
⚠️この記事には、性的表現・下ネタ、あるいは男性主観的な発言が多く含まれます。これらが苦手な方は閲覧をお控えください⚠️

2026年5月4日(月) 文学フリマ東京42において『NTR論 -But Love Always Wins in the End-』が発売される。今回はこれを記念して、著者のゆるふわ無職氏にインタビューを行った。(以下、約18,000字収録)
――『NTR論』、発売おめでとうございます。
ありがとうございます。
――まず、簡単に自己紹介をお願いしてもよいでしょうか。
はい。私はゆるふわ無職というハンドルネームで活動している者です。その名の通り、2018年に大学を無内定で卒業してから、ニート・週3フリーター・零細フリーランスなどを行き来しつつ、「ゆるい無職」として生活を送っています。執筆活動も行っており、これまでに電子書籍『寝そべり族マニュアル』『徘徊する肉塊』を発表しました。また、『ニートマガジン』『まともマガジン』などにも寄稿しています。ブログもやっているのでよければチェックしてみてください。
――ありがとうございます。ゆるふわ無職さんはその名の通り、「無職ニート系の文筆家」という印象があるのですが、なぜ今回は「性」や「NTR」というテーマを取り扱ったのでしょうか?
それについては様々な理由があるのですが、まず第一にそのような「無職ニート系」のイメージから「一皮剥けたかった」というのはありますね。
――なるほど。無職やニートをテーマに文章を書くのは卒業ということでしょうか?
いや、そういうことではないですね。もちろん、「無職ニート」「働きたくない(働けない)」といった問題は現在進行形で切実なテーマですので、今後もコミットしていくつもりです。でも、その一方で「ずるいんじゃないか」という気持ちもずっとあったんですね。
――「ずるい」とはどういうことでしょうか?
それは「無職ニート」とか「働きたくない」というフックのことですよね。例えば、全く知らない人の日記本やエッセイって手に取りますか?
――うーん、何か接点や共通点がなければ、わざわざ読まない気がしますね。
ですよね。そう考えると「働きたくない」っていうのはものすごいパワーがあるフックなんですよ。ほとんどの人間が大なり小なり「働きたくない」っていう思いを抱いているわけですから。
――なるほど。つまり、そうした「無職ニート」「働きたくない」の文脈から一度抜け出してみたかったということですね。
はい、その通りです。「無職ニート系の文筆家」のゆるふわ無職ではなく、一度「ただの文筆家」のゆるふわ無職として勝負してみたかった。そういう意気込みがあります。
――分かりました。ご回答ありがとうございます。それにしても「NTR」とはかなり過激な題材ですよね。何か理由があるのでしょうか。
それはもちろん、まず自分自身が強くNTRに惹かれているからという理由がありますよね(笑)
――なるほど。アダルトメディアでもNTR作品をよく鑑賞するのですか?
はい。特にエロ漫画だとほとんどNTR作品ばかり読んでいる気がします。純愛では満足できないジャンキーになってしまいました。あと、アダルトビデオを見る際も「NTR式AV鑑賞法」を実践していますね。
――NTR式AV鑑賞法とはなんでしょうか?
これは本作にも詳しく書いたんですけど、男性がAVを見るときって普通は画面の中のAV男優に感情移入してAV女優を犯すわけじゃないですか。
――そのような男性が一般的にはほとんどでしょうね。
でも、「NTR式AV鑑賞法」は自分を第三者だと考えるんですよ。いわゆる「NTRビデオレター」だと思ってAVを鑑賞するわけです。

――なるほど(笑)。でも、その画面の中のAV女優は別に彼女や妻ではありませんよね?
ですので、そこで重要になってくるのが、冒頭のインタビューをしっかり見ることなんですよ。我々は「かわいいな」「すてきだな」って本気で画面の中の女の子に恋をしなければならないんです。これを自分は「最初の10分できみに恋をする」と表現しています。
――そして、そのあとその女の子が屈強なAV男優に寝取られると(笑)
はい。「あとの100分ぼくはただきみが犯される姿を眺めつづける」というわけですね。時間は無慈悲に進み、画面の中のきみにぼくは何もすることができない――その無力感と焦燥感の中で、ペニスをいきり立たせるというわけです。
――でもなぜそのような特殊な鑑賞法をするのでしょうか? 普通にAV男優に感情移入するのでは満足できないんですか?
うーん、なんですかね。男優に感情移入するのってただの空想じゃないですか。でも、第三者のNTR視点で鑑賞するのって紛れもない現実ですよね。このリアリティに惹かれている気がします。あるいは、「せつなさ」を求めているのかもしれません。
――せつなさ、ですか。
はい。この「せつなさ」は『NTR論』における根幹だと思っているので、詳細は後に譲りたいと思います。
――分かりました。楽しみにしています。では、ゆるふわさんの個人的な性癖以外に、NTR論を書こうと思った理由はありますか?
そうですね、もちろん個人的な動機も重要なんですが、自分は意外と社会的な必要性を感じないと筆が進まないタイプなんですよ。
――そうなんですか?
はい。これまでの活動で言うと、『寝そべり族マニュアル』は「日本にも寝そべり族という概念を広めるべきだ」というモチベーションがありましたし、『徘徊する肉塊』は「ニート・実存・偶然性」というテーマがもっと論じられるべきだというモチベーションがありました。私が主宰している『ニートマガジン』も「この20年代に無職・ニート・労働問題について議論できる論壇的マガジンが絶対に必要だ」というモチベーションから活動を行っています。
――なるほど。ということは、「NTR」も議論の必要性を強く感じたと。
はい。おそらく多くの人は、自分がNTRを論じることを「サブカル的な逆張り」だと思っているかもしれませんが、実際にはNTRってもはや国民的メインストリーム性癖なんですよ。
――NTRといえば、一般的な純愛エロに対するカウンターカルチャーのような印象を受けますが、そうではないんですか?
はい。例えば、国内最大手のアダルトメディアサイト、FANZA同人のレポートを見てみると、NTRは2018年も2023年も人気アクセスキーワードランキング1位なんですよね。

――おお、これはすごい人気ですね。
そうなんです。これだけの人気と規模を誇るのに、NTRは体系的に論じられたテキストがほとんどない。一部の個人ブログなどはヒットしますが、数万字規模で理論化されたものは見当たらない。本来ならば『なぜ現代男性はNTRに惹かれるか?』という新書が出ていてもおかしくない領域だと思います。
――需要に対して言語化が追い付いていない、と。
まさにその通りです。そもそもNTRというのは「最愛の彼女や妻が寝取られる」という屈辱的で絶望的な体験なわけじゃないですか。それにも関わらず、我々のペニスはその無力感と比例するように硬く怒張してしまう。それはなぜなのか? おそらくNTR愛好家でもほとんどの人が上手く説明できないんじゃないでしょうか。
――改めて考えてみればその通りですね。
そのような疑問が「そういうものだから」で片づけられていいのか? ただの「性的倒錯」の一言で済まされていいのか? NTRで興奮してしまう理由は、もっと根源的なものと繋がっているのではないか? そして、それは多くの人々に共有されるべきではないか? こうした想い――あるいは使命感が自分の中で大きなモチベーションになっていましたね。
――分かりました。ご回答ありがとうございます。
◆
――それでは、続いて『NTR論』の内容についてお話していただきましょう。今回発売される『NTR論』はどのような内容なんですか?
それをお話しする前に、まず前提として自分の文章に対するスタンスを語ってもいいでしょうか。
――はい、お願いします。
そもそも自分は文章に対して、「自分にしか書けないものが書きたい」、あるいは「自分以外がもっと優れたものを書けるならば、自分がそれを書く必要はない」と思っているんですよね。
――なるほど。
例えば、純粋に学術的・哲学的にNTRを論じるのであれば、自分よりも正確に書ける人はたくさんいると思います。なので、学術的なレベルの土俵で戦うのではなく、「この私」が感じた「この私」による『NTR論』を書く必要があった。あるいは、書くしかなかったんです。
――それが今回発売される『NTR論』の特色であると。
はい。だから極めて主観的というか、一人語りの激しい――セカイ系的な作品になってしまいました。とはいえ、文学フリマで販売するインディーズ作品としては、衝動に満ちたものに仕上がっていて個人的にはとても満足しているのですが。
――個人出版だからこそ可能だったアプローチなのかもしれませんね。本題に戻ると、今回の『NTR論』のメインテーマはどのようなものなのでしょうか?
そうですね。前半はシンプルに「なぜNTRはエロいのか?」ということを論じたつもりです。
――なるほど。では、なぜNTRはエロいのでしょうか?
そもそもの話なんですけど、「エロい」って何だと思いますか?
――え? うーん……それは、男性からすれば「おっぱい」や「お尻」がエロいんじゃないですかね。なんだか小学生みたいな回答になってしまいましたが。
そうですね、多くのシスヘテロ男性――身体と性自認が男性で、恋愛対象が女性の男性――にとっては「おっぱい」や「お尻」、あるいは女性の裸体がエロいものだと考えられているはずです。
――はい。
でも、本当にそうなのだろうか?という疑問がありまして。これはよく自分が出す例えなんですけど、インタビュアーさんは「ヌーディストビーチ」ってエロいと思いますか?
――エロいんじゃないでしょうか?
では、実際に画像を見てみましょう。以下は、Wikipediaに掲載されていたヌーディストビーチの写真です。

――うーん、確かにおっぱいは綺麗ですけど、あんまりエロくないっていうか、どこかさわやかな印象を受けてしまいますね。
そうなんですよね。自分もヌーディストビーチはエロくないと思っています。ヌーディストビーチにエロスは存在しない。ドキドキしながらヌーディストビーチで画像検索してみたけれど、思ったよりエロくなかったというのは多くの男性が体験しているのではないでしょうか。
――なぜヌーディストビーチはエロくないのでしょうか。
結論から言うと、それは「禁忌」が存在しないからです。
――禁忌ですか。
はい。我々は「してはいけないことをしている」という感覚――禁忌の侵犯にエロスを見出しているんです。そうした理解を踏まえると、ヌーディストビーチには、前提となる「裸を見せてはいけない」という禁忌や、それに伴う「はじらい」が存在しない。だから、エロくないんです。
――なるほど。私たちは単に女性の裸体を見て興奮しているのではなく、「禁じられているはずの女性の裸体を見てしまう」という禁忌の侵犯によって興奮していると。
その通りです。このような主張はエロティシズムの思想家、ジョルジュ・バタイユが源流なのですが、バタイユはこのように述べているんですね。「エロティシズムとは死に至るまで生を称えること」であると。

――どういうことでしょうか。詳しく説明お願いします。エロスと死が関係あるんですか?
はい。つまりエロスとは、禁忌に触れることによって自己の境界が崩壊する危うさ――すなわち「死」の領域に接近することによって立ち現れるのだと思います。死の気配という闇が濃くなるほど、私たちが生きているという実感は鮮烈な輝きを放つ。これがバタイユの言う「エロティシズムとは死に至るまで生を称えること」なのではないでしょうか。
――一気にテーマが哲学的になってきましたね。「死」というのは肉体的な死を指すのですか?
それだけではなくて、自分を秩序つけている自我、あるいは社会的役割やアイデンティティの崩壊も含むと思っています。例えば、アダルトコンテンツで「JK」「人妻」「近親相姦」などのジャンルが根強い人気を誇るのは、我々がその破滅の予感に惹きつけられてしまうからではないでしょうか。
――なるほど、具体例を聞いたら一気に理解が深まった気がします。
はい。そして、このエロティシズム論を踏まえると、このような推論を立てることができるのではないでしょうか。「禁忌性が強ければ強いほど、私は限りなく死に接近することができる。そしてそれは究極のエロティシズムである」――と。
――理屈としては理解できますね。
では、究極の禁忌――最もやってはいけないこととはなんだと思いますか?
――うーん、人を殺すこと……とかですかね?
なかなかいい回答だと思います。となると、たくさんの人を殺すことはもっといけない。さらに、地球上の生命すべてを殺すことはもっといけない。そして、突き詰めれば――この世界そのものを崩壊させてしまうことが、最もいけないことだと思いませんか?
――なるほど。現実感は湧きませんが、究極的にはそうかもしれません。
これはもう自分にとって「そうだからそう」なんです。『FF6』のケフカだって世界を崩壊させようとするじゃないですか。

――魔王が目的にするほど「いけないこと」であると。でも、この現実において世界が崩壊するなんていうことはありえないわけじゃないですよね。この話はどこに着地するのでしょうか?
はい。そして、ここで言及したいのが、「現代セカイ系男性論」なんです。
――なるほど、ここで「セカイ系」というワードに繋がってくるわけですね。
◆
――ここまでの話をいったん整理しましょう。『NTR論』の前半のメインテーマは「なぜNTRはエロいのか?」ということでした。そして、その前提として、そもそも「エロいとは何か?」という議論を行ったのでした。そこから、「してはいけないことをしている」という禁忌の侵犯にエロスが潜んでいることが判明します。ここで、ゆるふわ無職さんは「禁忌性が強ければ強いほど、私は限りなく死に接近することができる。そしてそれは究極のエロティシズムである」という推論を導いたのでした。そして、その最もやってはいけないこと――究極のエロティシズムこそが「セカイを崩壊させること」だと主張するわけですね?
はい。まとめていただいてありがとうございます。
――先ほどおっしゃっていた「現代セカイ系男性論」とはどういうものでしょうか?
これはですね、大きな物語――国家・宗教・革命など――を失った現代男性の在り方がセカイ系化しているということですね。
――なるほど。まず、「セカイ系」という概念について改めて教えていただいてもいいでしょうか。
はい。セカイ系とはアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』以降、ゼロ年代のサブカルチャー文芸批評で用いられるようになった概念でして、批評家の東浩紀はセカイ系を以下のように定義しています。
主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと
Wikipedia – セカイ系 より引用
つまり、私が主張する「現代セカイ系男性論」とは、現代の男性は共同体・社会・国家などの中間項に対する所属意識を失ってしまった結果、「きみ(彼女や妻)」だけがセカイの全てになってしまったということです。
――確かに、現代は個人主義・虚無主義的な傾向がありますから、「生きる理由」みたいなものは、どうしても個人的な性愛関係に依存してしまうかもしれません。
はい。これは男性特有の病症だと思っているのですが、男って何かに殉じたがっているような気がするんですよね。尊きものに身を投げ出して死んでいきたい。そして、その勇ましさの裏側には<母>的なものに包括されたいという根源的な欲求が含まれている。
――うーん、分かる気がします。女王に忠誠を誓う騎士みたいなイメージですかね。「特攻」的な文脈に接続しうる危うさも感じさせますが。
そうですね、そのような男性の殉欲が、今では彼女や妻にほとんど集約されている。まとめると、この現代において、生来からの欠落性を抱えた男性に固有の生のリアリティを与えてくれるのは、彼女と妻ぐらいになってしまっていると思うんです。「きみ」だけがこの無意味な「ぼく」の存在理由であり、この無意味なセカイに意味を与えてくれる唯一の存在であると。
――おっしゃりたいことは理解できました。そして、それと同時にものすごく嫌な予感もしてきました。
はい。そうなんです。このセカイの要である、ぼくの最愛の彼女・妻がチャラ男に犯され、汚され、堕とされる――これこそが究極のエロティシズムであり、セカイの崩壊であり、実存的な死の体験なんです。
――ここまでの話を聞いて、ゆるふわさんの考える『NTR論』の要旨は理解できた気がします。
よかったです。特に、あのNTR特有の「ぐにゃあ」って感じを自分はかっこよく「セカイの崩壊」と呼んでいますね。
――それは具体的にどんな感覚なんでしょうか?
信じていたもの、かけがえのないものをめちゃくちゃに踏みにじられ、天がひっくり返り、地が崩れ落ちるような、あの感覚ですよね。よくNTR作品を鑑賞してショックを受けたことを「脳が破壊された」と言いますが、この表現は非常に的確だと思います。なぜなら、外部の情報を統合して、この世界像を作り上げているのは、紛れもない私たちの「脳」なのですから。
――なるほど。先ほどNTRのショックを「ぐにゃあ」という擬音語で表現していましたが、まさに福本作品の「ぐにゃあ」を連想させますね。
はい。NTRも福本作品も「死への限りない漸近」がテーマにあると思っているので、あれはただ「ショックを受けた」という表現が似ているだけじゃなくて、もっと深い所に繋がりがあると思っています。NTR作品を鑑賞する際は、ぜひ「限りなく続く射精のような感覚」を意識してみてほしいですね。
――さすがNTR専門家ですね(笑) ご指導ありがとうございます。


◆
――『NTR論』前半についてはお話を伺えましたが、後半はどんな内容になっているのでしょうか?
はい。後半は、多角的な観点からNTRを論じる断片集、NTRアダルトコミック『彼女のスマホを覗いただけなのに』論考、精神分析から考えるNTRなど、さまざまな内容が詰まっています。
――なるほど。その中で最も重要だと考える部分はどこですか?
そうですね。やはり、本書の山場となるのは、NTRとセカイ系の共通点――そして「イク」について論じる箇所でしょうか。
――ツッコみたいポイントはありますが、まずは前半の発言についてお伺いしたいと思います。先ほどは「現代男性の恋愛がセカイ化」しているというお話がありましたが、それとは別に、NTRにはセカイ系的なエッセンスが含まれているということでしょうか?
はい――正確に言えば、セカイ系がNTRにルーツを持つのかもしれませんが――私はこの両者に本質的な共通点があると思っています。
――詳しくお願いします。
そうですね、具体的な作品名からお話したいと思うのですが、セカイ系には「三大セカイ系作品」というものがあるんですね。
――なるほど。
タイトルを挙げると、『ほしのこえ』『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』の3つなんですけれども、これらの作品には、「ヒロインだけが理不尽に世界宇宙規模の戦いに巻き込まれ、一般人である主人公は何もできない無力感に苛まれる」という共通の構造がありまして。
――その「無力感」がNTR的だと。
はい、その通りです。これは自論なんですけど、NTR作品に登場する寝取り役の「チャラ男」や「種付けおじさん」というのは、生物的強者・社会的強者の象徴なんですよ。そして、更に突き詰めれば、それはこの世界そのものの「理不尽さ」のメタファーでもある。それと同様に、セカイ系の作品には「中間項が欠如している」という特徴があって、すなわちそれは「なぜ彼女は戦わなければならないのか?」という背景の欠如――つまり「理不尽性」なんです。
――NTR作品も、セカイ系作品も、理不尽な理由によって主人公とヒロインが引き裂かれてしまうと。
そうなんです。ただし、セカイ系作品では、その「引き裂かれ」によって逆説的に、2人は愛を確信することができる。その人間存在の一瞬のきらめきに、我々は涙してしまうと思うんです。「せつなさ」――なんですよね。せつなさ。決してきみに辿り着けないという「せつなさ」があるからこそ、2人は限りなくお互いに近づくことができる。
――インタビューの序盤でも、NTRの根幹には「せつなさ」があるとおっしゃっていましたね。
はい。セカイ系作品の流行はゼロ年代で終わってしまいましたが、その代わりに内向的な男性が普遍的に求める「せつなさ」の需要を満たしているのが、NTR作品やBSS(ぼくが先に好きだったのに)作品なのではないかと考えています。ポスト・セカイ系としてのNTRブームがあるのかな、と。
――なるほど。ですが、セカイ系では主人公とヒロインが理不尽に引き裂かれつつも愛を確信することができます。しかし、NTR作品やBSS作品では2人が引き裂かれて終わりなのではないでしょうか。
そうですね、その辺りは変奏的であると認めざるを得ません。ですが、「愛のあるNTR」――あるいは「寝取らせ」は、主人公のためにヒロインが理不尽に犯されるという点で、非常にセカイ系的な構図に当てはまるのではないかと考えています。このような点に関しては、大ヒットNTRコミック作品『彼女のスマホを覗いただけなのに』を通じて論じさせていただいたので、ぜひ本文で確認していただきたいと思います。
――分かりました。楽しみにしています。では、続いて先ほどおっしゃっていた「イク論」についての話を伺いたいと思います。
はい。そもそもの話なんですけど、「きみとひとつになりたいのに、決してきみに辿り着くことはできない」というのは、セカイ系作品やNTR作品に限った話ではなくて、この現実そのものの話だと思うんですよ。
――詳しくお願いします。
当たり前の話なんですけど、自分と他者の間には、どうあがいても超えることのできない絶対的な深淵が横たわっている。私たちは「この私」に立ち上がる「この感じ」を決して他者と共有することができない。
――なるほど。
たとえ、セックスをしてもそれは物体Aと物体Bが接触しているだけで、決して「きみとひとつになれる」なんてことはないんです。2人で「きみだけのもの」なんて言葉をささやきあっても、それはただ空気が振動を起こしただけ。結婚だって、それは役所にインクが染みた紙が保管してあるだけなんです。
――つまり、「所有」なんてものは幻想にすぎないと。
はい。きみはこんなに近くにいるのに、その身体の温かさは、皮膚の感覚神経を通じて、自分の閉じた脳の感覚野で発生している、「ただの質感」にすぎない。こんなに「せつない」ことってあるのかよ(涙)という気持ちですよ。
――近づけば近づくほど、遠さを実感するというはなんとも皮肉な話ですね。
本当ですよ。でも、「それでも」「だからこそ」なんです。セカイ系同様に、辿り着けないからこそ、不可能だからこそ、きみの元に「イこう」とする意志が立ち上がると思うんですよね。
――それで「イク」ということですね。
はい。自分は本当にね、母国語でオーガズムに達することを「イク」と表現することに誇りを抱いていますよ。英語の「come」を筆頭に、オーガズムを「来る」という意味の語で表現する文化圏は多いそうですが、それは違うんです。私たちは「イク(逝く・往く)」んですよ。彼岸の女、あるいは彼岸の氏に向かって「イク」んです。
――決して辿り着くことはできないけれど、それでも「イク」というところに「せつなさ」や人間存在の尊さがあるわけですね。
そうです。「男の子の夢、ってやつだからよ。」って感じでね。ぼくらは「イク」と叫ぶわけですよ。
◆
もう1つ関連して語りたいことがあるんですけどいいですか?
――はい、お願いします。
それは、チンポ――細長いもののせつなさ――についてなんですけど。
――真面目な話ですか?
はい、大真面目ですよ。自分ずっとチンポってせつないな、と思っていて。そもそも、「ムラムラする」っていうのが、自分にとっては下半身に湧き上がる「せつなさ」なんですよね。
――一体何がせつないんですか?
うーん、うまく言葉にできないんですけど、根源的な「欠落感」があって、それを埋め合わせてくれる〈母〉的なものに還りたい、という感覚があるんだと思います。
――〈母〉に還りたいけど還れない、そのことが「せつない」――ということでしょうか。
そうかもしれません。生まれた場所に還りたい。生まれる前の完全な状態に戻りたい。きみに包み込まれたい。だからこそ、その意志を具現化するように、チンポって細長く伸びているんじゃないかと。
――でも、これまでの話からすると、「きみに決して辿り着くことはできない」というわけですね。
そうなんです。だから、結局せつないっていうか、チンポとかセックスとかオナニーって、メリーバッドエンドですよね。でも、辿り着けないからこそ、何度も何度も「完全さ」を繰り返し求めてしまうという人間存在のどうしょうもない習性がある。これはチンポ以外にも当てはまると思っていて。
――なるほど。例えば、どんなものが挙げられますか?
「塔」や「ロケット」なんか分かりやすいモチーフですけど、最近で言えばもっぱら『Slay the Spire』ですかね。

――スレイザスパイアとはなんですか?
ゲームです。簡単に言えば、尖塔(Spire)の頂上を目指すゲームなんですけど、ローグライクというジャンルで死んだら最初からやり直しなんですよね。
――なかなかシビアなゲームですね。
はい。そして、このゲームは決して頂上に辿り着けないという特徴がありまして、どんなに頑張っても49階で絶対に死んでしまうという設定(*)になっているんです。まあ、実質それがクリアではあるのですが。
(*『Slay the Spire2』2026年4月現在のバージョンにおいて)
――決して辿り着けないからこそ、強く求めてしまうというのは、「NTR」や「性愛」にも共通する構造でしたね。
その通りなんです。自分はエロでも、ゲームでも、決して辿り着けない場所にせつなさを抱きながら、細長いものをいきり立たせているんです。
――なんだかんだ、人生をエンジョイしているようにも見えますね。
◆
――これまで「セカイ系」や漫画・ゲームなど、サブカルチャーに関する言及が多くありました。ゆるふわ無職さんのサブカルチャー的なルーツに関して伺ってもよいでしょうか。
はい。自分は阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、『新世紀エヴァンゲリオン』の放送があった1995年に生まれた、いわば時代の申し子――と言いたいところなんですが、実際に自分がシンジくんと同じ年齢だった14歳の頃には、AKB48とEXILEが流行っていましたね(笑)
――(笑)。嫌いそうですね。
うん、もう最悪でしたね。今の時代って、メジャーシーンの音楽がけっこう文化的に豊かだと思うんですけど、自分の時代は本当にひどかった。でも、それが当時のダウナー系キッズに「逆張り」的な傾向を生み出していた気がします。だからね、自分は皮肉を込めて「AKB・EXILE世代」だと自称していますよ。他の95年前後生まれのサブカル論客気取りにも言ってやりたいですね。「お前はエヴァ世代じゃなくて、AKB・EXILE世代や」って(笑)
――その「逆張り」は、どこへ向かったのでしょうか?
それはやっぱりインターネットですよね。アニメ・漫画・音楽・ゲーム等をYouTubeやニコニコ動画でディグるっていう……。なんか、昭和生まれの音楽評論家がレコードを万引きしていたのイキる、みたいで嫌なんですけど、当時のネットには違法アップロードがたくさん転がっていたので、金のない学生はそれを見たり拾ったりするというリアルがあったように思います。
――YouTubeにも普通に深夜アニメが全話上がってましたよね。この頃に「セカイ系」に触れたということでしょうか?
うん、そうですかね。正確に言えば、セカイ系が流行していたのは90年代後半からゼロ年代前半ですが、それに影響を受けた作品を強く摂取していました。例えば、有名作で言えば、『魔法少女まどか☆マギカ』なんかは自分が中学生のときにリアルタイムでやってましたね。2011年頃です。
――なるほど。ゲームや音楽ではどうでしょうか?
その文脈で影響を受けたゲームだと、『タオルケットをもう一度』シリーズですかね。『2』が有名ですけど、『1』も好きですよ。ちゅん様のくだりとか。

――『MOTHER』風のデザインながら、グロテスクな表現を多く含むトラウマゲームとして知られていますね。
うん、やっぱり自分は悪趣味っていうか、露悪的な所がありますね。とはいえ、「絶望の中の儚い救いのようなもの」に涙するピュアな一面もあるんです。
――音楽についてはどうでしょうか。確か、以前はバンド活動もされていましたよね。
そうですね。まず、当時のバンドシーンにも「セカイ系」的な世界観はあったと思います。例えば、「THE BACK HORN」や「岸田教団&THE明星ロケッツ」は、「世界」というワードをよく使っていますよね。なんというか内省的ではあるんですけど、ゼロ年代前半の内省さ――「ART-SCHOOL」や「syrup16g」とは違った方向性があったんじゃないかと。よりアニメ的というか。
――特に好きだったバンドはありますか?
うーん、バンドというか、特定のムーブメントなんですけど、残響レコードはめっちゃ好きでしたね。
――残響レコードとはなんですか?
そういうレーベルがあって、90年代のエモやポストハードコア、マスロックの影響を受けたバンドが所属していました。「cinema staff」「the cabs」「People In The Box」あたりが代表的ですね。
――具体的に、どんな楽曲を演奏しているのでしょうか?
そうですね、ドラムとベースはハードコア由来なんですけど、ギターはクリーン~クランチで変則的なアルペジオが多用されています。あとは、メタル的ではないナードなシャウトも特徴的ですかね。変拍子に合わせてナヨナヨ叫ぶような(笑) そうした「イノセント」と「激情」が入り混じる表現にどうしても惹かれるんです。
――かなり性癖に影響してそうですね。
はい。これはほぼ確信しているんですが、「残響レコードが好きな男は、十中八九NTRでオナニーしてる」と思ってます。
――ここでNTRに繋がるんですね(笑) どういうロジックでそうなるんですか?
残響系の歌詞って、文学的な世界観が多いんですけど、その中でも「きみ」や「彼女」が奪われていくイメージがよく出てくるんですよ。
勘違いの成れの果ては
cinema staff / GATE
キミとのさよならでした
彼女はさらわれていった
まばたきしている間に
――確かに、NTRやBSS(ぼくが先に好きだったのに)を想起させる世界観ですね。
そうなんですよ。そして、そのやりきれない気持ちを美麗なアルペジオに乗せて叫ぶと。the cabsに「綺麗な服に火をつけて燃やしてみたい」という歌詞があるんですけど、NTRってまさにそれなんですよね。この虚無主義の時代に、オーダーメイドで仕立て上げられた究極の禁忌――そのかけがえのない存在がチャラ男にめちゃくちゃにされてしまう。そのとき、ぼくは全身を引き裂かれながら叫んでしまうんです。
――ゆるふわ無職さんのNTR的感性のルーツが分かった気がします。ありがとうございました。
◆
――今回、文学フリマ東京42では、アマチュア批評家のしょうごさんと共同出店とのことですが、お二人はどのような関係なのですか?
はい。しょうごさんとは、2025年の春に『まともマガジン』という雑誌に寄稿した際に初めて知り合いまして、「前門のゆるふわ・後門のしょうご」として、しのぎを削り合った関係ですね。

――それぞれ巻頭と巻末を担当したと。
そうです。そのとき、しょうごさんが寄稿していた『労働なき世界の、その先へ』を読んで衝撃を受けまして。
――どんな内容だったんですか?
ざっくり言うと、エロ漫画の論考を通じて、「労働なき世界」の実現可能性について議論するというものなんですけど……。
――いきなり聞くとブッ飛びすぎてて意味不明ですね(笑)
はい(笑) それで、その論考内に「NTR」あるいは「NTR的プレイ」に関する記述がありまして、その内容にはかなり感銘を受けましたね。
――思いがけず、ハイレベルなNTR論客に出会ってしまったと。
そうなんです。去年の文学フリマ東京40で初めてリアルにお会いしたんですけど、そのとき「僕もNTRに一家言あるので、あとで語り合いましょう」って挨拶しました(笑)
――なるほど、そこから親睦を深めたと。
はい。自分としょうごさんは「馴れ合いとかクソだせえ」というスタンスなんですけど、そういったスタンスを通じて結果的に慣れ合っていますね(笑) 実際、しょうごさんのお宅に2回も泊めてもらったこともあって、7つ年上ですが、友人のように接していただいてます。
――今回の『NTR論』執筆にあたっても、しょうごさんの影響は受けましたか?
それはもう今回の本はしょうごさんがいなかったら書けてなかったと思いますね。お互いに「ブッ倒す!」って勢いで書いていたと思います。『こじらせた男』と『NTR論』を両方読んだ方は、ぜひ忖度なく「どちらが面白かったか」を教えてほしいですね。
――ライバル意識を持ちながらの共同出店ということですね。『NTR論』の内容に関してはどうでしょうか?
内容面でも影響を強く受けています。『NTR論』の執筆構想自体は、2025年の冬――しょうごさんと出会う前からあったのですが、内容に関して振り返ってみると、『労働なき世界の、その先へ』の影響を強く受けている――平たく言えばパクってしまったと言わざるを得ません。もちろん、元々の「問題意識」や「感性」がかなり近かったという側面もあるのですが。『労働なき世界の、その先へ』は、今回発売される『こじらせた男』の第二部に再構成されて再録されているので、ぜひそちらも読んでいただきたいです。
――両書を合わせて読むとより理解が深まりそうですね。『こじらせた男』の内容について、コメントはありますか?
ぐわっと引き込まれるような本でしたね。緩急があったり、多角的だったりと。第一部ではしょうごさんの半生が語られるんですけど、読んでて恥ずかしくなるというか、あの青年漫画を読んで「うわ~!なんでそんなことするんだ!やめとけ!やめとけ!」ってなるような感覚を味わえます。花沢健吾とか福満しげゆきの漫画読んだときみたいな(笑) 自分のように過剰な自意識を抱えたこじらせ人間なら、共感と羞恥の嵐を楽しめると思います。その一方で、第一部の後半や第二部では真摯な問題意識や鋭い批評が語られていて。そういった「単なる自伝を書くだけじゃない」「空疎な理論をこねくり回すだけじゃない」というバランス感覚というか、現実と理想の狭間でなんとか可能な限り「こじらせ」に切り込んでいく、というしょうごさんのスタンスが自分は好印象でした。
――「こじらせ」の自覚がある方はマストバイですね。
はい。文学フリマ東京42、ブース【V-23】をよろしくお願いします。
◆
――そろそろ、最後のテーマに移りましょう。今回、『NTR論』を先行して知人に公開した際に「女性を神聖視、あるいは蔑視しすぎだ」という感想がいくつかあったそうです。この問題について、何かコメントはありますか?
はい、それに関しては何も弁明のしようがないです。今回の本はあえて男女の平等性やジェンダーの問題に向かい合っていません。意図的に過激で独りよがりで男性中心的な方向に振り切りました。
――ゆるふわさんは、これまでリベラルな書き手という印象がありましたが。
もちろん、そうありたいとは思ってますし、現実ではそれを心がけています。ただ、エロスの問題になると、それが成立するのかという疑問がありまして。
――どういうことでしょうか?
やっぱりエロスというのは、「聖なるものが堕ちる」瞬間に宿ると思うんですよ。分かりやすく言えば、高潔な女騎士が醜悪なオークに堕とされるみたいな。
――いわゆる「くっ殺せ」というやつですね。
はい。それで言うと、NTRはそれの主観的最上級なんですよ。この大きな物語が失われた個人主義の時代において、自分にとって最も神聖なものが「ぼくの大切な彼女」になるわけですから。
――その神聖なものが堕とされるギャップに興奮してしまう、と。
はい。そして、このような前提を踏まえると、どうしても女性を神聖視――あるいは蔑視する構図が生まれてしまう。こちらから一方的に押し付けたイメージがあるからこそ、そこにギャップが生じるわけです。
――なるほど。
そもそも、やっぱり異性って「よく分からないもの」だと思うんですよ。同じ人間でありながら身体の構造が異なっていて、自分と「全く同じもの」とカテゴライズもできないし、それでいて犬や猫のように「全く違うもの」だとカテゴライズすることができない。不気味の谷みたいな恐ろしさがある。だから、男女共に異性に対して勝手なイメージを投影しがちなんだと思います。そして、そのイメージの転回に私たちは独りよがり的な興奮を見出してしまう。
――具体的な例はありますか?
例えば、前にこんなツイートがバズってたんですよね。
――良くも悪くもポエミーなツイートですね。
はい、その一方でエロ漫画家のもつあき――男性の性衝動をカリカチュアしたようなラディカルな表現が特徴――はこのように言うわけです。「ここにチンポを挿れるとめっっちゃきもちいい穴がついとるっ♥♥♥♥」と。

――2回も言ってますね。
はい。自分はね、「女の子という一番短い詩」に「ここにチンポを挿れるとめっっちゃきもちいい穴がついとるっ♥♥♥♥」のがすごいエッチだと思いますね。
――「詩」と「穴」のギャップに、エロスを見出さずにはいられないと。
その通りです。とはいえ、これは別に男性に限った話ではないと思います。責任転嫁をするわけじゃないですが、女性もそうした異性の「ギャップ」に惹かれているはずなんですよね。
――具体的な例はありますか?
例えば、自分も毎週ジャンプラ(漫画アプリ)で楽しく読ませてもらっているんですけど、『ジャンケットバンク』という漫画がありまして。
――たしか、ギャンブル漫画ですよね。
はい。顔が良くてプライドの高い独自の哲学を持った男たちがギャンブルで戦う漫画なんですけど、私たちはその「プライドの高い男」が負け崩れていく姿にカタルシス――ある種のエロスを見出していると思うんです。この漫画は女性人気がとても高いですね。

125話は涙無しに読めない
――他者にイメージを投影して楽しむ構造は、男女問わず共通であると。
そうですね。とはいえ、それがフィクションや自分のオナニーの中に留まるなら問題ないんですが、現実でも他者を「イメージ」としてしか判断できない人が増えていると思うんですよね。
――どういうことでしょうか?
これから話すことは全て自己批判を前提としたものなのですが――例えば「女性はすばらしい!男は自身の有害性を自覚してうんぬんかんぬん……」と語る人と、「女はクソ!女さんの人生はイージーモードw」と語る人って本質的には同じだと思うんですよ。
――分かりやすく言えば、チン騎士とミソジニストということでしょうか。
そうですね。正反対に見える両者も、結局は女性に独りよがりなイメージを押し付けているという点で何も変わらない。チン騎士仕草とミソジニー仕草は、ただ女性に対する「分からなさ」を反転アウトプットしてるだけなんです。
――なるほど。
現実を生きてみれば、当たり前に分かることですが、いい女性もいれば、悪い女性もいる。それは男性だって、あらゆる属性がそうですよ。いい日本人もいれば、悪い日本人もいる。いい外国人もいれば、悪い外国人もいる。いいZ世代がいれば、悪いZ世代もいる。いい老人もいれば、悪い老人もいる。そんな当然のことが、勝手なイメージによって分からなくなっている人がたくさんいる。
――なぜそんなことになってしまうのでしょうか。
それはやっぱり、等身大の他者と向き合うのが怖いからでしょうね。みんなシンジくん状態なんですよ。善と悪が混ざり合ったカオスな他者と触れ合うのが怖い――あるいは「めんどくさい」と表現してもいいかもしれません。「○○とは、△△である」というイメージを決めつけてしまった方が圧倒的に楽ですから。
――右翼や左翼など様々な対立に当てはまりそうですね。
そうですね。そして、繰り返しになりますが、自分自身もそういった課題を抱えていますし――あるいは、人間がイメージを通じてしか他者と関わることができないのではないか――という限界も感じています。
――そうした問題意識について、今後の展望はありますか?
今回の『NTR論』でエロ――つまり、他者に関する幻想については、ある程度抱えていたものを出し切れたと思っています。だから今後はまた改めて「現実」に向き合っていきたいですね。もちろん、抱えている「こじらせ」がすべて解消されたわけではないので、試行錯誤の連続になるとは思いますが。
――これからのゆるふわ無職さんの活動にも期待しております。それでは、本日はありがとうございました!
ありがとうございました!
文学フリマ東京42
日時:2026年5月4日(月)12:00~17:00
場所:東京ビッグサイト 南1-4ホール
入場料:¥1,000(前売)・¥1,350(当日スマチケ)・¥1,500(当日窓口)
『こじらせ男性』&『NTR論』
評論・研究|サブカルチャー
南1・2ホール ブース【V-23】

