脳内240908

[1]

「悲観は気分に属するが、楽観は意志である」らしい。

本は読んでないけど、哲学者のアランさんがそう言っていたっていうのをTwitterで見た。インスタントTwitter哲学。

楽観……というかポジティブな状態全般に対して思うんだけど、確かに「生きるッッ」って心の中で”意志”しないと、やっていけないのは最近よく分かる。

何も意志や目的を持たず、ベッドでひたすら横になっていると、オートで発生する虚無に飲み込まれ、全身がぼやけて消えそうになってしまう。

 

[2]

とはいえ、「生きる」ってなんやねん、とも思う。

金を稼ぐことが生きることなのか、飯を食っていくことが生きることなのか、脳汁を出すことが生きることなのか。

ここ最近の個人的な体感としては、「生きる」というより、「動く」の方がしっくりくる。

我々は生きている限り「動く」ことから逃れられない。

この文章を書いている自分も「動いて」いるし、この文章を読んでいるあなたも「動いて」いる。

何もしたくないとベッドでひたすら横になるニートも全身の五臓六腑と血流は動いているし、働きたくないとネットに書き込むニートも頭を動かしキーボードを叩いている。

我々が生きている限り、もしくはこの現実とされる世界に現象している限り、「動く」ことからは逃れられない。

それに、「生きる」と考えるのは、なんだかハードルが高いようにも思う。

あるいは、「そんなのやってられない」と思う人も少なくないだろう。

だから、「生きる」のではなく「動く」。

死ぬまで動く。とりあえず動いていく。

 

[3]

「働く」から「動く」へ。

というテーマが個人的にある。

人生において「労働」という分別をなくしていきたい。

やりたいように動いていたら、なぜかたまたまお金が貰えてしまった時間がある。

そんな感じが理想だ。

まあ、別に衣食住があれば、お金なんか無くてもいいんだけどね。

 

[4]

このブログの読者は年功序列とか嫌いそうな人が多そうだ。

自分も学生の頃、部活の先輩に対して「なんでこいつら1~2年早く生まれただけでこんなに偉そうやねん」と思っていた。

とはいえ、ニート・社会不適合者界隈においては、年上というだけで一定のリスペクトを抱かざるを得ないな、と思う。

もちろん、無の者にもかかわらずそこまで生き延びてきたという事実が、一定水準のノウハウやスキルを所持している証左になっているのだが(もしくは異常にLuck値が高い笑?)、それよりも「その社会でうまくやっていけない感じで、その年齢まで、よくぞ生きてきましたね」という敬服の念を真っ先に抱いてしまう。

すごい、すごすぎる。

逆に、なぜ、ふつうの人々は当たり前のように、生きようとすることができるのだろう?

 

[5]

相変わらずメチャクチャ体がだるい。

何かやりたい気持ちはあるのだが、基本的に横になっている。

とはいえ、これはある意味、ものすごく「アグレッシブ」で「活動的」なのではないかと考えるようにもなってきた。

例えば、とにかくメチャクチャ金を稼ぎたいとか、とにかくメチャクチャセックスがしたいとか、そういうことを思って毎日実行している人がいたら、それは「アグレッシブで活動的な人」だと思う。

いや、自分も毎日「衝動」と呼ぶべきようなものを感じている。

横になりてえ。ベッドに寝転んだまま何もしたくねえ。

そして、それを実行している。

思うがまま横になっている。

これは実はものすごくアグレッシブな行為なのではないのか?

鬱で何もできないことも、何もしたくないということを全身全霊で行っているのではないか?

これを能動的横臥と名付けよう。

 

[6]

自分を売り出したくない、”スペック”のようなものに自分を落とし込みたくない、という気持ちが強くある。

例えば、就職活動でもマッチングアプリでもなんでもいいが、自分を学歴や数値に落とし込んだ場合、もし”上位互換”がいれば、何も自分を採用する理由はなくなる。

そんなもの、事実上数字が一番上の人しかやる意味がないじゃないか(だって、それ以外は”仕方ないから余りものを上から選んだ”ってことだろう?)。

自分はただ自分のままでいたい。

ものすごくわがままなことを言っている自覚はあるが、それは自分にとって譲れない一線でもある。

整理整頓されたくない。カオスのままでいたいのだ。

極端なことを言えば、就活や婚活のために「おれがおれじゃなくなる」のなら死んだのと同じようなものである。

 

[7]

現実のオフ会でトークをしていると、たまに「自分は全然ダメなニートで……」や「自分は全然創作できてなくて……」と相手から言われることがある。

なるほど、確かに活動実績や能力で考えれば、その人はあまり具体的なものを残していないのかもしれない。

さっきのスペック論で考えてみても、もっと優れた人がたくさんいるのだろう(それはもちろん自分も含めて)。

だが、自分にとって、そんなことはどうでもいいのである。

この時代、この場所、この季節、この気温、この湿度という、「この場所」に立ち会ってくれたのはあなたしかいない。

世界の存在根拠は分からないが、共にその場に現象してくれたのはあなた以外ありえないのである。

そのような事実に自分はものすごく「有り難さ」を感じているのだ。

 

[8]

上のテーマは「生きてるだけでえらい」という陳腐なものではない。

「えらい」という価値基準の前に、そもそもあなたが先立って存在している。

そして、その存在は無根拠であり、底が抜けている。

これを神秘以外に何と呼べばよいのだろう?

 

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