。

 

■ 絶望と宗教

絶望的・限界的な状況において、人間を救ってくれるのは宗教しかないのではないか、と考えることがある。

僕がよく思い出すのはコルベ神父のエピソードだ。

 

コルベ神父は1894年にポーランドで生まれたカトリックの神父であり、熱心に宣教活動に取り組んでいた。

日本に来ていた時期もあり、1930~1936年には長崎で活動を行っていたという。

 

そんなコルベ神父であるが、第二次世界大戦が始まった結果、彼はカトリックの宣教者という理由で、1941年2月にナチスドイツのアウシュヴィッツ強制収容所に入れられてしまう。

 

コルベ神父は過酷な強制労働を強いられる日々を送っていたが、ある日事件が起こった。

コルベ神父の班から脱走者が出たのである。

結局、捜索しても見つからず、その結果、コルベ神父の班からは連帯責任として10名が無差別に処刑されることになった。

 

そして、コルベ神父は選ばれなかった。助かったのである。

しかし、処刑に選ばれた近くの男がこう泣き崩れた。

「ああ、妻と子供に会いたい……」

 

それを見たコルベ神父は手を挙げ、こう申し出た。

「私はカトリックの神父です。もう若くもなく、妻も子供もいませんから、この方の身代わりになりたいと思います」

 

脱走者が出た場合の処刑方法は非常に残酷なものだった。

10人を座る間もない狭い部屋に押し込め、水も食べ物も与えずに、じわじわと飢え死にさせる餓死刑である。

この刑が実行されると、部屋からは聞くに堪えない悲痛な嗚咽が何日間にも渡って響くという。

 

そして、ついにコルベ神父たちも刑が実行されることになる。

 

だが、この時はいつもと様子が違った。

コルベ神父が、一緒に処刑されるの餓死刑者のために祈り、讃美歌を歌ったからである。

そして、他の餓死刑者たちも祈り歌った。

その処刑室からは、叫びや呻き声ではなく、穏やかな祈りの声が響いたという。

彼は処刑室を聖堂に変えたのである。

 

1941年8月14日没。47歳だった。

 

……という話である。

これはただの「いい話」や「感動する話」ではない。

決して、僕たちにとっても関係のない話ではないはずだ。

「いやいや、そんな絶望的な状態はありえないよ」と思うかもしれないが、それは本当だろうか。

もしかしたら、「あと1か月の命です」と宣告される日がくるかもしれないし、「この飛行機は墜落します」とアナウンスされる日が来るかもしれない。

(それどころか、僕らは寿命という「いつか死ぬ部屋」に入れられていると言ってもいいだろう)

そんな絶対的に絶望的な状況のとき、僕らはどうすればいいのだろうか。

もうすぐ死ぬ。そんな圧倒的なリアルを伴ったどうにもならなさに、叫び、泣き、パニックになりそうにもなる。

そんなとき、僕らにできることは、祈り、唱えることだけなのではないかと、時折考えてしまうものだ。

 

■ 参考文献

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