「ゆるふわ無職」というライフスタイル

ブログを開設した。シンプルに文章を載せるだけのサイトにする予定である。

サイト名はハンドルネームと共用だ。新たに名前を付けても、ごちゃごちゃしてしまうだけだろう。

なんでもかんでも名前を付ければよいというものではない。

名付けをすると「レッテル」に縛られてしまうという側面もある。

「楽しい無職ブログ」という題名であったら、「楽しいことを書かなくてはならない」と思いこんでしまうかもしれない。

そういった意味では、人に対する「命名」とはなかなかえげつない行為だ。

これからどう育つのかも分からない新生児に「レッテルを貼り付けて『個』を確立させる」のは祝福であり呪いでもある。

世の中には「名前負け」なんて言葉もあるのだから、一方的に名付けられた方はたまったものではない。

人間の命名はもっと無機質で機械的な方がよい。

「プログラムによって完全にランダムで無意味な文字列を1人ずつに与える」というのはどうだろうか。

懸念点としては、音の響きによって個々の印象が左右されてしまう事だ。

「ブーバさん」と「キキさん」のイメージは違ってくる。

マイナンバーでお互いを呼び合うのもよいかもしれない。

長すぎるか。

そもそも、「名前」によって「個」を与えられる事は幸せに繋がるのだろうか。

多くの苦しみは「我」の強さから産まれている気がしてならない。

「俺が!」「私が!」「自分が!」

そんな「渇き」がこの世に溢れているのを感じる。

我々は「自分」という存在に焦点を合わせ過ぎなのではないだろうか。

もちろん、生きている以上は自身にオートフォーカスされてしまうものである。

しかし、たまにはもっと広い視野で「自分」を捉えてみるのもよいかもしれない。

例えば、「自分はあくまで『ホモサピエンスの繁殖』という現象の一部にすぎない」と認識してみるのはどうだろう。

もっとスケールを大きくして「宇宙のシステムの一部」でもよい。

さらに「運命論」的に言えば、「自分がこの世で為す事は『DNA』と『環境』によって既に決定してしまっている」という可能性も考えられる。

この世界が「巨大なビリヤード台」だと思えば分かりやすいだろうか。

ここまで来ると、もはや「自我」というものが存在しているのかどうかすら怪しい。

「虚無」だ。

ただし、誤解しないで欲しいのは、別に人生の無価値を説いているではないという事だ。

「虚無」と聞くと悪い印象を抱いてしまうかもしれないが、自分はそうは思わない。

「良くも悪くもなく、ただそれだけ」、それが虚無だと考えている。

「人生は虚無い」という事を自覚する。

そして、肩の力を抜いて、自然にあるがまま過ごす。

「無為自然」な生き方も悪くないはずだ。

と提唱してみる。

(「虚無」から改めて自身で意味を見出していくのもよい)

話題を「名前」、そして「ブログ」に戻そうと思う。

先ほどの話を踏まえると、自分のハンドルネーム兼ブログ名はなかなか悪くない気がする。

「ゆるふわ無職」とは「ゆるい無職的な生活をする」というライフスタイルの概念であり、この文章を打ち込んでいる自身はあくまで副次的な体現者にすぎないからだ。

今後のブログでは「生活」や「思想」について具体的に記述していくつもりである。

「こんな生き方や考え方をしている人もいるんだな」と何かしらの参考になればよいと思う。

別に自分はブログを通じて「人を救おう」なんて大それた事を考えている訳ではない。

ただ、相対的な価値観にしかすぎない「社会背景」や「労働」によって、死ぬ必要のない人が死んでしまったり、苦しむ必要のない人が苦しんでしまう現状はどうにかならないかと思っている。

自分のようなライフスタイルを選択することによって救われる人はたくさんいるはずだ。

  1. 似たような思想の人々が集う
  2. ムーブメントが起こる
  3. そのような生き方を選択する人が増える

によって「マイノリティ故の生きづらさ」も減っていくのではないだろうか。(つまり結局は自身の為という「エゴ」でもあるのだ)

正直、ツイッターをフォローしてくれている人の中には「社会不適合者の末路が気になる」という方もいるかもしれない。

しかし、全然それでも構わない。

もし、人生に疲れてしまったら一緒にのんびり適当に暮らそうではないか。

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