①
「死」とはなんだろう、と考えてみると、あらゆる感覚・思考の消滅だと思う。
ここでは感覚も思考もひっくるめて、「私に発生しているもの」として考えてみたい。
「死」とは、私に発生しているものがなくなることである。
手触り・におい・輝きといった、わけも分からず目の前に現れては消滅していく「これ」と、それに付随して発生する脳の思考が完全になくなってしまうことである。
だが、そうして「死」を捉えてみると、私にとっては「死んでいる部分」の方が多いのではないかとも思う。
例えば、私はあなたに発生している感覚や思考のことが全く分からない。
もちろん、「そう感じているのだろう・考えているのだろう」と推測することは可能だが、それを直接的に経験することはできない。
つまり、私にとって「この世界に発生しているもの」はほとんど死んでいる。
古今東西すべての生物に発生していた/いる/いくだろう「生(感覚や思考)」について考えると、私が体験している「生」とは、それの0.000…0001%にすぎないはずなのだ。
パーセンテージで言えば、私は既に限りなく死んでいるのである。
そのように考えると、私はほとんど「死」の中に浸かっていることに安堵する。
だが、それと同時に、なぜわざわざ、この時代の、この人間の、この私に、このわずかな「生」が与えられているのかと、かと、かと……
②
私にとって死のイメージとは、「石」になることである。
例えば、私の右腕を切り落としてしまったとする。
そうすると、私は二度と「右腕の感覚」を味わうことはできなくなる。
(実際には幻肢痛などの症状があるが、今回はスルーしてほしい)
切り落とされた右腕は、私にとって、もはや「石」と同等のものである。
私たちは石の感覚を得ることはできないし、石はただ無機質にそこに佇むのみである。
左腕や脚はもちろん、脳髄だって「石」になってしまうときがやってくるだろう。
とはいえ、それは不幸なことなのだろうか?
仮に第三の腕があったとしよう。
そして、私はたった今それを喪失してしまった。
二度と、第三の腕から発生する感覚を得ることはできなくなってしまった。
だが、それによって苦痛や恐怖、悲しみが湧き上がることもない。
私は死の恐怖に駆られたとき、「石」になってしまった第三の腕のことをよく考える。
③
「1か0か」「ONかOFFか」のような考え方をするから、死が恐ろしくなるのだと思う。
死とはバンジージャンプのようなものではなく、グラデーションなのではないか。
例えば、医学用語で「意識レベル」という言葉があるが、そこまで難しく考えなくても、起きているときは意識がはっきりしているし、寝ているときは意識が低下している。
①の項目で、私は死について「あらゆる感覚・思考の消滅」だと述べたが、そうした感覚や思考の明瞭さは日常の中でもグラデーションを描いている。
(うまく伝わるか分からないが、私は「私の存在が消滅する!」のような「立体的」な捉え方ではなく、目の前に現れては消える「これ(感覚・思考)」の出力レベルが0になるという「平面的」な捉え方をしている)
死とは、その生の意識レベル(出力レベル)が0に安定するだけであり、特段に恐れるものではない、と考えることもできるのではないか。
(確かに、崖から飛び降りろ〔飛び降りることになるぞ〕と言われたら、恐怖で泣きわめくものもいるのだろう。
だが、実際はそうではなく、私たちは普段から坂を上り下りしている。
ただ、最終的に標高0mの平地に辿り着くだけなのだ)
④
自死の是非、について友達と話題になったことがある。
そのときの結論はこうであった。
「健康にのびのびと育っている子供(自然な状態の人間)が死にたいと考えることはないはずだ。
つまり、『死にたい』と考えてしまうのは普通ではない、異常な状態なのである。
そうした普通ではないときの感情に従うことは正しいことではない。
死にたいからといって死んではいけない」
というものである。
確かに、この意見は一見正しいように思える。
だが、家に持ち帰って改めて考えてみると、その結論が正しいのかどうか分からなくなってしまった。
まず、私たちは子供でもなければ、本能のままに生きている野生動物でもない。
多数の経験が折り重なることによって生まれた「私」がある。
確かに「苦しい環境」や「死にたい感情」は普通ではないかもしれない。
基本的に私も「そこから離れて一旦冷静になるべきだ」と考えるし、アドバイスするだろう。
だが、そうした経験があってこそ、今の「私」が存在する。
そうした苦しみがなければ、今の「私」とされる思考はなかった。
つまり、「私」というものを尊重するならば、安易に「死ぬのはおかしい」と断言するのは、相手の否定にも繋がるのではないか。
自死の是非、これは本当にわからない。