「働いたら負け」という価値観はもう古い-令和のニート観について

最強のニートは誰だ!?

と問われたとき、あなたは誰を思い浮かべるだろうか。

偉人や哲学者、文豪や画家の中にもニートは存在していたし、現代でニート的な生活を送る著名人を連想する人もいるかもしれない。

しかし、近年において、最もインパクトを残したのは彼であろう。

働いたら負けかなと思っている」で有名な「ニート (24・男性)」である。

現代労働の報われなさを一言で風刺する垢抜けない青年の姿がネット住民の心を捉えたのだろうか。

このインタビュー切り抜きは瞬く間にインターネットに広がり、ネットスラングとして定着した。

今でも「ニート」と言われたら、彼を思い出す人も少なくないはずだ。

キングオブキングス。ニート中のニート。それが彼である。

現在は何をしているのだろうか。

消息不明であるのも、そのカリスマ性の一端を担っているのかもしれない。

働いたら負けかなと思っている―――。

思わず共感してしまいそうになってしまうが、この一言によって労働者階級に打ち込まれた楔は大きいと感じる。

つまり、言い換えてしまえば「働いてるヤツは負け組」という事だからだ。

無意識ながらにも、この「働負思想」が人々に浸透したことにより、ニートたちは「そうだ!ニートが勝ち組で働いてるヤツはバカ!」という自意識を加速させ、サラリーマンたちは「うわあ、ニートってやっぱり精神的に幼稚な社会不適合者だな」という認識を強める事となった。

対立化の進行である。

しかし、我々は本当にそれで良いのだろうか?

人々がカーストを作り上げてしまうのは昔から続く本能的な業かもしれない。

「人の上に立ちたい」「人を見下す事によって精神的安定を得たい」

そんな気持ちは誰にでも生まれてしまうものなのだろう。

ただ、「ニート」も「フリーター」も「サラリーマン」もなんであろうと、本来は団結するべき労働者階級の一員であるはずである。

それがお互いを憎み合い、格付けし合うのだから、資本家階級からしてみれば笑いが止まらないはずだ。

そもそも「働く事が正義で、ニートは悪」なのだろうか?

もしくは「ニートが正解で、働いている人は不正解」なのだろうか?

結論から言ってしまえば、そんなものは全て的外れで「資本主義社会における相対的な価値」にすぎない。

資本主義社会の中で生まれ育った我々には認識が難しいかもしれないが、もっと大きな観点から「絶対的な価値」を探求していくべきだ。

簡単に言えば「各自で本当に幸せだと思う生き方をすればいい」という事である。

自分は「無職」という立場から発言をしているが、ぶっちゃけ「無職/有職」なんてものはどうでもよい。

「自分らしく生きること」を追及した結果として、今のライフスタイルに落ち着いたに過ぎないのだ。

正社員でバリバリ働いてやりがいを見つけている人だって素敵だと思う。

ただ、全員が必要以上に自身を社会の型にはめる必要は無いし、社会に適合できないからといって死ぬ必要は全くない。

我々は働く為だけに生まれてきたわけではない。

これだけは断言しておく。

労働批判的な話題が続いたが、捉え方や使いようによっては労働も悪くない。

例えばアルバイトだって「1時間働くと1000円貰える」なんてのはとても便利なシステムだ。

なにより、現代はそれを利用する生活基盤に恵まれているのが素晴らしい。

栄養バランスに恵まれた美味い食事を頂くことが出来るし、堅固に作られた家で暖かい布団に包まれながら寝る事ができる。

そして、多くの人々が「死ぬ/殺される」という不安を殆ど気にすることなく過ごせるというは、歴史上から見ても現代ぐらいなのではないだろうか。

この生活を恵まれていると思えないのは幸福の水準が高すぎだ。

ただし、補足をしておくのならば、「死ななくなった」だけで「生きる」ことは難しくなったのかもしれない。

これは現代人たちの虚無性にも繋がっていると思う。

話が少し逸れてしまったが、つまりは「『社会』や『労働』というシステムについては、ありがたく利用させてもらおう」という話だ。

自分は「週2~3だけバイトをして、のんびり質素に暮らす」というライフスタイルを実践している。

「働いたら負け」、そのような平成ニート的な価値観とはそろそろ決別しなければならないのではないだろうか。

令和ニート的な価値観においては「必要以上に働いたら負け」を提唱していきたい。

この「必要」というのは「個人」によってもちろん違ってくるだろう。

自分のようなタイプの人々は、バイトでもしながらのんびり暮らせばよいし、逆に働く事に生きがいを見出している人々はバリバリ働けばよい。

どちらが優れているとかではなく、お互いのライフスタイルを尊重することが大切なのではないだろうか。

強いて問題点を挙げるとするならば、「フリーター」と「サラリーマン」の壁が高すぎる事である。

その中間のような労働スタイルが存在していたのならば、救われた人も多かったはずだ。

個人的には「バイトによる固定収入+副業で好きなことをする」がよい落とし所ではないかと思っている。

これなら自己実現にも繋がっていくし、もしかしたら好きな事だけでも食っていけるようになるかもしれない。

人間が先、労働は後なのだ。

最期に、哲学作家の飲茶氏は現代の飽和した資本主義社会について、このように語っている。

今、世間では全く働かないニートが社会問題になっていたり、生きるために必要な分しかバイトで稼がないという人種も増えつつある。それは決して、若者たちが堕落したわけでも、親のしつけが悪いわけでもない。彼らは、資本主義社会の成長が飽和状態に達したため「労働の価値を見失った」という新しい「歴史的な問題」に直面した世代の人間、新しい血族であり、のちに何百年後かの人間が、僕たちの時代を歴史として見た場合、「そりゃあ、そういうやつも出てくるに決まっているよ(笑)」と評するであろう。歴史的に必然の人種なのだ。

我々は歴史の転換点にいるのである。

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