この世界で生々しく生きるための方法

■ 行き詰まり・息詰まり・生き詰まり

今日の社会には閉塞感が蔓延している。

頑張ったところでどうにもならないような苦しさ。

ゆっくりと死んでいくだけであるような無力感。

「死にたい」「つらい」「働きたくない」

SNSを検索してみれば、いくらでもそのような投稿を見つけることができるだろう。

 

■ 現代は競争と科学がすべて

なぜこんなことになってしまったのか。

それは、資本主義(競争主義)的な価値観、そして科学(唯物論)的な価値観が原因であるように思う。

僕らは生まれたときから競争を強いられている。

勉強・部活・恋愛・受験・就活・収入・結婚・出産……。

例えるならば、「理想の人生」とでも言うべきものを、常に「上手く作り上げる」ように強制されていると感じないだろうか。

しかし、実際の社会では「どうにもならない格差」が拡大し、「理想のハードル」だけが高くなり続けている。

そして、現代の若者は、生まれ持った容姿や能力、家庭の裕福さや文化資本によって、大きく人生が左右されてしまうことを、悲しくもよく理解しているようだ。

「頑張ったところでどうにもならない」「私の人生は”不完全”な”失敗作”だ」

これが現代の若者の多くが抱えている、リアルな実感なのではないか。

 

また、日本のような先進国に住む者にとっては、「科学が世界の全てを説明してしまった」のも、大きな要因なのではないかと考える。

まず、断っておくが、僕は「科学」を否定しているわけではない。

技術の発展によって生活が楽になったり、医療の発展によって助かる人が増えたことは素晴らしいことだと思う。

だが、それと同時に「科学(唯物論)的な価値観」は、僕らを支配してしまった。

――この世界は全て科学で説明できる。そして、物質的な豊かさのみを追求していけばいい。

言うなれば、「宗教的な余地」を現代の人々は失ってしまったのではないか。

「貧しい人々は幸いである」「神の国はあなたがたのものである」

「どんな人間でも、南無阿弥陀仏(阿弥陀仏に帰依します)と唱えれば、死後に浄土に行ける」

どれだけの現代人が、これらの教えを素朴に信じることができるのだろう。

近代まで、貧しい者には「救い」が与えられていた。

だが、現代においては、それさえ取り上げられてしまったのである。

 

■ 反出生主義の流行

そのような「信仰」を失った結果、貧しい者たちはどうなったのか。

僕の考えでは、彼らは「信仰」の代わりに「主義」を掲げるようになったのではないかと思う。

それが「反出生主義」だ。

反出生主義とは、「人間は生まれるべきではない。そして、子供を作るべきではない」という思想のことである。

反出生主義の是非についての議論は避けるとして、このような思想は世界中で広まっている。

韓国でも「4B運動(非恋愛・非結婚・非性交・非出産)」が広まり(韓国の出生率はなんと0.78であるそうだ)、中国でも「最終世代運動」が若者たちの間で起こっているという。

 

反出生主義については、よくこんな反論が行われる。

「反出生主義者は子供を残さずに死ぬから放っておけばいい」

「結局、子供を作ることを肯定した人たちで社会を回していくだけ」

なんだか一見正しいように聞こえるこの意見だが、僕としては「甘く見すぎ」なのではないかと考えてしまう。

確かに、昔の時代であったなら、そうであっただろう。

例えば、「生まれないのが最も幸せ」と考える思想集団がいたとしても、(基本的に)その教えが未来まで残るはずがない。

それを「伝える人がいないから」である。

だが、現代においてはどうだろう。

どんな人間でも、インターネットを使って意見を投稿することができるようになった。

蔓延する現代社会の息苦しさ、そして、それに共鳴する若者たち。

「反出生主義」はある種の強烈な爆発力を秘めているのではないか。

実際、出生率は低下を続け、反出生主義を掲げなくとも、「私は子供を作らない」という人は増えているように実感する。

 

また、別の面から見てみれば、現代になるまで、「社会のいけにえ」になった者たちは、何も「ミーム(文化的な遺伝子)」を残せずに終わっていただけだ、と考えてみてもいい。

奴隷のように扱われたり、人権もなく虐げられたり、ぼろかすのように死んでいった人々は、「このような苦しみを受けるならば、生まれたくなかった」という気持ちを、文字として残すことはできなかったはずである。

だが、現代では、義務教育とインターネットの発展によって、それが可能になった。

逆に、このように考えることもできるかもしれない。

「この世界に存在する『生きることを肯定するような思想』は、これまで『いけにえ』たちの上で生活を成り立たせていた『恵まれた者』たちが作り上げていただけ」なのではないかと。

 

■ 超俗的なものさしを取り戻す

個人的な意見を述べるならば、僕は安易に反出生主義を掲げることに反対な立場である。

(考えに考え抜いてコレしかないと思ったのだったら、そのような態度を否定することはないが)

だが、前述したように、先進国の若者たちと反出生主義の共鳴は止まらない。

ここで僕が提案したいのは、人間は元々抱えていた「宗教的な余地」を取り戻すべきなのではないか、ということだ。

 

もちろん、殆どの現代人が今更宗教を素朴に信じられないことは理解している。

僕だって、基本的には科学的な世界観が全てだと思っているものだ。

ここで言いたいのは「どこかの宗教に入信しよう」ということではない。

「世俗的なものさし」とは別に、「超俗的なものさし」を持つのはどうだろう、と主張してみたいのだ。

 

■ 世俗的なものさしが全てなのか?

まず、「世俗的なものさし」とは、いわゆる資本主義・競争主義的な価値観のことである。

「お金がたくさんあるほど良い」「美しくてモテる人が勝ち組」「有名になれば有名になるほど偉い」

これらは僕らにとって「あたりまえのこと」であり、それと同時に「僕らを苦しめている原因」でもある。

(これらが裏返ると、「貧乏は悪いこと」「モテない人間は負け組」「何か名を残さないとみじめ」といった具合になる)

別にそういった価値観を完全に否定するわけではない。

確かに、生きていくためにはある程度お金が必要であるし、こんな文章を長々と書いている時点で、僕も自己を主張したいという欲求からは逃れられないのだろう。

だが、「これ(世俗的なものさし)」だけが本当に人生の全てなのだろうか。

人間はもう1つ、別のものさしを持っていてもいいのではないか。

それが先に述べた「超俗的なものさし」である。

 

■ 2つの問い

では、既存の宗教無しにどうやって「超俗的なものさし」を持つのか。

ここで「2つの問い」を挙げたい。

 

まず、1つ目に「なぜこの世界は存在しているのか?」ということだ。

僕たちは「あたりまえ」に生きている。

だが、よく考えてみてほしい。

これは「おかしいこと」ではないだろうか。

とんでもない「異常事態」ではないだろうか。

なぜ世界は存在しているのだろう。

世界は「なくてもよかった」はずである。

それなのに、この世界は存在している。

この「驚き」とでも言うような「おかしさ」が分かって貰えるだろうか。

(これはもちろん科学でも解明できていない問題である!)

 

こういった内容を述べると、「あー哲学ごっこみたいなヤツね」とか「中二病のときに考えるヤツね」と思う人もいるかもしれない。

しかし、この問いを、「哲学ごっこ」や「他人事」ではなく、紛れもない自身の問題として真剣に考えてみると、とてつもない「生々しさ」が湧き上がってこないだろうか。

不条理に、意味もなく、ただ「私」が存在している……。

こういった観点を持つと、良くも悪くも(世俗的な価値観が失われて)「剝き出し」に生きることができるようになる。

(ちなみに、この「問い」は精神に悪影響を与える危険性も併せ持つので注意だ。「考えてはいけない問題」とも呼ばれている)

 

2つ目は「人生に意味はないのに、なぜあなたは生きているのか?」ということだ。

いわゆる中島義道的なニヒリズム、「私はいつか絶対に死んで無になる。そして、人類も地球も宇宙もいつか絶対に消滅して無くなる」ということを考えてみると、どんな人間であれ、生きている意味は無い。

ただ、こういった内容を述べると、このような反論をする人もいるだろう。

「それはあなたの考えがネガティブなだけだ」「あなたが社会的な敗北者であるから、負け惜しみでそういっているだけなのではないか」と。

それは違う。

なぜなら、「私もあなたも、人間はいつか死んで無になる」「人類も地球も宇宙もいつか消滅する」というのは、「意見」や「思想」というよりも、ある種の「事実」であるからだ。

ネガティブな感傷に浸ったり、そのような思想を広めて社会に「復讐」を試みたいわけではない。

「人生に意味はない。その上で、人間はどうすればいいのだろう?」

僕はそういった問題を提起したいのである。

さて、あなたはどうするのか。

 

■ ものささないのが超俗的なものさし

これらの「世界が存在している不思議さ」「全ては無意味だという事実」を強く抱えてみると、「世俗的なものさし」はその絶対性を失っていく。

超俗的なものさし……というよりも、「『ものささない』というものさし」を持つと、競争や見栄は「虚ろなもの」だと思えてこないだろうか。

 

僕はニートやフリーターとして生きている。

世間的に考えれば、「ヤバく」て「終わっている」のだろう。

だが、僕はシリアスに「世界スケール」のものさしを抱えている。

「なぜ僕は存在しているのか?」「そしていつか必ず死ぬ」

そういった問いが体感レベルで染みつくと、世間の問題に対しては「焦点がぼやけていく」。

最低限だけ働いて、最低限だけ食っていければ、それでいいじゃないか。

強がりではなく、「腑落ち」でそう思えるようになるのだ。

 

そして、自身が生々しく、グロテスクに「存在」していることを実感するのである。

 

■ バランス感覚を大切に

とはいえ、そういった生き方をすることにもリスクはある。

人知を超えた「問い」を持つことは、「狂気」と紙一重であるからだ。

だから、僕は今のところ「バランス派」である。

競争社会的な価値観に飲まれすぎてもいけないが、哲学的な思索に飲まれすぎてもいけない。

孤独に考えごとを続けたり、引きこもって本を読み続けたり、瞑想をやりすぎたりするのはよくない。

友達と遊んで飲んだり、暇つぶしに働いたり、ジャンクフードを食べたりすることも大切なのである。

本気でその道を行くならば、正式に哲学者になるか、僧侶になる必要があると思う。

在野のアマチュアは、バランス感覚が大切なのだ。

 

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