■ メメントモリ無職
「ああ、オレって本当に死ぬんだなあ……」
と、実存ニートになってから、2~3時間に1回ぐらい考えている。ネタや誇張などではなく。
無職になると、「死」がよく見える。
それは単純に「金がないから」や「体調や精神が不安定だから」ということだけではない。
良くも悪くも、ニュートラルな世界を生きているからである。
例えば、仕事が忙しかったり、恋愛をしていたり、熱中できる趣味があった場合、そんなときに「死」のことを考えている暇などないだろう。
快楽にせよ、苦痛にせよ、何かに振り回されている間は、目の前のものごとに精一杯であるからだ。
無の者には、そういった自身を激しくかき乱す嵐が存在しない。無風である。
それゆえに、遠くの景色が澄んでよく見える。
すなわち、この道の先は崖になっており、不可避に死ぬということだ。
■ 「死の恐怖」の分類
死ぬのが怖い。これは大体どんな人にとっても、共通の認識であるはずだ。
だが、「死の恐怖」というものは大雑把に括られすぎであるようにも思う。
個人的に分類してみるなら、死の恐怖は以下の3つに分けられるのではないだろうか。
① 死に至るまでの痛みや苦しみに対する恐怖
② いつか自分が絶対に死ぬという事実から逃れられない恐怖
③ 死んだら永遠の無になって二度と戻ってこれない恐怖
普通の人は、①と③を恐れる。タナトフォビア(死恐怖症)の傾向がある人は、②と③を恐れる。という印象だ。
■ バンジージャンプ
僕も死ぬのは怖い。上記で言うなら、①②③全部怖い。
だが、それと同時に「それならばタイミングぐらい自分で決めたい」という気持ちもある。
「怖いからとにかく長生きしたい」という考えはあまりないのだ。
例えるならば、バンジージャンプでいつ背中を押されるか分からないまま、いざその時にパニックになりながら落ちていくぐらいだったら、自分で覚悟を決めたタイミングで飛び降りたい。そんなところである。
■ とりあえず生きる
人生を続けたところで、最終的になにか得られるものがあるのだろうか。
本を読んだり、修行をしたり、人生経験を積めば、「真理」や「悟り」のような何かを得られるのだろうか。
今のところはあまりそのようには思えない。
結局、人間である限り、人間的な形式から逃れることはできず、人間的な苦悩を抱えたまま、死を迎えるだけなのではないか。
とはいえ、死ぬは怖いし、生きていれば何かを掴める可能性はあるかもしれない。
僕にできるのは、「とりあえず生きる」という消極的な逃げの一手のみである。