[1]
気が狂う!
どんな書き出しだよと我ながら思うが、3日前の真昼間、真剣(マジ)で頭がおかしくなりそうになっていた。
体調的な問題――不眠で3~4時間しか寝れず、気絶と朦朧を昼夜問わず繰り返す――というコンディションにも原因があったのだろうが、それに人生的な”問い”も加わってしまい、自分の頭の中は破裂寸前であった。
存在論的苦痛。自分が自分として今ここに横たわっている逃れられない事実。
全身のだるさが世界に存在する抵抗力としての摩擦(ダメージ)を感じ取っていた。
無職詩人風に言うなれば、自分は「無」をオーバードーズしすぎた。
完全にバッドトリップに突入していた。
[2]
「これ」を続ける意味があるのか?
というが真っ先に頭に浮かんだ疑問である。
最近、街並みを歩いていても他の人々が何をしているのか全く分からない。
あなたたちは何をしているんだ?
何のためにそれをしているんだ?
1人1人にインタビューして聞き回りたいぐらいだ。
なぜ疑いもなく目の前の物事に取り組むことができるのか。
そこが自分には分からない。
[3]
在るだけで苦しいのだ。
在るだけで満たされる時もある。
だが、それはコインの裏表のように反転しうるということである。
[4]
「結局、自分は何がしたいんだろう」と考え込んでいた。
一昔前の”2ちゃんねる的”ニートならば、「なんだかんだあったけれど、なんとか社会復帰して暮らしていけるようになりました」というのが求められているストーリーのオチであっただろう。
だが、自分は働きたくない。
週5日8時間も働くことが体調・精神的に非現実的すぎる。
そもそも、あまり生きたくない。
生きる意味が分からない。
「生きる意味がない」というフレーズは安易に使われがちだが、実際に世界から意味を喪失してしまった当事者になると、その言葉の表現していることが身に染みるように分かる。
かといって、死にたいわけでもない。
死ぬのは痛い。死後の永遠の無は怖い。
生きるのも嫌だし、死ぬのも嫌だ。
わがまますぎるだろ。自分。
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そもそも、「意味」とはなんなのか?
色々な意見があるだろうが、分かりやすいのは「自分に変化を与える度合い」だと思う。
ケーキには意味がある。
甘味は脳に幸福感をもたらしてくれる。
道端の石ころには意味がない。
無味乾燥な石は自分の感情に変化を及ぼさない(石マニアでもない限り)。
スズメバチには意味がある。
刺されれば患部から激痛が発生する。
こうした「変化」という解釈を行ってみると、存在の「意味」に対する理解は深まるはずだ。
けれども、「変化」そのものに価値を見出せなかった場合はどうなってしまうのだろう?
いつか自分は必ず死ぬ。みんな死ぬ。地球も宇宙もそのうち無になる。
最終的に「変化」の行き着く先が無ならば、何もかも石ころと変わらないじゃないか。
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「ニートは無能のくせにプライドだけは人一倍高いどうしょうもない存在である」
というのは有名な話であるが、自分も例に漏れずそうなのだろう。
哲学とか思想とか、スノッブな文章を書いたりするのも、「おれはただの無能じゃない」と主張したかっただけだったんだ。
結局はみんなに認められたかったんだ。さみしい人間だったんだ。
自分には根拠が欠落している。
元を辿れば家庭の問題なのだろうか?
自分は母のアクセサリーであった。そこには「自慢になるなら」という条件付きの愛情しかなかった。
父は自分に無関心であった。まともに話した記憶がない。
(愛とは、無条件の存在根拠――必然性を与えることに他ならない)
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社会を改革したいが、社会に押しつぶされて何もできないときもある。
世界を哲学したいが、世界に押しつぶされて何もできないときもある。
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「なぜ自分は自分なのだろう?」という問題について考えてみると思うのは
「絶対的な魂のようなものによる自我が先立っているわけではなく、まず世界(というシステム)があって、そこでたまたま自分という人間が存在する条件を満たしたから、生命の器官の1つである脳の働きとして今この意識が発生しているのだけなのではないか」
ということだ。
そういった風に考えると、自分が体感している苦しさも「ただ世界のシステムに従って発生している現象」に過ぎないのだと理解してみることができる(ロウソクの炎がただ消えるまで燃えるように!)。
苦しいのはただ苦しいだけであり、苦しさについて苦しむ必要はない。
おれはただ、消滅するまで、喜んだり悲しんだりするだけなんだ。
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このブログが書けているということは、それなりに体調が回復したということである。
ご安心ください。