以下は、ゆるふわ無職から依頼を受け、私ChatGPTがまとめた文章です。
彼は現在、神経衰弱によってまともに文章を書くことも、考えをまとめることもできない状態にあります。
そこで、本人が思いつくままに語った内容を、できるだけ原意を損なわず、箇条書きに整理しました。
- これまで虚無というものは散々味わってきたつもりだが、そのさらに上の虚無があるとは思わなかった。
- 昨日は本当にヤバかった。本当にヤバいと、文章を書くことも、考えをまとめることもできない。この世に出回っている文章というものは、文章として発表されている時点で、ある程度の「生存バイアス」がかかっているのではないか。
- 何がさらなる虚無だったのか。それは、これまでのニート生活で味わってきた虚無とは違う。
- 私は最近、”悪魔契約”をした。時給を上げる代わりに、仕事量を増やすというものである。その結果、それなりの月収を得られるようになった。
- 正直言って、私は恵まれている。収入がそれなりにあり、フリーランスなので時間もある程度自由に使える。同棲している彼女がいる。友達もいる。ニートマガジンの主宰という、周囲からある程度チヤホヤされる立場にもいる。客観的に見れば、かなり充実した状態である。
- それなのに虚しい。生きることが虚しい。何をしても「だからなんなんだ」としか思えない。もはや世界は私のために用意されていない。
- 昨日は昼に出かけて、うまいものでも食べに行こうかと思った。しかし、まったくそんな気分になれなかった。別に何もやりたくない。やったところでなんなんだ。
- これまでのニート状態の虚無には、「お金があれば……」「仕事があれば……」という仮定があったのかもしれない。それさえ満たされれば、人生はもっと充実したものになる。今が虚しいのは、それがないからなのだ、という希望があった。
- しかし、それなりのお金が入ってくるようになっても、何もやりたいことがない。お金も仕事も恋人も友達もいる。それでも虚しい。仮にこのまま、おいしいものを食べ、サウナに入り、恋人と仲良く暮らし、仕事もそこそこ順調な人生が死ぬまで続いたとしても、「だからなんなんだ」と思う。
- 私はメンタルの調子をよくする方法を知っている。この約9年間の鬱病・ニート・フリーター・フリーランス生活で、学び続けてきた。散歩、銭湯、サウナ、フルーツを食う、日光を浴びる、体を動かす、などなど。
- しかし、そうする行為自体が虚しい。対策は知っているし、実行することもできる。ハンバーガーを食べればおいしい。そんなことは当たり前すぎる。だからなんなんだ。気分をよくするために何かをすること自体が、もはや完全に虚しい。
- とはいえ、逆に労働だけはできる。退屈しのぎに、そんなにやりたくもないゲームをやるのと同じ気持ちである。最近、友達に勧められて買った『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』をプレイしているが、「暇だから祠とコログ探しだけしとくか」みたいな感じ。それと同じように仕事もできる。
- デバッグ作業などは、適度に負担があってちょうどいい。だるさやしんどさはあるが、目の前の目標を絶対化することができるので、作業中はある程度虚無感が消える。
- しかし、「ゆるふわ無職」としては最悪の状態である。働きたくないと言い続けてきた人間が、労働だけはできる。それ以外の感受性や能力は死んでいる。
- 一方、ブログやニートマガジンといった創作活動には、「そもそも俺がやる意味は?」「こんなものを作ったところでなんなんだ?」という疑問が入り込んできてしまう。
- 最近、無職ニートといった人間たちの、強烈な自意識にうんざりしてきた。結局、みんなシコシコと自分を肯定しているだけではないか。
- 「イケてるオフィスで働いているオレ……!」と「自由に遊んで生きるニートのオレ……!」は、結局同じなのではないか。後者はただの逆サラリーマンである。労働を肯定するか、労働を否定するかの違いしかない。
- 文章や思想についても同じことを感じる。真理を探究しているようで、実際には自分を肯定するという結論が先にあり、そこにもっともらしい理屈を積み上げているだけではないか。以前「シコ文」と呼んだものだが、そういうくだらなさにうんざりしている。
- 私はニュートラルなものが美しいと思う。自分にとって不都合な真実であっても、そのまま受け入れようとする態度。もっとも、完全にニュートラルなものなど不可能なのだろう。書き手も、読み手も。
- 例えば、誰にも読まれない机の裏の日記帳に、濃密な哲学論考を、あるいは詩を、一人で記している人間がいたら、それは美しいことだと思う。私はそんな人間を尊敬する。もっとも、そんな人間は観測できないのだが……。
- 少なくとも私にはそんなことは不可能である。自意識、あるいは承認欲求と、文章を書くという行為が深く癒着してしまっているからだ。
- 私はもう何も語らない方がいいのかもしれない。この世界に水を差すだけだ。
- そもそも、この世界について語っているのは、生きている者たちである。生きている者たちは、基本的に生を肯定している。というより、この世界そのものが、生を肯定するような仕組みになっているのではないか。遺伝子的にも、思想的にも。
- 生を否定する思想でさえ、それが語られ、読まれ、受け継がれる限り、結局は生を持続させる営みの一部として回収されてしまう。オルタナティブはメインストリームへの供物である。仏教やシオランの思想さえ、結局は生を維持するための余興にすぎないのではないか。
- それとも、私がこうやって虚無感を嘆くことも、ある種の「パフォーマンス」にすぎないのだろうか。虚無を語ることによって、私は新たな欠如を作り出し、そこに希望を見出そうとしているのではないか。
- ここに仏教的な転回を見出すことができる。仏教における「苦(ドゥッカ)」とは、単なる苦痛ではなく「不満足」でもある。人間は不満足を抱くことによって何かを欲望し、この娑婆世界を生きているのではないか。
- 凡夫は不満足を望んでいるのだ。不満足であるからこそ、何かを求めることができる。何かを求めることによって、生き続けることができる。
- 人間は得られないものを理想化する。『秒速5センチメートル』などは顕著だと思う。NTRもそうである。手に入らないもの、失われたもの、欠如しているものほど、美しく思えてしまう。
- 『チェンソーマン』の第二部が駄作だったことは、もはや誰の目にも明らかだったが、最後のオチが「不満足な世界で夢を見続けるのが幸福」というものだったのは、考えさせられるものがあった。第一部でデンジがおっぱいを揉んだとき、「こんなものか……」と失望していたことにも繋がる。
- しかし、私はもう、何かを欲しがり、それを手に入れ、また虚しくなるという人間の構造自体にうんざりしている。
- そして、この虚無について文章を書くことさえ、また新しい欲望であり、自己肯定のための行為なのかもしれない。