寝そべり基金のゆくえ

■ 寝そべり基金

今年の2月に『寝そべり族マニュアル』という本を個人出版した。

色んな方がぼちぼち読んでくださっているそうで、これまでの利益で言えば、それなりにイケてるギターが1本買えるぐらいである。

この本の内容は、「最低限働いてのんびり生きていくのもありなんじゃないの」「そういう生き方もあるんだから、とりあえず死なんといて」といった感じなのだが、ここで僕が強く思ってしまうのは、以下のようなことである。

「みんなにはニートやフリーターになることを推奨しておいて、1人だけ本の印税でプチリッチ生活するのは、とんでもないペテン師なんじゃないか?」

ということだ。

 

僕は別に、「自称ニートがお金を稼ぐこと」を批判したい訳ではない。

例えば、小説やエッセイが書けるニートは書いたらいいし、絵やイラストが描けるニートは描いたらいいし、音楽が作れるニートはどんどん作ったらいい。

自分の得意なことでお金を貰えるなら、それに越したことはないからだ。

だが、「『みんなで貧乏生活をしよう』という情報発信でお金を稼ぐこと(そして、自分だけ収益を得ること)」だけは違うんじゃないかと思ってしまう。

それはもう、まるで一種のあくどいビジネスのようだ。

 

……というわけで、僕は売上の一部を「みんながハッピーになれること」に使いたい。

そう、寝そべり基金である。

 

■ あくまでローカルなもの

慈善的なお金の使い道といえば、やはり最初に浮かぶのは募金である。

戦争や飢餓で苦しんでいる国にお金を送る。

それは大いにアリだ。いい使い道だと思う。

 

だが、僕はあくまで「この日本で生きづらいと思っている人々」の為に使うべきだと思うのだ。

(おそらく)そういった層が本を買ってくれたのだから、そういった人々に還元するのが、正しい使い道だと思う。

 

世界中で苦しんでいる人々が多くいるという事実を決して無視するわけではないが、国際的な寄付は、国際的に搾取を行っている、国際的な大金持ちがたくさんしてほしい。

 

■ 宝くじを配る

なるべく働かない系の生き方といえば、大原扁理氏が有名である。

『年収90万円で東京ハッピーライフ』『なるべく働きたくない人のためのお金の話』などなど……。

大原さんは印税を生活費に使わないという縛りを設けているらしい。

必要になったら使うのは、税の支払いや、交通費など。

社会にお金を還元することを心掛けているという。

特に面白いなと思ったのは、「宝くじを買って知人にプレゼントする」というものだ。

当たるかどうかは別として、宝くじの売上は社会福祉に使用されるし、貰った方も楽しめる。これは1つの良い例に思えた。

 

■ もくもく会・不適応者の居場所

他にも、参考になりそうなものはある。

例えば、pha氏が開催していた「もくもく会」だ。

これは「ゆるいオフ会」のようなもので、特に目的もなく、ぼーっとしていてもいいし、何か作業をしてもいいし、本を読んでいてもいいスペースらしい。出入りも自由だ。

別で言えば、鶴見済氏が不定期に開催している「不適応者の居場所」など。

これはニートやひきこもり、フリーター、フリーランス、心を病んでいる人、社内で孤立している人、などのための集まりで、公園や河川敷で、ピクニックのような時間を過ごすのだという。

こういったスペースを用意したり、簡単な飲食代を負担するのも、ありかもしれない。

 

■ コミュニティの難しさ

ただ、コミュニティ系のものは、僕には向いていないし、とても難しいだろうな、と思ってしまう。

 

まず、僕は人に会うのがあまり好きじゃない。

「お前らなんかと会話したくない」という意味ではなく、人と交流を行うだけで、体質としてすごく疲れてしまうのだ。

できることなら、なるべく1人で家にひきこもっていたい。

もし、やるとしても、「たまに」「小規模」になるだろう。

 

あと、社会不適合者系のコミュニティは荒れやすい。管理人はすごくキツいと思う。

よく考えてしまうのが、「社会不適合者が小さな社会を営めるのか?」ということだ。

 

僕は「のんびりゆるくやりたい」と思っているのだが、現実問題として、そうでない人ももちろんいる。

精神的に不安定だったり、自意識を持て余していたり……。

 

最近だと、インターネット上ではあるが、山奥ニート系のメインコミュニティだった、遁世ディスコードが大荒れしているらしい。

僕も去年ぐらいまではよく覗いていたのだが、確かに、当時から火種らしきものはあったように思ってしまう。

「あんまり合わないなー」と思って去ってしまった人は、僕以外にもいたんじゃないだろうか。

 

■ 弱者救済と選民意識

「弱者を助ける」というのはすごく難しいことだと思う。

たぶん、子猫を拾うみたいな感覚があるのだと思うが、現実はそうもいかない。

まず、あけすけに言ってしまうが、弱者というのは性格が悪いことが多い。

勘違いしないでほしいのだが、これは決して批判などではなく、決定論的なものである。

俗っぽく言うならば、親ガチャ(遺伝ガチャ・環境ガチャ)だ。

生まれた時から、容姿に恵まれず、能力が低く、家庭や学校の環境も悪い。

そういった人々が「すなおでいい人間」に育つだろうか。

いや、それは非常に難しい。何かしらが歪んで当たり前である。

たぶん、弱者を助けるというのは、「かわいくておとなしい子猫を拾う」ではなく、「こちらに嚙みついてくるドブネズミを保護する」ぐらいの覚悟がなければ、厳しいのではないかと思う。

 

かといって、僕はエリート意識や選民意識のようなものも嫌いだ。

たまにいるのが、「おれは能力があるけど、社会に馴染めなかっただけのエリートニートだ」という匂いをどこかで醸し出している人である。

こういった人々は、無能力系ニートを見下しがちなのだが、僕から言わせてもらえば、「どっちも大して変わらんわ」という感想だ。

ニートに転がり落ちてきたのに、自意識や競争意識を捨てられていないタイプも見ていてそれなりにしんどくある。

 

「誰でもOKなコミュニティ」にすれば、荒れることは間違いないが、「ここは選ばれたニートだけが加入できるコミュニティです」みたいなノリも気持ち悪い。

この辺りのバランスが非常に難しいものだと思う。

 

■ 非固定的なコミュニティ

そもそも、コミュニティのメンバーを固定する、という行い自体があまりよくないのかもしれない。

それこそ、「もくもく会」や「不適応者の居場所」のように、その日によって違うメンバーが集まるだけの方が健全なものになるのではないだろうか。

 

アナキスト作家の栗原康氏が「一丸となってバラバラに生きろ」という標語(?)を残している。

これがどういうことだか分かるだろうか。

アナキストというのは、もちろん反体制的であるのだが、反体制の人々もまとまってグループになると、そこにいずれ支配や秩序が生まれてしまう。

それは違う。全然アナーキーではない。だから、「一丸となってバラバラに生きろ」なのだ。

 

この話、ニートコミュニティの事情にも、似ているように思う。

「働かない」「世間に従わない」「納税しない」というニートたちは、どこかで反体制的な性格を持っているはずだ。

それゆえに、ニートコミュニティでも支配や秩序が生まれると、ニートたちはそれに反発を起こし、崩壊していくのである。

 

これが避けられないものであるならば、「一丸となってバラバラに生きろ」という言葉に、どこかヒントがあるのかもしれない。

 

■ 人間の愚かさと向き合う

「世界中の人間がみんなニートになれば、世界は平和になるのに」、と思ったことがある。

だが、今考えてみれば、それは人間の欲望や愚かさをなめすぎだ。

人間というものはエゴが強く、競争をして、他者より上に立ちたいのである。

僕がこうやって「えらそうな文章」を書いているのも、その活動のひとつだろう。

 

理想としての共産主義(平等・労働時間の短縮)には同意したくなるが、多くの人々はそんな世界を望んではいないんじゃないだろうか。

競争によって発展していく資本主義というシステムは、ある意味、必然的だったのではないだろうか。

 

また、原始仏教においては、出家者によるサンガというコミュニティがあったが、その中でもトラブルが絶えなかったという。(「律」というルールの多さが、それを物語っている)

無欲になり、煩悩を克服しようと集まった人たちでさえ、人間関係や社会活動において、揉め事があったのだ。

ニートの集まりにトラブルがないわけがない。

それならば、これはもう、ある程度、「人間のダメさ」を受け入れながら、試行錯誤していかなければならないんじゃないだろうか。

 

■ 話がめちゃくちゃ脱線してしまった

というわけで、後半はコミュニティの話になってしまったが、本題は「寝そべり基金」の使い道を募集しているということである。

とりあえず、お金は取っておくので、なにかアイデアがあれば教えてほしい。

「僕だけにお金ください!」はダメだからね!

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