脳内261008

前回のブログで「自慰識」と「シコ文ぶみ」という概念を提唱した。
自慰識とは、人間が文章を書いたり、何か主張をするときに、その根底には「プライド」や「承認欲求」があるのではないか、ということ。
よくよく省みてみれば、「すごいと思われたいから」「認められたいから」「自分の人生を肯定したいから」「嫌いなやつを否定したいから」といった欲望に突き動かされて書いているのではないか、ということ。
そうした自意識ドリブンで書かれたもの(または、それが隠しきれていないもの。あるいは、そのように見えるもの)が「シコ文ぶみ」。

(例)
①「あいつの哲学は間違っている!」と、真理を追及する哲学徒のように批判しているが、実際には相手が自分より評価されてチヤホヤされているのがムカつくだけ。嫉妬が議論のドリブン。

②「あいつの理論は弱者のことを考えていない。強者の理論だ!」と、表向きは弱者に寄り添う良識人であるように批判しているが、実際にはただ単にそいつが嫌いなだけ。個人的な嫌悪を「正義」に言い換えて攻撃している。

③「社会に逆らっても仕方ない。資本主義とうまく付き合って生きていくのが賢い」と、リアリストのようなコメントをしているが、実際には自分が今そういう生き方をしているから、それを正しいことにしたいだけ。自分の現状に合わせてオーダーメイドの人生哲学を作っている。

④「なぜ私は私なのか?」「なぜ世界は存在するのか?」「死とは何か?」といった壮大な哲学的問題について考えているように見えるが、その裏には「働いていないけどオレはこんなに知的で頭がいい」「何も考えずに働いて生きてるやつらと自分は違う」というプライドがある。

とはいえ、自分でここまで提唱しておいてなんだが、自意識ドリブンで書くことのいったい何が悪いのだろうか?
例えば、「お前の意見は間違っている!なぜならお前は嫉妬で言っているだけだからだ!」と主張したところで、それは何の反論にもなっていない。
なぜなら、「主張の動機」と「主張の正しさ」は全く別物だからである。
嫉妬から生まれた批判でも正しいことはあるし、その一方で純粋な動機から生まれた主張でも間違っていることもあるだろう。

ではいったい「自慰識」の何が問題なのか?
自分大好きシコシコオナニー文章がシンプルにキモくてムカつく――ということを除き、おそらく問題なのは、「動機」の方ではなく、自意識に合わせて対象や認識をねじ曲げてしまうことなのではないか、と思う。
「あいつがムカつくから」という理由で執筆を始めるのは構わないが、「あいつは間違っている」という結論を絶対的なものにして、自分の見たいものだけを視界に入れ、相手の発言をわざと悪く解釈し始めたら、それは世界について考えているのではなく、もはや世界の方を都合よく作り変えている、と言えるだろう。

ここまで考えると、逆に一度ちゃんと自慰識を認めてみた方がいいのでないかと思う。
正直に言えば、私は文章を書くことによって「すごいと思われたい」「認められたい」「自分の人生を肯定したい」「嫌いなやつを否定したい」という気持ちがある。
そして、そのような気持ちがあるからこそ、他者の文章の同じ臭いに過剰に敏感になっているのだ(あるいは、そのように見えてしまう)。

その一方で、私に純粋な哲学的探究心があることも事実である。
本当に心底、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」と私は思っている。マジで。
自慰識があるからと言って、この問いまで嘘になるわけではない。
むしろ、自分の中の自慰識を認めることによって、そこから純粋な探究心をある程度切り分けることもできると思う。
自慰識という概念を念頭に置いておけば、「あれ?今自慰識で認識がねじ曲がってね?」と客観的に思索を進めることもできるのではないだろうか。

◆

(補記)
自分の活動を振り返ってみれば、『寝そべり族マニュアル』なんかは、けっこうシコ文ぶみ要素が強かったと思う。
「最低限だけ働いてゆるく生きて行けばいい、という自分自身と現状の肯定」「哲学者や思想家の言葉を引用して虎の威を借りる(自分の生き方にもっともらしい根拠を与える)」などである(もちろん、けっこう良いことも言っている部分もあると思うが)。
自分を物語ること――主にエッセイ――と自慰識はなかなか切り離せない気がする。
そもそも、私たちは物語る(他者と世界観を共有する)こと無しに、他者と関わることができない。
物語から逃れようとしても、「この世界は物語ではない。ただの偶然的なカオスである」と述べた瞬間に、「物語の外側に立っている私」という新しい物語を作り上げることになる。
そして、メタ認知による無限後退もまた自慰識である。
「自意識で物語を作っている自分」に気づき、「その自意識に気づいている自分」に気づき、「そこまで気づいている自分」に気づく。どこまでいっても自慰識からは逃れられない。
オナニーの名の通り、「独りよがり」である限り、自慰識からは逃れられないのか?
だとすれば、自慰識から逃れるためには、自問自答を続けることではなく、他者との、あるいは世界との繋がりが必要なのかもしれない。
運動・音楽・セックス・瞑想・サイケなどで、混沌の領域に接触することができるのか?
(もちろん、その体験について語った瞬間に新たなシコ文ぶみが始まるのだが)
自分、自分、ばかりで生きていると疲れるものだ。

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