久しぶりに目覚まし時計で起きなければならない用事があった。
あんまり寝れていない。
なぜ、こんなにも無理矢理叩き起こされることは不快なのだろう。
脳幹に直接三角コーナーの腐り汁を注入されたような不快感に襲われる。
殆どの人々がこんな不快な1日の始まりを体験しながら生活していることは異常だ。
そりゃ、死んでしまいたくなる。
これから楽しいイベントが始まるならまだしも、満員電車に押し込まれ、せかせかと働かされることが待ち受けているのだから。
おそらく、目覚まし時計の不快感には、単純に眠りを妨げられるということだけではなく、これからの苦痛を予感させるという、パブロフの犬のベルのような意味も含まれているのだろう。
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今ではひたすら寝ているような生活を送っているが、自分も高校・大学時代には早起きと満員電車には苦しめられた。
高校・大学共に都内だったのだが、実家が東京の隣接県であった為、片道1〜2時間ぐらい通学に時間がかかったのである。
本当ならば、本でも読めれば良かったのだが、そんな余裕はなかった。その空間に存在していることで精一杯だったのだ。
そういう意味では、WALKMANから流れる音楽には、かなり助けられたように思う。
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人生には色々な後悔が存在すると思うが、自分がよく思うのは「もっと本を読んでおけばよかったなー」ということだ。
若い内に、もっと様々な価値観や考えに触れておくべきだったと考えてしまう。
趣味で文章を書いているので、読書が好きな人間かと思われているかもしれないが、ニートになるまで殆ど本は読まなかった。
別に本や文章が嫌いという訳では無かったのだが(よく社会不適合者にありがちな「何もしなくても現代文だけできるタイプの人間」だった)、生活のスピードが速すぎて、それにしがみ付くのに必死であったのだ。
勉強に、部活に、受験戦争。大量の実験レポートに、課題に、サークルに、バイト。あとはしょうもない恋愛とか。
周りに流されるのでは無く、もっと主体的に自分の人生を考えるべきだったと言いたくなるが、当時の自分もそれなりによくやっていたよなーと思うと、過去を否定することはできない。
惨めで恥ずかしくて、思い出したく無いような過去もあるけれど、その過去の積み重ねで今の自分が存在する訳だし。
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急に、これからどうなるんだろうなー、と考えてしまう時がある。
基本的に「生きてればなんとかなる」と思っているが、一般的なニート/フリーターにありがちな将来の不安が全く無いわけでない。
とりあえず、いつかは死ぬのだろう。
それまで、どうやって人生をやり過ごそうと考えるのだが、その前に「快楽や苦痛を主軸に生きるのは正しいことなのか?」という疑問が自分の中に存在する。
別に快楽は悪いことではないし、必要なことだけれど、それを中心に生きるのは、ちょっと動物的すぎるというか。
例えば、薬物で気持ち良くなる為に生きている人間がいたら、多くの人は「終わってるなあ」とか「ああはなりたくないなあ」とか考えるのかもしれないけど、快楽や依存性の程度が違うだけで、普通の人だって「ジャンクフード」や「ポルノ」で気持ち良くなる為に生きている人は少なくないはずだ。
更に言ってしまえば、家族のような健全な充実も「一種の快楽による酔い」であることは否定できない。人間の本能であり、社会システムと相反することではないので、批判の対象にはならないが。
ひねくれた捉え方かもしれないけど、突き詰めれば何の意味もない人生を、快楽に酔って過ごし終えるのは、正しいことなのだろうか、と最近よく思ってしまう。
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じゃあ、快楽や苦痛に依らない人間らしい生き方ってなんだろう、と考えてみると、学問や宗教、芸術に生きることかもしれない。
真理や美しさを追求する価値観を持ち合わせるような。
例え苦痛が伴うとしても、何かしらの究極を追求しようとするのならば、それは快楽や苦痛に依らない生き方なのではないだろうか。
とはいえ、結果的には、真理や究極を追求することによって、充実(≒快楽)を得る訳であるから、本質的には快楽と不快が主軸であることには変わりない。
けれども、その上に特殊な変換装置が乗っかっているようなイメージだろうか。快楽や苦痛が個人の持つ変数に依存すると言えばいいかもしれない。
表面的には、その価値観で生きることができるというわけである。
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結局、快楽と苦痛からは逃れられないのだろう。
幸せホルモンだかなんだか知らないが、人間は脳内物質の奴隷なのだ。
『人生とは残酷なパズルのようなものである。最初は喜んで遊び始めるものの、解けば解くほど、絶望を知るのだから』(みたいな名言があった気がするが元ネタを忘れた)
とりあえず、自分は死ぬまで文章を書いたり、音楽を作ったり、「人間らしいっぽい」「有意義っぽい」ことをしていきたい。
結局いつか、人間も、地球も、宇宙も滅びるのだけれど。