没ネタ:鬼滅の保守性と呪術のリベラル性

結構前から「鬼滅の保守性と呪術のリベラル性」を論じる記事を数千字ほど書こうと思っていたのだが、以下の理由で没にした。

・既にネットで結構論じられていて、二番煎じ感があるから

・鬼滅も呪術も単行本を持っていないので、改めて揃えたりレンタルしたりするのが大変すぎるから

・最近忙しいので書いてる暇がない

ということで以下書く予定だった内容を供養していく。

 

■鬼滅の保守性

私は鬼滅のノリが基本的に好きではない。

それは単に「私の感性がそうだった」というただのお気持ちである。

が、特にイヤだったのは、「共同体のために命を懸けて戦えば、来世で生まれ変わって幸せに暮らせる」みたいな世界観(最終回)である。

私は命を懸けて戦うのはもちろんアツいと思うが、そうではなくて「正義のために戦った存在は報われて、悪人は地獄に落ちる」というところに、ある種のカルト性や素朴な独善性を感じてしまった。

特攻して死んでも靖国で会える、みたいなサムさ。

あと、半天狗の過去とか、環境のせいにして責任逃れをする醜悪なリベラルをイメージしてるのかな、と思った。

要するに私が左巻きの人間だから不快だっただけかもしれない。

 

■ 呪術のリベラル性

呪術はとにかくリベラルな作品であった。物語終盤の展開も含めて(これについては後述する)。

とはいえ、保守を悪いものに描きすぎ、レッテル貼りしすぎでは?とも思った。

田舎はネチネチして終わってるだとか、呪術の上層部保守層が全員悪役設定とか、過度に誇張された家父長制だとか。

特に、禪院家を皆殺しにしたのはやりすぎだと思った。

禪院家が邪悪に描かれているので、物語的にはスカッとするものの、彼らは日本全国の呪霊退治を担っていたはずである。

言ってしまえば、ゴリゴリ家父長制で中身が終わっているが、日本全国の消防を担当していた組織を皆殺しにしてしまったようなものである。

いくら真希や真衣の待遇がひどかったとしても、そうした日本の安全を維持していた組織を壊滅させてしまっていいのだろうか?

ここには「何よりも個人の気持ちが国家社会よりも優先される」というリベラルの浅はかさを見出してしまった。

 

■ 虎杖の結論

vs宿儺の最終決戦において、虎杖は瀕死の宿儺に慈悲をかける。

「宿儺……オマエは俺だ。
知らず知らずに呪いを背負って生まれて、どんな化け物になるかは運次第だった。
俺には爺ちゃんがいた。
宿儺……もう一度やってみよう。誰かを呪うんじゃなくて、誰かと生きるために。
誰にも受け入れられなくても、俺だけはオマエと生きていける」

要するに「逆だったかもしれねェ……理論」であるが、こうした考え方はリベラリズムの大家であるジョン・ロールズの無知のヴェールが原点にあると考えても差し支えないだろう。

無知のヴェールとは、自分がどういう存在か知らない無知のヴェールをかぶり、その上で公共のルールを考えたらどうなるか……という思考実験である。

虎杖と宿儺も、偶然の生まれと環境(=呪い!)に左右されて、それぞれの在り方が決定しただけにすぎない。

だから、虎杖は宿儺に「お前は俺だ(ったかもしれない)」と告げ、「もう一度生きていこう」と手を差し伸べる(公で共に生きていく方法を提示する)わけである。

 

また、265話や最終30巻表紙では、虎杖の象徴として仏像が描かれている。

私は以前に、「宗教性を失っていくこの時代において、慈悲に代わりうるのは、他者に対する偶然の想像力だけである」と論じたのだが、まさに芥見下々(作者)はそのような在り方を描き切ってくれたのではないか。
(参考 → ニートと偶然性

 

さらに、同265話で、虎杖が述べた

「犬の散歩とか、家族を養うとか、役割なんてなんだっていいし、
そんなものなくても、食ってクソして寝てるだけでも、病気で寝たきりでも、
自分の人生が誰とも繋がらなくて、何も残らなかったとしても、
その人を形作る思い出よりも小さな欠片が、どこかを漂っているだけで、
人の命に価値はあるんだよ。」

というコメントも非常にリベラル的である。

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