■ 本当はただ平穏でありたいだけなのだ
なぜ、働かない人は働かないのだろう。
僕に関して言えば、のんびりしたいのである。
心穏やかに過ごしたいのである。
平穏を完成させたいのである。
それが最も切実な理由だ。
しかし、もちろん、ニートやフリーターという存在は経済成長主義の現代において、社会のお荷物である。
システム上、人々からは叩かれることも、やむを得ない存在かもしれない。
他者から否定されたり、非難されるのは、誰だって嫌だ。
僕だって面と向かってディスられたら、それなりに傷付いてしまうだろう。
批判を避けるためにも、誰もが「正しく」在りたい。
そして、世の中に認められたい。
自分の行為に意義を持たせたい。
おのれの怠惰に大義名分を得たい。
(少なくとも僕はどこかで)そう思ってしまうのだが、これがなかなかのトラップだと思う。
■ 作用・反作用の法則
「ニート」や「怠惰さ」を肯定する方法は意外とたくさんある。
「反資本主義・ポスト資本主義である」
「これがFIRE・セミリタイアだ」
「オルタナティブな生き方を探求」
「おれはアナーキストなんだ」
「昔の偉人がそー言ってたから」
「ネオ仏教徒です」
他にも、頭をひねればいくらでも理由は思いつくだろう。
そして、僕も含めて、こういった内容をネットなどで発信するわけだ。
そうすると、ここでもちろん、反論やアンチが生まれる。
これは「どちらが正しい」といった話ではなく、当たり前のことなのだ。
「物体Aが物体Bに力を加えると、物体Bは物体Aに反対向きの力を返す」。
力を加えれば、力が返ってくる。作用・反作用の法則。
世の中の摂理と言ってもいいだろう。
すると、そこで怠惰者たちは「怒り」や「自己肯定」に囚われてしまう。
反論やレスバトルに躍起になり、本来求めていたはずの「平穏」を失ってしまうのだ。
考えてみれば、そりゃそうかもしれない。
それが社会的地位の無い者たちの、唯一のポリシーであり、プライドであるのだから。
■ エンタメ型ニートと僧侶型ニート
ある程度、成熟した社会において、王族や貴族を除くと、肉体的な労働を免除されていたのは、大まかに2種類の人種に分けられると思う。
それはエンターテイナー型か、僧侶型である。
大道芸人や詩人、あるいは芸術家、そして、僧侶や哲学者などに加えて、物書き。
これらの人々は、何もしていなかったわけではないが、直接的な労働ではなく、観念的な労働を行っていた。
「最悪、無くても生きていける」という意味では、ある意味不要な存在であり、ニート的であるとも言えるだろう。
現代のニート、もしくは怠け者においても、大別すれば、「エンタメ型」と「僧侶型」に分けることができるはずだ。
僕はなるべく働きたくないので、いつも豆腐と水道水で暮らしているような生活をしているが、「エンタメ型」の人々も嫌いじゃない。
「働きたくないけど、お金は欲しい!」「うまいものは食いたいし、モテたい!」
それはそれで見ていて気持ちよくて好きだ。
応援しているし、そういう人々が社会で活動していると面白いと思う。
その一方で、あまり理解できないのは、目立ちたがりの隠者である。
■ 有名な隠者のジレンマ
「むかしむかし、あるところに、世を捨てて、山小屋に住み始めた隠者がおった。
彼はそんな生活をしばらく続けていたが、ある日、村に降りて作物を貰う代わりに、自身の生活や思想を説いたそうだ。
すると、彼の評判はたちまち噂になり、彼の山小屋には、他の町や他の国から教えを乞うもの、更には彼を論駁するものが次々と現れた。
そして、彼はこう嘆いたのである。
『私は穏やかに暮らしたかっただけなのに!』、と。」
……というのは、僕が考えた例え話であるが、そもそも「有名な隠者」というのは、その存在自体が矛盾してしまっているだろう。
この例え話でいえば、隠者はそれなりにかわいそうであるが、そもそも彼は村に降りなければよかっただけの話なのである。
穏やかに、ひとり慎ましく山小屋で暮らしていれば、こんなことにはならなかったのだ。
ニートやセミリタイア系のSNSや各種メディアを見ていると、こんな感じの話がやたら多いなと思ってしまう。
叩かれるのが嫌ならば、ひっそりと暮らしていればいいのだ。
もちろん、ネットで他人を叩いているような人々はしょうもないけれど、名誉欲や金銭報酬のために、自身を売り出したのは自分なのだから、そこで「僕は一方的な被害者なんだ」「僕を叩く奴は全員悪いやつだ」という態度は通用しないんじゃないか?と思ってしまう。
決して、卑屈になれというわけではない。
けれども、僧侶タイプ・隠者タイプというのは、「この人は、周りに感謝を忘れず、慎ましく清貧に暮らしているから支援してあげよう」と思われてこそ、生活が成り立つものなのではないだろうか。
(オラついてる僧侶を支援したいと思わないでしょ)
■ ニートよ、怠惰のプライドを取り戻せ
というわけで、いろいろ語ってみたが、もちろん、ツッコミどころもあると思う。
「そういうオメーはなんなんだよ」
「あなたもこういう文章を書いちゃって『自己肯定』が強いですね(笑)」
「現代ではエンタメ型と隠者型の境界って曖昧じゃね?」
……みたいな。
それはそれで、受け付けるとして、僕が言いたかったのは、「もっと誇り高く横になろう」ということだ。
「ニートはこんなに自由!」「働いたら負けw」「結婚・子供は不要です」
わざわざ、そんなことをいう必要があるのだろうか。
言えば、言うほど、必死で滑稽に見えてくる。
例えるなら、ケーキを食べている人の周りで、「おせんべいは最高! ケーキを食べても太るだけ!」と言いまわっているような。
本当におせんべいが好きなら黙っておせんべいを食べればいいし、ケーキを食べている人はケーキが食べたいのだから、そんなことを言う必要はないはずなのだ。
(ただ、ケーキを無理に食べて苦しんでいる人に「おせんべいを食べるって生き方もあるんだぜ……?」と勧めるのは別に悪くないことだろう)
他では、こんな煽り文句を受けることがあるかもしれない。
「将来不安じゃないのw?」
そんなときは必死に反論するのではなく、静かにこう言えばいいだろう。
「はい。不安です」、と。
不安さを覆いかぶせても仕方ないじゃないか。
強がってごまかしても仕方ないじゃないか。
ただ、静かに認めてみればいい。
「ああ、不安だなあ」
それがニートの試練であり醍醐味でもあるはずだ。
もっと懐深く、大きいスケールで怠けよう。
平穏の完成があらずに、真の寝そべりはあらず。
最近、それを強く実感してしまう。
(この前、読んだ本)