どこからどこまでが「自分」なのだろうか

僕は「人格」なんてものはあくまでインプットとアウトプットの結果に過ぎないと思っている。

脳の作りと周囲の環境、これらの相互作用によって組み立てられたのが、いわゆる「自分」なのだろう。

様々な入出力が積み重なった結果として、システムがそのような性格を持っている(ように見える)にすぎないのだ。

とはいえ、いつも「だるい」と考えているような自分は主観的に存在している。

なんならずっと寝ていたいし、今この文章をぽちぽち入力しているのも、ちょっとめんどくさいと思っている。

ニート気質をアイデンティティにしているという訳ではないが、「自分とはそういうもの」なんだな、という自己認識はある。

ここで疑問に思うのは「どこからどこまでが『自分』なのだろうか?」という事だ。

例えば、異なる社会環境や家庭環境で育ったのならば、脳の作りが全く同じだったとしても、自分はまた違う性格の人間になっていただろう。

性格形成に影響を与える要因は、遺伝50%、環境35%、残りが不確定要素だそうだ。

「自分が『自分』だと思っているものはあくまで経験によってもたらされたものに過ぎないーーー。」

そんな事を考えると、どこか軸がブレついてしまうような感覚になる。

いつもだるくて寝るのが好きな自分さえも社会や家庭の抑圧によって生まれただけかもしれない。そう思うとなんだか少し寂しいものだ。

(とはいえ、エネルギッシュでキラキラしている自分を想像するとちょっと笑ってしまいそうになる。)

脳科学/心理学的には「◯◯歳までに主な人格が形成される」というような回答が存在しているのかもしれない。

だが、個人的な見解としては

「人格なんてものは脳と環境の相互作用による現象に過ぎない」

そして

「今この瞬間においても、経験によって人格は更新され続けている」

と捉えている。

本題の「どこからどこまでが『自分』なのか?」に戻ろうと思う。

「『自分』という存在は脳のインプットとアウトプットの結果に過ぎない」と考えると、つまりは「何をインプット/アウトプットしていくのか?」という事であり、「自分」と「世界」は密接に関係していると言える。

人間、知識、文化、自然、風景、etc…

そういったあらゆる情報に触れる事(インプット)で、折り重なるように自分という存在が形作られていくのだと思う。

そして、自己表現(アウトプット)を通じて個人の枠組を確立させ、情報を世界に還元していく。

自分と世界は入出力とフィードバックをお互いに繰り返し続けるのだ。

「修行の末に『自分=世界』である事を悟った」のような記述を見かけた事はないだろうか。

真理がどうなのかは分からないが、自分と世界の境界というのは確かに曖昧なものであり、自分とは不確かな存在に過ぎないのかもしれない。

しかし、それでもなにか「自分を自分たらしめるもの」を挙げるのならば、それは「世界に対する姿勢」なのではないかと思う。(その姿勢さえインプット/アウトプットによる結果だったとしても。)

世界の捉え方により、あらゆるものへの解釈は変わっていくし、己へのフィードバックも異なるものとなっていくだろう。

そして、それは「帆」のようなものであり、人生の行く先も決定しているようにも感じる。

結局、長々と述べた末にどこからどこまでが自分なのかは分からないままである。

しかし、その範囲内における「世界に対する姿勢」というものが自分(の方向性)を決定付けているのだと考える。

「自分」だと思っているものは外部によってもたらされた性質に過ぎないのかもしれない。

だが、それでも今現在の自分が「そのような在り方を肯定していく(という姿勢を示す)」事により、それは「紛れもない自分」となるのではないだろうか。

改めて、ここに主張しておきたい。

「だるい」と。

【おまけコラム】「”オリジナリティ”とはなんだろう」

僕はずっと大学まで音楽をやっていた。

その中でもよく耳にしたのが、「唯一無二のアーティスト」や「オリジナリティがすごいバンド」のような謳い文句だ。

創作と聞くと”無”から何かを創造しているようなイメージを抱くが、そんな事はあり得ない。

この世に存在している時点で、他者からの影響を受けずにいるのは不可能であり、完全なオリジナルなどは存在しないはずだ。

そもそも、音楽や楽器を始めている時点で、何かしらのきっかけがあった事は確実だろう。

とはいえ、本当に「唯一無二だなぁ」と納得してしまうようなアーティストは稀に存在する。

何が彼らをオリジナルたらしめているのだろうか?

個人的には、以下の3つの能力が要なのではないかと考えている。

① インプット能力:音楽に対する貪欲さ。

② 解釈能力:インプットしたものを消化する能力。

③ アウトプット能力:消化したものを曲に落とし込む力。そして技術力。

まず、インプット能力とは「どれくらい音楽を聴いたか?」という事である。

例えば、「生まれてから1つの曲しか聴いたことがない」という人が存在したのなら、その人はその曲に酷似したものしか作る事ができないだろう。

(世の中には生きているだけでリズムのヒントとなるものが多数存在している、と考える事もできるが。)

かといって、むやみに聴いた曲を増やせばよいという事でもなく、どこまで詳細に”聴く事”ができるか、ということも試されている。

これは次の解釈能力にも通ずるものがある。

様々な音楽たちを消化して自分の中に落とし込む。そのような過程が作曲には必要だ。

どんなに演奏が素晴らしいバンドであったとしても、「インプットが少ない」&「消化能力が低い」であるとパクリの烙印を押されかねない。

天才は「歌が上手い」とか「技術が高い」のような表面的な部分のみが評価されがちだが、解釈能力が強いのだと思う。

この辺りは音楽のみならず、「人間性」や「人生の背景」も関わっている気がする。

(学歴主義とかではなく、事実として)自分の周りでは、いわゆる”頭の良さ”(大学の偏差値)と音楽の才能はある程度比例していたように感じた。

優秀な大学に入れるという事は、それだけ人生のバックボーンも強固であるという現実が良くも悪くもあるのだろう。

そして、最後はアウトプット能力である。

脳内にどれだけ素晴らしい曲が完成していたとしても、それを表現できなければ存在していないのと同じだ。

さらに表現にあたって、ある程度の演奏技術も必要になってくるだろう。

「フレーズはできたけど、うまく弾けない」なんていうのはよくある話だ。

演奏力が一番重要な訳ではないと自分は考えているが(プレイヤーというより作曲者寄りだったからかもしれないが)、演奏力の有無によって楽曲の可能性や周囲のフィードバックは変わってくるはずである。

その他で言えば、セルフプロデュース力や、DTM(PC音楽作成)や録音技術もアウトプット能力に含まれる。

これら3つの能力は、お互いに共鳴し合うような相互関係にあるように思う。

自身の中で爆発を起こし、突き抜けたものだけが、界隈から評価され、唯一無二の称号を得ているのではないだろうか。

「オリジナリティとはインプットの量、解釈能力の強さ、アウトプットの質である。」

今回は音楽の話であったが、他の主題に言い換えても通用するような理屈であるはずだ。

タイトルとURLをコピーしました