「ボーっと生きてんじゃねーよ!」
という決め台詞が嫌いだった。
世の中、疲れることが多すぎる。
のんびり生きていたっていいじゃないか。
なぜ、マスコットキャラクターにまで説教されなくてはいけないのだろうか。
ただ、最近では彼女の言うことも一理あると思うようになった。
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結局のところ、この世に生まれ落ちてしまったからには「争い」を避けることはできない。
人間だって動物だ。
何もせずにボーっとしていれば、攻撃されたり、飢えたりして、死んでしまう。
平和な現代には関係ない話だろうか。
いや、我々の時代にはあの怪物が存在しているはずだ。
そう、「社会」である。
もはや、社会は人間を支配していると言ってもいい。
現代では、人々の為に社会があるのではなく、社会の為に人々が生きている。
そんな状態はもちろん異常だ。
そして今日も、社会という名の怪物に、多くの人々が犠牲になっている。
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社会はおかしい。端的に言えば狂っている。
身近な例としては
「面接の嘘つき合戦」
「ブラック企業による自殺/過労死」
などが思いつくかもしれない。
だが、これはあくまで「社会の仕組み」によって我々に及んでいる作用に過ぎない。
本当の敵は「資本主義社会」、その仕組みそのものが元凶であるのだ。
「クッキークリッカー」というゲームをやったことがあるだろうか。
クリックでクッキーを集めたり、自動製造設備を購入して、どんどんクッキーを集めていく。
これを繰り返し、天文学的数字のクッキーを得て、気持ちよくなるというゲームだ。
これのリアルマネー版を行なっているのが資本家階級の人々である。
どんなゲームにハマろうと個人の勝手だが、付き合わされる方はたまったものではない。
ごく一部の人々のせいで、ほぼ大多数の人類が苦しんでいる。これが、この世界のリアルである。
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資本主義社会の狂気と歪さを紹介しようと思う。
顕著なものは「環境破壊」だろう。
先進国で浪費を促し、発展途上国に工場や発電所を建設し、環境破壊や搾取を続ける。
わかりやすい例で言うと「ファッション」である。
流行を人々に植え付けて、異常な速度で生産と廃棄を繰り返す。
捨てられる服たちの殆どはまだまだ着れるものだろう。
先進国では情報に踊らされた人々が「ファッション」を続ける中、発展途上国では環境が破壊され、劣悪な労働条件で人々が働かされている。
ウズベキスタン共和国のアラル海(湖)は綿花の生産を続けた為に枯渇した。
塩の混じった砂嵐が吹き荒れ、周囲に住んでいる人々は著しい健康被害を受けた。
そうした一方で、大企業や資本家は懐を肥やす。
こんなものは当たり前におかしい。
誰だって分かるような理不尽がまかり通っているのが、この世の中なのだ。
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資本主義社会の問題については、鶴見済氏の『脱資本主義宣言』が分かりやすい。
別に鶴見氏は「環境問題活動家」や「ナチュラリスト」ではない。
「どうすれば楽に生きられるのか?」という「生きづらさ」に向き合った結果として、社会の在り方に疑問を抱くことや、自然と繋がるような生き方に行き着いたのだという。
その切り口からして、我々にとっても非常に同感が得られるものとなっている。
(なにしろ、『完全自殺マニュアル』の著者でもある)
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(資本主義)社会に対抗する方法をマクロな視点から考えると
・無駄に消費しない
・作られた常識を疑う
・流行に踊らされない
・スローライフや自給自足を心掛ける
などである。多くの人々がこのような志を抱いたのならば、搾取を行う層はたまったものではない。
いきなりスローライフや自給自足は難しいが、それ以外は実行しやすいはずだ。
ファッションで言えば、自分が気に入ったものを末長く大切にすればいい。
あらゆるものに対して思うのだが、「流行に踊らされる」ほど「ダサい」ことはないと思う。
自分の価値観を持って生きよう。
そうしなければ、誰かにとって都合のいい奴隷にされてしまうだけだ。
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それでは、ミクロな視点、日常における社会への対抗はどうすればいいのだろうか。
自分は働きたくない。
かといって、そんなことを宣言すれば、おかしな人だと思われてしまうのがオチだ。
だが、こちらから言わせてもらえば、「人生の大半を労働に費やして死ぬ」ということを「当たり前だから」で受け入れてしまう方がおかしい。
もう一度言わせてもらうと、狂っている。だが、大半の人々からすれば、自分の方が狂っている。
そうなると、もはや、どちらが正しいかというよりは「当たり前」の押し付け合いになる。
「作られた常識や流行に踊らされながら浪費を行い、それを埋め合わせるような労働を続ける生き方はおかしい。絶対に働きたくないでござる」
そう主張をしていくしかない。
思うに、「多様性」なんてナイーブな言葉が流行しているが、本質としては「殺るか殺られるか」なのだ。
「ボーっとしているのがオレの生き方だ。邪魔をするなら容赦はしねえ」
そのぐらい「エゴ」を貫き通すような心意気を持ち合わせる必要がある。
そもそも、生きることの本質はエゴだろう。
生きる為には他の生命を犠牲にしていかなければならないのだから。
それを実感し、責任を負った上で、思うように生きるのが、健全な在り方である、と自分は考える。
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この社会でエゴを貫く具体的なノウハウとしては「オバチャン」にヒントがあると思った。
たまに自分は清掃バイトをしているのだが、その従業員の中に非常にクセの強いオバチャンがいる。
(逆転裁判というゲームに当時するオバチャンにそっくりだ)
遅刻はしょっちゅうだし、主任(ちょっと偉い社員)にもタメ口だし、仕事も完全にマイペースだ。
トークの話題と速さといい、完全に自分の世界に生きている。
ただ、それでも咎められたり、クビになるようなことはない。
完全に「そういう人」として認められているのだ。
ここで重要なのは「自分の世界に生きる」ということだろう。
自分なりの価値観を持って、自分の世界を展開して有無を言わせない。
社会的に虐げられがちな繊細タイプの人こそ、開き直ってしまえば、そういう技術は得意になるのではないだろうか。
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まとめると、資本主義に飲み込まれない方法は「エコなオバチャン」になることだ。
ただ、ここで断っておくと、資本主義社会が絶対悪だとは考えていない。
多数ある「〇〇主義」の中ではまともな方だろう。
しかし、今のやり方には様々な面から限界が来ているのだと思う。
環境的にはもちろんだし、世界中の若者が不平等な搾取により、無気力に陥っている。
最近だと、中国で「寝そべり族」がブームになっていると報道されたのは記憶に新しい。
だらっと寝そべって、何も求めない。マンションも車も買わず、結婚もせず、消費もしない。最低限の生存レベルを維持し、他人の金儲けの道具や搾取される奴隷になることを拒絶する。それが「寝そべり」族。
まさしく、反・資本主義的な在り方だ。
非暴力・非服従のデモでもある。
(日本にも、これに非常に類似した「サイレントテロ」というインターネットムーブメントが存在する)
資本主義は人間の競争本能や欲望とマッチしたよく完成されたシステムであると思う。
ただ、人々が競争に燃えるのは、それが平等な条件から始まったときのみだ。
資本主義社会に生まれることは、途中参加のモノポリーをやらされるようなものである。
完璧な平等は難しくても、相続税をゴリゴリに取って、ベーシックインカムで全員を援助するなどの方法は不可能なのだろうか。
ただ、自分は国や政府に期待することはやめた。
中途半端に期待しても不満が募るだけなのだから時間の無駄だ。
淡々と選挙に行くだけである。
それよりも、国や社会にあまり依存しないような、自給自足な生活を作り上げるべきなのかもしれない。
これからはニート村の時代なのか?
そんなことを漠然と考えるのであった。