①
ニートボケが最近ひどい。
単純に老化なのかもしれないが。
具体的に言うと、時間……というものがよく分からなくなってきた。
別に「記憶がない」っていうわけではないのだが、「自分が明確な意志を持って、それをしていた(している)」という実感が薄れてきている。
意志薄弱? 神経衰弱?
こうやって、ブログを書いて公表したりすると、「普通に考えているじゃないか」と思われるかもしれない。
けれども、なんと言えばいいのか、それは反射的な反応というか、脳にストックが溜まったから垂れ流れてしまう、といった具合なのである。
だから、ちょっと無責任に思われるかもしれないが、過去のブログやツイートを見ると
「あれ? こんなこと書いたっけ? でも、確かに自分が書きそうだな」みたいな感想になる。
自分が明確な意志を持った人間ではなく、Aという刺激を受けてBというリアクションを返すただの動物に近く感じる。
もうだめだ。
②
最近は涼しくて過ごしやすい。
金曜日は昼散歩をしながら、ちょっと遠くの銭湯に行った。
ゆっくり湯に浸かった後は、帰りにカレーを食べて、家でだらだら寝そべってドラクエ6の続きをした。
なにも不満のない、とても充実した1日である。
幸福。これで幸福ではないと言ったら、それは高望みしすぎだ。
……ただ、僕は幸福がとても恐ろしい。
それは「ある条件によって幸福になる」ということは、「別の条件が与えられたときは、苦痛が襲い掛かる」の証左に他ならないからである。
どういうことか。
例えば、最近は「気温がちょうど良くて、過ごしやすく、心地いい」。
ただし、それは「高温の熱風に晒されたら、全身に大火傷を負って悶え苦しみ、低温の極寒に晒されたら、全身が凍傷に襲われ震え死ぬ」ということを証明しているとも言えないだろうか?
僕はどうしても、幸福の裏側に潜む、逆のポテンシャルに目を向けてしまう。
ネガティブとか暗いとか言うのは勝手だが、別に僕は間違ったことを言っているつもりはない。科学(物理法則)的にも。
恐ろしい。幸福が恐ろしい。
だから、僕が究極に求めているのは、「条件に依らない幸福」なのである。
死刑前日でも、末期病の激痛の中でも、「私は幸福である」と思えない限り、それ以外は「まやかしの幸福」に思えてしまうのである。