死ぬまで生きるしかない

僕の好きな標語(?)に「死ぬまで生きるしかない」というものがある。

これは、ある種の”真理”だ。

“真理”とは、一部の優れた哲学者や宗教者のみが会得できるものではないと(少なくとも僕は)思っている。

どんな凡人であっても、「ああ、その通りでしかないじゃないか」と納得できるものが、僕にとって”真理”と呼ぶに値するものなのだ。

そのような前提を踏まえてみると、「死ぬまで生きるしかない」というのは、ほぼ全員の人々が納得してくれるであろう、”真理”である。

僕も、あなたも、世界中の誰しも、あらゆる生命は、死ぬまで生きるしかないのである。

 

別に、僕はこの標語を用いて、暑苦しい説教じみたことを述べたいわけではない。

おそらく、連想されるものとして、ありがちなのは

「我々には身体に定められた寿命があるんだ。だから、自死を選んではいけない。老衰や病気で自然に死ぬのを待とう」

というものである。

もちろん、安易に死を選ぶことを肯定するわけではない。

だが、あなたが何かしらの事情で”そうするしかなかった”とき、それは紛れもなく真っ当な「死」なのである。

そうした人生も、当たり前だが「死ぬまで生きた」なのだ。

 

また、かといって、この標語によってニヒリズム的な生き方を推奨しているわけではない。

「どうせいつか死ぬ」「何をやっても無駄だから無気力に生きよう」

そういった解釈も間違いだ。

我々は死ぬまで生きる。

その生と死の過程に、何かしらの指図が行われているわけではない。

特定の社会活動に身を捧げて死ぬにしろ、俗世から離れ隠者のような生活を送って死ぬにしろ、どのみち我々は「死ぬまで生きるしかない」のである。

 

では、この「死ぬまで生きるしかない」という言葉に、僕は何を見出しているのか。

そんな”あたりまえ”の事実に対して、何を有難がっているのか。

 

僕がこの言葉に救われるのは、”分からなくなったとき”である。

目の前に発生している「これ」。

生、感覚、快不快、三大欲求、社会活動、労働、貯金、寿命、将来、死。

僕には、今ここに存在していることの意味が分からなくなってしまうときがままある。

これは何なのか。

なぜ私は私なのか。

一体何をすればいいのか。

視界がぐにゃりと曲がり、身体が浮かび上がり、裏返った世界の中で全身が捩じ切られそうになる。

こうした苦しみ、意味不明さの中で、僕が頭の中で縋(すが)るのが、「死ぬまで生きるしかない」という真理だ。

僕は死ぬまで生きるしかない。

そうするしかない。

それ以外ない。

それだけでよい。

この言葉に何回救われてきたことだろうか。

 

おそらく、「生きているだけでいい」ではダメなのだ。

そんなことを言われたら

「いや、この”生”とやらはなんなんだ?」

「なぜ、こんなに苦しみながらも生きる必要があるんだ?」

「お前は何をエラそうに知ったかぶっているんだ?」

と相手を激しく、怒りを伴って、問い詰めたくなってしまうだろう。

 

そして、「いつか死ぬだけだ」であってもダメなのだ。

死。死の恐怖。

紛れもない”この私”の死。

永遠の無。無すら感じることができない”絶対の無”!

死に強くフォーカスを当てた瞬間、そうしたタナトフォビアじみた恐怖に覆いつくされ、僕は何もできなくなってしまうだろう。

 

「死ぬまで生きるしかない」には、方向性があるのがよい。

生に着目するでもなく、死に着目するでもなく、「死ぬまで生きるしかない」という導きを我々に与えてくれる。

今ここ、この瞬間、訳も分からず生きている僕を救ってくれるのは、死ぬまで生きるしかないという事実なのである。

 

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