虚無職に道はない

隠遁。それは、世俗を離れて生活することを指す。

この定義によれば、ニートや無職も、ある種の「隠遁」であるのだろう。

実際、「隠遁してえー(退職してえー)」などの言い回しはたまに目にするものだ。

 

しかし、元々「隠遁」という言葉には、宗教的な背景が含まれていた。

世俗を逃れ、修行に専念する。それが隠遁であったのである。

また、これは別に宗教的な修行に限った話ではないはずだ。

絵を究めたい人は、ひたすら引きこもって筆を握り続け、陶芸を極めたい人は、ひたすら引きこもってろくろを回し続ける。

このように、何かしらの「道」を突き進むために、社会との関わりを絶つこと。

それが本来の「隠遁」であったのではないだろうか。

 

だが、ニートには「道」がない。

少なくとも、僕にはない。

言わば、ニートとは「目標」や「信条」を持たぬまま、社会の外側に放り投げだされた存在であるのだ。

 

ここで注意したいのは、別に僕は高尚なもの(信仰や芸術)だけが「道」に足り得ると言いたいわけではない、ということである。

例えば、「ネットゲームで世界一を目指すために職を捨てる」なんていうのも、1つの「道」であるのではないだろうか。

金銭的な事情や周囲がそれを許すかどうかは別の問題として、僕個人としてはそれを大いに突き進めばいいと思う。

 

だが、そのような「強烈に熱中できる趣味」、つまり「俗っぽい『道』」さえ、僕は所持していない。

事情は色々あるだろう。

「お金がかかる」「やってみたけど限界を感じてしまった」「飽きた」「いくらでも上がいる」「体力的にモチベーションが続かない」などなど……。

こういった人間は果たしてどうすればいいのだろう。

 

個人的な意見を述べるなら、何か1つの道を究めることは断念して、色んなものを雑多に取り組むしかないのではないかと思う。

良く言えば「マルチプレイヤー」「なんでもそこそこ知っている人」、悪く言えば「器用貧乏タイプ」になろうということだ。

このような生き方の何がメリットかといえば、それは「思わぬ相乗効果」と「多角的な視点」が得られることである。

 

例えば、「文章を書くのが好き」「写真を撮るのが好き」「料理をするのが好き」という人がいたとしよう。

ここでは、どれも才能や実力としては、中途半端(普通の人よりちょっと上手い程度)だとする。

だが、これらのスキルが合わさった際には、思わぬコンボを生み出すかもしれない。

「作った料理をきれいに撮って、ウケる文章が添えられたブログ」をやれば人気が出る可能性があるだろう。

 

そして、色々なものに触れておくと、特有の「気づき」を得られるのがいい。

ある種の「伏線」とでも言うべきか、「あっ、コレってアレと同じじゃん」とか「AとBって通ずるものがあるな……」など、別の物事が繋がった瞬間はなかなか感動するものだ。

そして、世の中に対しても、多角的な視点を持つことができるように思う。

 

「〇〇道」を持たぬものは、「総合」的な取り組み、ある種の「なんでもあり(バーリ・トゥード)」が必要なのだろうと、思う次第である。

(そして、その中で「これしかない!」と思った何かを見つけたなら、そこに飛び込めばいい)

 

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