なんだか寝れないのでフリートークでもしますか。
今日はニヒリズムとニートの話をします。
ニヒリズムとは何か、と言えば「虚無主義」のことですよね。
虚無の主義。虚無主義。
なんとなくみんなニュアンスは把握していると思いますが、goo辞書によると「既存の価値体系や権威をすべて否定する思想や態度」のこと。
うん、そんな感じですね。
この人生に意味はない。
この世界に意味はない。
こういうこと言ってるタイプの人はニヒリストだと思います。
「ひねくれてんなあ」とか「暗いなあ」って感想ですかね。
まあ、僕もニヒリストに近い立場ではあるんじゃないでしょうか。
そもそも、ニートとニヒリズムっていうのは、とても相性がいい(ように見える)んですね。
例えば、「サラリーマンとして週5で働いていないヤツは社会人失格だ!」みたいのあるじゃないですか。
ああいうのって、全く根拠がないですよね。
ただなんとなく、世間が同調圧力でそう考えているだけ。
こういう意見はニヒリズムの前では跡形もなく吹き飛びます。
「いや、そんなの絶対的な意味はないですよね」と。
「なんかアカシックレコードとかに宇宙の真理として『週5労働』が刻まれているんですか?」と。
まあ、最悪ぶん殴られるかもしれないけど、相手も明確な反論をすることはできない。
これがニヒリズムの強さですよね。
あと、ニヒリズムには良い側面もあると思うんですよ。
例えば、「私は人間失格だ……」と苦しんでいる人に、「いやいや、人生や社会のレールに絶対的な意味なんてありませんよ。だから気楽に生きましょうよ」と手を差し伸べることができる。
これって、神や信仰を持たない科学主義の中で生きる現代人にとっては、なかなか腑に落ちる説明(世界観)ですよね。
絶対的なものは存在しない。この世界は全て物質でできていて、ただ原子の運動が存在しているだけである、と。
(唯物論ニヒリズムとでも呼べばいいのだろうか?)
こういった背景を踏まえると、初期~中期の自分は「ニヒリズム推し」だったんですね。
今でも基本的にはニヒリストなんですけど、まあ~最近は「ニヒリズム1本で死ぬまでやっていくのは厳しいな」という感想ですよ。
何が厳しいかと言えば……うーん、まさしく「虚無」なんですよね。
例えば、この世界や社会には絶対的な意味がないとするじゃないですか。
でも、死んだりするのは痛くて苦しいので、とりあえず生きていくことになる。
そうなると、何を根拠に生きていくかと言えば、本能的な肉欲というか、生理的欲求に従うことになりますよね。
まあ、現代は(これまでの古今東西の歴史に比べたら)非常に豊かな時代じゃないですか。
だから、ジャンクフードやスナック菓子だっていくらでも食べられる。
ニートなんで無限に寝れるし、まあ下世話な話アダルトコンテンツだって充実しているわけですね。
そういう生活をずっと繰り返していると、なんだろう……パターン化するというか……。
まさしく、パターン化が虚無を呼ぶんです……。
例えば、100回読んだ本とか、100回遊んだゲームがあったとするじゃないですか。
「それもう1回読んだり遊んだりしろ」って言われたらどう思います?
「いや、もう飽きたわ」「散々知ってるわ」って感じですよね。
快楽に従う生活もそんなもんなんですよ。
例えば、マックとか好きだし、「食べていいですよ」とか言われたら普通に嬉しいんですけど、結局考えてみると「同じパターン」が繰り返されるだけじゃないですか。
ビッグマックだか、チキンフィレオだか、ポテトだかのあの味が再現されるだけじゃん、っていう。
「それになんか意味あるの?」とか「それもう知ってるからあんま興味ないわ」って感想ですよ。
だから、なんだか中途半端に無欲な人間になってしまった。
まあ、たまにはおいしいものも食べたいし、生きていく以上は欲も沸くけど、本質的には興味ないですよ、って感じ。
最近思うのは、自分自身だけの幸せを追求する生き方には限界があるんだな、ということ。
結局、待ち受けてるのはパターン化で、それは永遠の虚無なんですよ。
だから人間はアラサー辺りになると、赤ん坊(カオス・非パターン)を持って、自分以外の幸せを重視する生き方に移行する(ようになっている)のだと思う。
でも、別に僕は「やっぱりニートは働け」とか「結婚しないとヤバイ」みたいな話をしたいわけじゃないんですよ。
確かに結婚や子育ては「真っ当な道」なのかもしれないですけど、中には「なんでこいつが結婚できたんだ?/子供作ってんだ?」みたいなヤツいるじゃないですか(あなたの身の回りにもそういう人いませんか?)。
あとは、悲惨な例だと、小さい子供が虐待されて死んでしまったりしますよね。
ああいう人間でも、「親」にはなれてしまう。
だから、「親になる」とか「結婚する」が「=正しい」わけではない。
これは間違いないと思います。
では、どうすればいいのかというと、前回の記事でも同じようなことを言ったんですけど、「ニートは別に働かなくてもいいけど、自分が他人に何をできるかは考えてみた方がいい」ってこと。
中には「説教臭くてウゼーな」と思う人もいるかもしれないけど、そういう人はまず自分の欲望をひたすら満たしてみるのが良いと思います。
そういう生活を続けていると、いつか「どうしょうもない虚しさ」を突き付けられることになるんですね。
逆に、無理に「親切」や「善行」はしない方がいいかもしれない。
自分が満ちてないのに無理にそういうことをすると、不健全なものになってしまうような気がするから。
いろんな方面から怒られるかもしれないけど、ブッダ(ゴータマ・シッダールタ)さんとかもこういうパターンだったんじゃないかと思ってますね。
王族に生まれて、贅沢に暮らして、何も不自由することはない……。だが、何かが決定的に虚しい……。
そういう背景が出家のルーツにあるんじゃないかと。
結局、彼は「仏教」という宗教を生み出すことになりましたが、去年の終わりぐらいから、僕の中で「信仰なき隠遁は可能なのか?」というテーマがあります。
隠遁とは、一般社会との関係を絶ち、生活すること。
特にキリスト教や仏教など多くの宗教の宗教者、または宗教的背景をもった隠者が多数知られる。
ですからねぇ。
まあ、「信仰」まで行かなくても、「信念」のようなものは必要な気がします。
かっこつけて言えばアウトローの美学。
ニートすんなって言ってんじゃないの、ダサいことすんなって言ってんの。そんな感じ。
そろそろ眠いので今日はこの辺でおわり。
もう朝の4時ですよ。おつかれさまでした。