人生をコスパから考える – アリとキリギリス

人は何の為に生まれてきたのだろうか。

古代から議論されてきた永遠のテーマである。

生物的に言えば「繁殖すること」かもしれない。

いやいや、知的生命体としてもっと高尚な意義がありますよ、という声も聞こえる。

様々な意見があるかもしれないが、多くの人々に満遍なく受け入れられるような、妥当な落とし所としては

「人間は幸せになる為に生まれてきた」

ではないだろうか。

自分も概ね同意だ。

「いや、それは違うよ」という意見があれば、それはそれで気になるが、この記事に限っては、「人間は幸せになる為に生まれてきた」。

そういう前提で話を進めていこう。

けれども、現代社会を見渡してみても幸せそうな人は殆どいない。

みんな死んだような顔で満員電車に乗り込んでいる。

平日は朝から晩まで働いて、土日は仕事を憂鬱に思いながら過ごす。

全然ハッピーではない。ダメダメだ。

現代人が幸せになるにはどうすればよいのだろう。

みんな大好き「コスパ」から考えてみよう。

そもそも、「人生の幸福量」を可視化するにはどうしたらよいのだろうか。

自分は「人生グラフを積分する」のが手っ取り早いと思う。

人生グラフというのはこういうのものだ。モチベーショングラフとも言うのかもしれない。

「幸福度 × 時間 = 幸福量」であり、この「幸福量」をなるべく大きくするのが、一番「コスパの良い人生」ではないだろうか。

多くの人々はこのような人生を送っている(または送る予定)であるはずだ。

(学生時代は個人に依るのでに±0にさせてもらった)

「アリとキリギリス」でいう、「アリ」のような生き方。

定年退職まで仕事をして、老後を楽しく過ごす。

結果を見てみよう。

…。

明らかにマイナス(青部分が多い)である。

極端なグラフ描写とはいえ、一般的な生き方はコスパがあまりよろしくないようだ。

そもそも、日本人の平均寿命85歳として、その人生の大半をやりたくもない労働に費やすのはいかがなものなのだろうか。

自分のニート気質うんぬんではなく、客観的な意見としてだ。

さらに言及したい点が2つある。

まず、人間いつ死ぬか分からない。

厚生労働省によると60歳まで生きられる可能性は約95%であるそうだ。

意外と死なないようにも思えるが、30人のクラスであったら、60歳の同窓会で約2人は死んでいる。

そう考えるとなかなかリアリティのある数字だ。

老後には◯◯をしよう…などと考えていても、本当にいつ死ぬか分からない。

途中で死んでしまったのなら、「アリ」的な生き方をしていても意味がない。

さらに「老後は楽しめる」のは本当だろうか。

老後には貯金があるのかもしれないが、体力・気力・感受性の衰えは間違いなくあるはずだ。

つまり、「幸福度の最大値」が若い頃に比べて減少してしまっているという事である。

「最も楽しめる時に、最も楽しまない」、これは非常に非効率と言える。

では、コスパを追求するとどんな生き方になるのか。

結論から言ってしまえば、「老後に自死するキリギリス」だ。

自由に人生を謳歌し、老後は自死すると考えると以下のようなグラフになる。

理想論とはいえ、幸福量が多く、不幸量が少ない。

しかし、この生き方が正しいのか?、または実現可能なのか?と考えるといくつか疑問が残る。

まずは「本当に人生を謳歌できるのか?」という事だ。

人間は「人との繋がり」によって幸/不幸を見出している。そうではないだろうか。

ニートの苦しみの本質は「金が無い」ではない。「社会からの否定」や「他者に認められない」ことにあるはずだ。

その日暮らし生活自体はストレスフリーかもしれないが、周囲から理解を得るのは難しい。

アリ社会でキリギリス的な生き方が肯定されることは基本的にありえないだろう。

そんな環境で自信を持って前向きに過ごせるのか?と考えると、難しいものがある。

(逆に言えば、「ニート的コミュニティ」や「同じ価値観を持った人々同士の繋がり」があれば楽しく暮らせるのかもしれない)

そして、「自死」だ。

別に自分は自死を否定するつもりはない。

「罪深い事だ」や「地獄行き」なんて意見もあるかもしれないが、ただ「無」の状態に戻るだけだろう。

産まれる前には記憶がなく、快も不快もなかったのと同じことだ。

それに、激痛で苦しんでいる難病の人間に安楽死を施すのは「悪」なのであろうか?

ちょっと極端な言い方をすれば、「人生の損切り」でもある。

「これから生きていても苦痛しかなく、それに値するような快楽を得られる見込みもない」、そんな人々にとってはまさしく「死は救い」であるのかもしれない。

その理屈でいくと、「年老いたキリギリス」にもそれは適用できる。

貯金は殆ど無く、身体も衰え、これからは老病死しか待ち受けていないような未来。

そんな状態において「自死」を選択するのはあり得なくはない話だ。

ただ、頭では分かっていても、やはり死ぬのは怖い。

「本当に自死が実行できるのか?」

そして

「自死が決定している人生を前向きに歩めるのか?」

という疑問は残る。

(ちなみに自分は積極的に自死を肯定している訳ではない。

基本的に健康な人は自ら死ぬべきではないと思っている。

多くの人々の「死にたさ」は「視野が狭くなっている」「生き方が間違っている」「現代社会の風習や価値観に囚われ過ぎている」などであるはずだ)

「アリ」と「キリギリス」、どちらの生き方が正しいのだろうか。

これらについて、意見を述べていこうと思う。

自分の生活が「アリかキリギリスか?」と問われたら間違いなくキリギリスである。

まともに働かないで、こんな文章を書いている時点でそうだろう。

ただ、「コスパを求めてキリギリスのように生きよう!」とするのは、なんだか間違っている気がする。

そもそも、人生にまで「コスパ」を求めるのはいかがなものだろうか。

日常でコスパを意識する事はあれど、人生までコスパ至上主義なんて物悲しい。

それこそ、生涯年収で人生の価値が決まると考えているような人々と対して変わらないはずだ。

結局、大切なのは「今を生きること」だと思う。

今日を楽しく生きる事によって、明日も楽しく生きようと思えるような毎日を過ごす。それが本来の人間の生活であるはずだ。

無駄に長生きしようなどと考えて、今日を犠牲にするからおかしなことになってしまう。

冒頭で「人は幸せになる為に生まれてきた」と述べたけれど、厳密に言うと自分の考えはちょっと違う。

逆転的な発想になるが

「生きててよかった」

そんな瞬間の為に「生きている」のではないだろうか。

生きててよかったと思えるような日々を積み重ねることによって、結果的に「幸福量の多い人生」になっていく。

それが自然なことであるはずだ。

「アリ」とか「キリギリス」とか「コスパ」に縛られてはいけない。

「楽しく生きること ≒ 仕事」にできるかもしれないし、「今を生きること」を続けた方が案外長生きしたりするかもしれない。

とてもありきたりな言葉だが、人生は一度きりだ。

いつ死んでしまうか分からないけれど、思うように生きた方が後悔は少ないだろう。

最後に自分の考えをまとめてみる。

・今日を楽しく生きる事によって、明日も楽しく生きようと思えるような毎日を過ごす。

・そのような日々の積み重ねにより、(結果的に)幸福量の多い人生となる。

・楽しいことを仕事にする。

・似た価値観を持つ人々と交流する。

・「長生き」とか「コスパ」を主に考えるのはちょっとズレている。

・いつ死ぬか分からないので、後悔の無いように生きる。

ざっとこんな感じだろうか。

かといって、必死に幸せに生きようとするのもちょっとおかしな話である。

幸福ポイントをたくさん集めたとしても、あの世で景品に交換してもらえる訳ではない。

突き詰めれば、人生に意味なんて無いのだから、どうせなら楽しく生きる。

そのぐらいのノリで充分だろう。

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