焦燥感に駆られるニートの為の安眠マニュアル

きょうはなんにもないすばらしい一日だった

ゲーム『ぼくのなつやすみ』絵日記より

ニート生活は「毎日が夏休み」と揶揄されることがある。

しかし、その実態は「宿題を放置したまま迎える永遠の8月31日」であると言われている。

ニートは毎日が夏休みだと言われるが

実際には宿題を放置したまま迎える8月31日みたいな気分が毎日続く

インターネットコピペより

確かにこの書き込みは的確だ。投稿者のリアリティすら感じる。

自分もニート1年目にはこの症状に苦しんでいた。

普通の人々は社会に出て働いているのに、自分は引きこもりの無職として、ひたすら布団の上で無駄に時間を潰す毎日。

こんな状況で劣等感/罪悪感/焦燥感を感じない方がちょっとおかしい。

だが、石の上にも三年。布団の上にも三年。

ニート(的生活)3年目にして何かが一皮剥けた。

「遊び人」が「賢者」にクラスチェンジしたようなものかもしれない。

今では真昼間から堂々と寝っ転がってゴロゴロしている。

結局寝るのかという野暮なツッコミは禁止だ。

結論から言ってしまえば、「あらゆるものは虚無」という事なのだが、劣等感/罪悪感/焦燥感、それぞれの解決法について順を追って説明していこうと思う。

まずは「劣等感」についてだ。

何もしない無職なんてものは価値の無い存在なのかもしれない。

しかし、それなら働いている社会人だってそんなに変わらない気がする。

スケールを変えて考えてみよう。

人類という種族が1万年後に生き残っているイメージが付くだろうか。

自分には少なくともそうは思えない。

人類の繁栄がこのままのペースで行けば、何かをきっかけに全てが破綻してしまう気する。

それに万が一、人々が生き延びたとしても、地球の終わり。そして、宇宙の終わりがやってくるだろう。

どんなに社会貢献をしたり、たくさんのお金を稼いだり、歴史に名を残すような偉業を達成したとしても、いつか全て忘れ去られて無に還る。諸行無常だ。

そんなスケールで考えれば、ゴロゴロしてるニートとバリバリ働いている社会人の違いなんて大したことはない。

我々に働きアリの見分けが付かないのと同じだろう。

ただし、誤解しないで欲しいのは、何かを為す事にやりがいを感じている人々を決して否定している訳ではないという事だ。

あらゆる事は虚無かもしれないが、本人が意義を見出す事には意味がある。

例え話から続けると、本物のアリの群れの中にも2割ほど全く働かないアリがいるらしい。しかし、このニートアリ達は働きアリたちが減少すると仕事を始めるのだという。

これはニートアリが悪というよりは、アリという種が存続する為の合理的なシステムであるはずだ。

人間社会においてもニート達が存在する事には何かしらの意義があるのかもしれない。

更に言えば、ニートは人々に気付きを与える事もできる。社会の理から外れた存在として人々に啓発を行う姿は「僧」に近い。

自分がこのように記事を書いているのもその一端だ。

このブログも「年単位で引きこもりニートをする」という熟成期間が無ければ誕生していなかったかもしれない。

何事にも意味はある。(そして、無いと言えばない)

無駄に「罪悪感」などを感じる必要はないということだ。

そして、「焦燥感」であるが、これは分類していくと

①「何かを為して、何者かになりたい」という衝動

②「自堕落に過ごすのは悪であり、何か有意義な事をしなければならない」という思い込み

③「金、そして老病死」に対する恐怖

に分ける事ができるはずだ。

順番に見ていこう。

①「何かを為して、何者かになりたい」

これも虚無だ。

何かを為して、何者かになっても、そのうち忘れ去られるのだから、特に意味はない。

自分の事を特別な存在だと全員が思い込み過ぎなのだ。そのギャップによって無駄な苦しみが生まれる。

苦悩する主人公より、平穏なモブキャラでいたい。それがニートマインドである。

ただ、それでも何かにチャレンジしてみるという姿勢を否定はしない。

やりたいことをやるのが、結局一番心身の充実に繋がると思う。自分も寝てたいから寝ている。

②「自堕落に過ごすのは悪であり、何か有意義な事をしなければならない」という思い込み

ここでは人間の本能的な部分について言及していきたい。

現代は豊かな社会であり、衣食住にも恵まれているので、基本的に野垂れ死んだりはしない。

しかし、過去の貧しい時代においては「怠惰=死」に直結していたはずだ。

その名残から「自堕落は悪であり、有意義な事をするべし」という本能が我々にはインストールされているのだと思う。

今の現状を例えるならば、いらないはずの保険料を払ってカツカツになっているようなものではないだろうか。

資源豊富な現代においては、もう少しこの焦燥感とスマートに付き合う必要があるはずだ。

“生命保険”も解約できるのならしてしまって構わない。

「そういう本能によって不安になっているだけなんだな」という認識を持っておくだけでも、ストレスの受け止め方が違ってくるだろう。

③「金、そして老病死」に対する恐怖

現代で生きる為にはお金が必要だ。

けれども、お金が一番大切かと言われたらそうでもない気がする。

どちらかといえば、人との繋がりみたいなものが重要なのではないだろうか。

それが目的という訳ではないが、友人の家に泊めて貰ったり、ご飯を奢って貰ったりするのはよくある話だ。

交流があればなんとかなることが多いし、いきなり死ぬこともないだろう。

それでも確かに、貯金が減っていくだけの毎日は残りの寿命を表しているようで不安な気持ちになる。

それならば、少しだけ働けばいいのだ。ニートにあるまじき発言かもしれないが。

現代にはバイトという便利なシステムがある。

必要最低限の労働をして、必要最低限の生活を送り、穏やかな毎日を過ごす。

これ以上に望む事があるだろうか。(いや、ない)

もちろん、できることならば働きたくはない。

だが、「毎日貯金が減っていくストレス > 週2-3バイトをするストレス」だと自分は考えた。

比較して心の負担が少ない方を選択したに過ぎないのである。

ニート生活を長く続けるのならば、働かない事にこだわりすぎるのはあまりよくない。

ニートとはライフスタイルであり、心の在り方なのである。

そして、人は死ぬ。

老いて、病気になって、死ぬ。

すごい嫌だなと思う。

でも、これってニートや社会人という肩書きはそんなに関係ないのではないだろうか。

確かに、貯金をたくさんしておけば穏やかな老後が過ごせたり、高額な治療を受けられたりと長生きできるのかもしれないけれど、最終的には死んでしまう。

老後の事を考えて、人生の大半を労働に費やして過ごす。

多くの人々はそうしているが、結局何のために生きてるのか分からなくなってしまっている。

そもそも、我々はその他のあらゆる生命を犠牲にして生きているのに、いざ自分の番が来たら「痛いのは嫌だ」とか「死ぬのは嫌だ」とか言い出すのはちょっと虫がよすぎるのではないだろうか。

「みんないつかは死ぬ。虚無い。」

そんな事を受け入れつつも前を向いて生きるしかないだろう。

現世的テクニックとしては、ニートだからこそ健康に気を使うというのは重要かもしれない。

ありあまる時間を利用して、ランニングや筋トレをしてもよい。

ストレスによる健康被害や、発散の為のドカ食いなども避けられるだろう。

意外とニートの方が長生きしたりするのかもしれない。

長々と理屈を述べたが、まとめると

「あらゆるものは虚無い。それでも自分のやりたいことをして心の充実を目指そう。寝たい人は思う存分寝ればいい。」

という事だ。

「わかる」と「できる」は違う。

いきなりこんな事を言われても、モヤモヤした気持ちは離れないかもしれない。

それでも、繰り返し実践していく事によってニートマインドが身に付いていくだろう。

誰もが安寧な眠りを得る事を願ってやまない無職であった。

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