いろんなニート問題集

【1】働きたくない問題

働きたくない。

僕がどうにも納得できないのは、ほとんどの人々が「そういうものだから」といって、週5日の8時間労働を受け入れていることである。

こういうことを言うと、必ず出てくるのが、「いや、みんなが働かなくなったら、社会が回らなくなっちゃうよ(笑)」という反論だ。

もちろん、それは認めよう。

全員がニートになったら、社会はめちゃくちゃになってしまう。

だから、僕も「みんな働かなくていい」と言っているわけではない。

「もっと、労働時間を減らすことはできないのか?」と主張したいのである。

 

そもそも、なぜ「週5日・8時間」なのか?

宇宙の真理として「週5日・8時間」と決まっているのか?

アカシックレコードに、ファイストスの円盤に、ヴォイニッチ手稿に「週5日・8時間」と刻まれているのか?

そんなわけがない。

だから、世の中の人々が、絶対的な真理のように「週5日・8時間」を掲げているのは、ちょっと意味が分からないのである。

 

よく、世の中の人は宗教をバカにする。

ああいうのは心が弱い人がやるものだと、非科学的で頭が悪い人がやるものだと。

だが、個人的な意見を言わせてもらえば、「そうだからそう」という理由でしか説明できない原理を持っている人は、何かしらの”信”に属している。

なぜあなたは週5日も働くのか?

おそらく、ほとんどの人々の答えは、「そうだからそう」であるだろう。

 

そもそも、「技術の進歩」と「労働時間の削減」は、必ずセットで語られるべきではないのか。

例えば、昔はとても時間がかかっていた、書簡のやり取りや、複雑な計算も、今の時代はコンピュータひとつですぐに済むようになってしまった。

しかし、そうやって「空いた時間」には、利益を追求する資本家によって、更なる仕事が詰め込まれるようになる。

そして、その結果、「普通」に求められる業務内容やスキルが上がっていき、人間としてのハードルが高くなってしまっているのが、先進国の現状なのではないだろうか。

 

もちろん、働かないとみんなが死んでしまうような状況――例えば、飢饉の農村や、集団で無人島に遭難した――などで働かないのは、明確な”悪者”だろう。

正直、他のメンバーから叩き殺されても文句は言えないかもしれない。

だが、この社会はイカれている。

なにも問題のない車をわざと壊し、それをわざわざ修理する会社がお金を稼いでいたり、まだまだ食べられる食料が金儲けのために大量に廃棄されていたりする。

そんな社会で、「そうだからそう」という理由で、週に5日も働くことには到底納得できない。

もっと市井の人々は、「労働時間を減らすべき」「ブルシットジョブを無くすべき」と強く主張するべきなのである。

 

そういうわけで、(断じて”敬え”と言っているわけではないが)なるべく働かないで生きているニートやフリーターを、「怠け者」「社会のガン」として叩くのではなく、労働時間が減少した社会の実践者(モデルケース)、もしくは、労働社会への抵抗者として捉えてみてもいいのではないかと、僕は思うのだ。

 

【2】右派ニート・左派ニート問題

働きたくない。それゆえに社会にどのようなスタンスを取るか?

個人的な研究(?)では、これは基本的に2つに分別できると考えている。

それは、「働きたくない。ゆえに社会の保守を望む、右派ニート」と「働きたくない。ゆえに社会の革新を望む、左派ニート」である。

 

右派ニートは、今の社会に包摂されながら、生きることを望む。

アプローチ方法は様々かもしれないが、例えば「資本の配当金で暮らす」「知識人・芸術家・聖職者などの有閑階級として養ってもらう」「インフルエンサー的なポジションを狙う」などのイメージだろうか。

また、「なんだかんだ現代の日本は恵まれている」と考えるのも、こちらに近いと言える。

 

その一方、左派ニートは、今の社会を改革し、生きることを望む。

具体的には、あらゆる労働者の労働時間の削減や、労働環境の改善である。

この辺りは、本来の意味での”左派”と通ずるものがあるだろう。

そして、貧困層や持たざる者が多いのも、同様である。

 

また、このような分類は、個人が「働かない生き方」を目指す上での方針にもなるだろう。

社会の中で「あがり」を目指すのか、社会から「降りる」ことを選ぶのか。

もしくは、「プチブル」を目指すのか、「寝そべり族」になるのか、と言い換えてもいいかもしれない。

 

では、この右派ニートと左派ニートは、どちらが正しいのだろうか?

一見、右派の方が「ズルくて」、左派の方が「正しい」ように思えるが、そうとも限らない。

社会の改革には多くの混乱が伴うし、そもそも”実現”するかどうかすら分からない。

そして、左派特有の正義感や陶酔は、独善や分断を招くことになるだろう。

実際、僕も左派の人に「あなたは寝そべり族を名乗るべきではない」と怒られたことがあるものだ。

 

うーむ、なんとか「働きたくない」の御旗の元に、左右で団結はできないのだろうか。

(両端から”攻める”、いや”怠ける”ようなイメージで)

この問題に関しては、僕も明確な答えを出せていない。

 

【3】反体制はカネになる問題

先ほどの「右派・左派」であるが、自分のポジションに自覚的であるならそれでいい。

「私は働かないで暮らしていきたいです。配当金でも投げ銭でも印税でもなんでも使います。他の人のことはどうでもいいです」

それはそれで、スジが通っているものである。

だが、このニート界隈でよく見受けられるのが、「弱者に寄り添いつつも実際は右派」という”いいとこどり”のポジショニングである。

「無理して働かなくてもいい」「もっとゆるく生きよう」

そう言うのは簡単であるが、実際にそれを実行できるのは、一部の才能がある者だけだったり、資産や実家セーフティーネットを持っているものだけだったりする。

そして、そうした言論で支持を集めた上で、自分はその恩恵を受けてぬくぬくと暮らすのだ。

こうした貴族的不労と正義的陶酔を両立させているのが、多くのニート的インフルエンサーなのである。

(まあ、普通の左翼でも「バラモン左翼」「シャンパン社会主義者」「リムジン・リベラル」「世田谷自然左翼」とか言いますよね)

 

とはいえ、こうした存在を「悪」だとか「間違っている」とするのも、早計であるように思う。

「働かなくてもいい」と大々的に主張してくれる存在は、「労働時間の削減」を目指す人々にとって、どこかで不可欠なものだ。

また、左派だからといって、金を集めたり貯金してはいけないと言われたら、社会主義者などは何も活動ができなくなってしまうだろう。

 

おそらく、ここで必要なのは「自覚」なのではないか。

インフルエンサー側もそれを自覚し、ノブレスオブリージュを心がけること。

支持者側もそれを自覚し、インフルエンサーの動向をチェックすること。

これからの働きたくないムーブメントには、それらが強く必要なのではないかと考える次第だ。

 

【4】生と死の問題

そして、最後は”個人”的な内容が強めになるが、ニートをしていると現れる「生と死の問題」についてである。

長期間ニートをやっている(したことがある)人なら分かると思うが、あの「世界に投げ出されるような」「無に晒されるような」体験のことだ。

 

かっこつけて言えば、元々僕は小さい頃から物思いに耽やすいタイプであった。

だから、「この世界は何なのだろう?」「死んだらどうなるのだろう?」というテツガク的なことを考えることはしばしばあったのだが、ニートをしている中で頻繁に訪れるのは、そのような「知的な戯れ」ではなく、「強烈な実感」なのである。

 

分かりやすい例で言えば、死の恐怖である。

おそらく、「死ぬのが怖い」と言っても、ほとんどの相手には、鼻で笑われて終わるのがオチであるだろう。

そういう問題は「子供のうちに済ませておくもの」であり、「そんなことより明日の業務が恐ろしい」のが普通の感覚だからだ。

 

しかし、ニートには「死」が見えてしまう。

目の前の問題に着目するのをやめると、今度は遠くにうっすらと(そして、くっきりと!)佇む死が”見えて”しまうのだ。

(念の為に言っておくと、これは金銭的・老後的な問題とは関係ないものである〔それらの影響が深層心理レベルでないとは言えないが〕)

 

だから、なにか”目的”を持っているとき、例えばこうやって文章を書いているときはそれに従っていることができるが、何もない無の状態になると、僕は「必ず死ぬ」という事実を強く実感してしまうのである。

 

また、こうした生と死の不安は、ニート的な「イキり」や「イタさ」とも繋がっていると考える。

例えば、ネットでよく見かけるのが、世の中の人々の生き方を小バカにして、「私はそこから降りた」「資本主義から”解脱”した」などと宣うタイプのニートやリタイアラーである。

こういった人々は厭世的な態度を取ったり、世俗から離れたような達観的なことを言うが、矛盾しているのは「そういった露悪だったり、仙人じみた態度の自分を受け入れて欲しがっている」ということである。

つまり、「世の中はクソ」だということを「世の中と共有したがっている」。

そこには、ある種の物悲しさが存在している。

 

とはいえ、そのような気持ちも、僕にはよく分かるものだ。

いや、むしろ、まさに自分こそ「そういうタイプ」なのである。

(これは強烈な自己嫌悪であり、自己批判なのだ)

 

そして、それゆえに、自分にはその理由がよく分かる。

不安なのだ。それも根源的な。

社会的な役割を失うと、人間はなぜ自分が存在しているのか分からなくなる。

だから、意味や理由がほしい。

自分の存在を明確にしてくれる”キャラクター(取っ掛かり)”がほしい。

そうやって、”自称・世捨て人”たちは、自分が世を捨てていることを世間にアピールするのだ。

 

また、こうした問題が危険なのは、インフルエンサースキームと結びつきやすいことである。

「ネット上での”ウケ”が欲しい」「働かなくても得られる不労所得が欲しい」

こうした思惑が結びつくと、過激かつ中身のない、同じような内容をツイートし続ける虚無人になり果ててしまうのだろう。

 

……さて、話が右往左往してしまったが、とどのつまり人間は「酔い」を求めているのではないだろう。

それが自己実現のような「上質な酔い」なのか、労働の苦痛のような「悪酔い」であるのかは分からないが、とにかく何かに酔っている間は「生と死の問題」を忘れることができる。

酔っている間は、”意味”や”目的”の中に、”役割”の中に埋没して生きることができる。

少なくとも、それが現在の僕自身の実感である。

 

「酔い」などと表現すると、なんだか冷笑的に聞こえてしまいそうだが、別にそれが悪いと言いたいわけではないのだ。

生と死の問題を直視することは、確かに誠実なのかもしれない。

だが、それは狂気と紙一重であるし、生と死に怯えながらビクビク生きるのも、僕には正しい生き方だと思えないのである。

(そんな生き方だったら、”酔って”でも何かを成した方が善いのではないか?)

 

働きたくない。かといって、欺瞞に満ちたビジネスニートには堕落したくない。

それならば、生と死の問題を乗り越える方法は宗教しか残されていないのか?

いや、宗教こそが「究極の酔い」ではないのか?

 

どうすればいいのか結論は分からない。

しかし、現時点で分かったのは、「そうだからそう」という”信”や、人生を捧げられるような特定の”酔い”を所持している人々に対して、僕は「批判をしつつも、それが羨ましくてたまらない」というアンビバレントな感情を抱えているということである。

(おわり)

 

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