以前にオススメして頂いた本をやっと読めた。
非常に賛同できる部分や、少しフィーリングが合わずに「?」となる部分もあったが、著者の生き方と作品はリスペクトできるものであり、我々にとって参考になるはずなので、ここに引用とコメントを添えて記録しておく。
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『自死という生き方 -覚悟して逝った哲学者-』 須原一秀 (哲学者/社会思想研究家/大学教授)
-老いと死を歩む私たちの必読書-
晴明で健全で、平常心で決行される自死がありうる。須原氏は、その証明を、現代における哲学者の仕事であると考えました。そのために氏はこの一巻を著します。同時に、ここで示されたごとき自死を実際に決行する実例を提供するために、自ら死んでいったのでした。
前書き より
この本は「過去に自死を実行した哲学者の紹介本」ではない。
紛れもない現代(2006年)に、著者の「哲学的事業」として実行された自死と、その過程を記した一冊である。
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さっそく、本文を見ていこう。
はっきり言えることは、「私は厭世論者でも虚無主義者でもない」ということである。
また、「ものごとから常に逃避する傾向の人間である」ということでもないし、さらには「肉体的・精神的に、どこか不健康である」ということでもない。
p33
「死の問題」は、古代ギリシアにおいてソクラテスが「死刑による死」を晴明・快活に受け入れてみせるという模範を示して以来、昔から哲学者の領分とされてきた。
ということは、この科学主義と資本主義の時代において、宗教にも伝統的文化に頼らずに「死」を晴明に健全に受け入れるための「心と体の体制」はどのようにして整えることができるか。
そのような心身体制を整えるための実感・体感と直結した知見をどのように蓄積していくか。
それらに関して医学、心理学、社会学などと共に、何ほどか社会に貢献するような仕事が哲学者にも残されているはずだ。
p36
自らに敢えて死を与えようとする者に対して、抱かれる共通の偏見がある。
それは「よっぽどどうしようもない理由があるか、狂っているか、変人であるかのどれかであり、それ以外の理由で人間がわざわざ死んだりするようなことはない」というものである。
(中略)
まず、一般に考えられている自殺の理由を列挙していこう。
① 生きつづけることが出来ないほどの肉体的苦痛ないし精神的苦悶があった。
② 精神異常、隠された異常性、あるいは精神的屈折のどれかがあった。
③ あの人にはもともとどこか暗いところがあった。つまり、人生に対して悲観主義者か厭世主義者である。
④ 一時的に変になったのか、もともと変人であった。あるいは、薬の副作用か何かで一時的におかしくなっていた。
⑤ 天才、文学者、哲学者、芸術家などは、どうも一般人のうかがいしれない理由で自殺するようだ。
(中略)
確かに、右の五つの理由どれかで死んでいく人は昔から大量に存在したことは間違いない。しかし、このどれにも当てはまらない場合があって、それは右の五つのどれとも違う六番目のケースがあることを示したいのである。
(中略)
言い換えると、「もともと明るくて陽気な人間が、非常にサバサバした気持ちで、平常心のまま、暗さの影も異常性も無く、つまり人生を肯定したまま、しかも非常に分かりやすい理由によって決行される自死行為がある」ということを今から立証しようとしているのである。
p53-55
これまで自殺を扱う本と言えば、ネガティブなものが基本であった。
しかし、須原氏は「明るい自殺」が存在しうると提唱しているのである。
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神風特攻隊の遺書などを見ると、痛々しくて本当に胸の詰まる思いをする。「小説をもっと読んでから死にたかった」とか、「もっと馬鹿なこともしておけばよかった」などの言っている心の有り様が痛いほど伝わってくるからである。
それに対して、「私は充分生きたからもういい、後は皆仲良くしてくれ」と言って、死んで行く人の話を聞くのは清々しい。そして人々は、「死が迫ってきたら、もうこの世は充分に堪能したから、あるいは完全燃焼したから、未練はないと言って死にたいものである」などとよく言う。
p83
「この世を堪能しつくす」とは、どういうことだろう。
ここで須原氏は「極み」という概念を導入する。
「極み」とは、「金のオニギリをパクパク食べているような」、つまり「これ以上のものは、もう何もいらない」と思えてしまうような感覚のことである。
極みには様々な種類が存在する。例えば、家族と共にミカン畑を散歩し、遠くに燦めく海を見つめて、子供の声が響くような。これは「家族生活における極み」だという。
以下では「食事の極み」を例に挙げている。
(自死を遂げた映画監督、伊丹十三氏について) つまり、評判や値段の高さに誘導されて、特別に美味しいと感じたりする人とは違って、彼は自前のセンスで、そして独力で探し回って、あっさりとあらゆる方向の極みに達する人であり、この場合は二つか三つの「極み」に達していたようである。
(中略)
つまり、頭で食事をしている人は、常に自分が味わっているもの以上のものがどこかにあるような気がしていたり、テレビで絶品であると紹介された料理を観念的に「極み」であると思って喜んで店の前に並んだりするのであるが、実は身体は納得していなかったりするのである。そしてそのような種類の人は、結局人生の終わりになって、「自分は生き切った」という感慨を持てない人間なのかもしれない。
(中略)
このような「極み」は、人生のあちこちに満遍なく存在しており、折に触れ誰しもその「極み」やその手前まで行ったり来たりしながら生活しているのである。
p89-91
「極み」を得るためには、自身の感性をしっかり持つことが大切なのだろう。「情報を食っているような人」はいつまで経っても「極み」には到達できないのかもしれない。
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この「こだわりがない」ということは重要である。なぜなら、こだわりの強い人は特定の「極み」にこだわることと、そのこだわりが観念的に固定されるせいで、いろいろな方向の「極み」に達する可能性が低く、結果全体としての「極み」の総量が少なくなってしまうからである。
p93
つまり、「あらゆる極みのすべてを極めなければ、人生を生き切ったことにはならない」ということではないのである。昔からよく言われる「足るを知る」ことが大切であるという教訓は、そのことに関連しているのではないかと思う。
ということは、すべての「極み」を制覇しなければならない、ということはなさそうである。とは言っても、一つや二つの極みだけで間に合うということでもなさそうである。多分、二十でも三十でもなく、まして全てでもなく、六つ、七つかそれ以上の「極み」に関して、足るを知る心構えで持続的に極限に達していれば、本人は自分の人生に納得できるのではないだろうか。
p94
一般に、仕事が大きく上手くいった時、素晴らしい景色や芸術作品に接した時、念願の思いが叶った時、本当に美味いと思えるものを口にした時、あるは恋愛が成就した時、つまり何か非常に良いことがあった時に、誰しもふともらしてしまう言葉がある。それはたとえば「生まれてきてよかった!」とか、「もう死んでもよい!」などであるが、この種のよく聞くセリフは、正に「人生の極み」に達している状態を象徴的に表現しているものだと思う。
p96
特定の何かにこだわりすぎるのも良くないということだ。
例えば、絵に人生をかけたような人間がいたとしよう。
だが、現実的に考えると、すべての人間が成功できるとは限らない。
彼/彼女は他のものごとにも、きちんと目を凝らしてみれば、他の「極み」を得られたのかもしれないのにも関わらず、「自分には絵しかない」「絵で成功できない自分はダメだ」などと自己否定に陥ってしまう可能性が考えられる。
「執着を持たずに、様々なことにアンテナを張る」、それが人生において様々な極みを得るのに、大切なのではないだろうか。
(自死を遂げた偉人たちに対して) したがって、すでに種々の「極み」を極めつくした感があったのではないだろうか。そこで、「もういい!」という気持ちが体の底から湧き上がってきたのではないだろうか。それが人生に対して未練もなく旅立って行けた理由ではないかと思う。
p101
人生をある程度極めつくしたのなら、死ぬことぐらいしか残されていないのかもしれない。
不完全燃焼では未練が残るが、完全燃焼してしまえば、死に躊躇もないということだ。
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次にテーマは「『苦痛、死そのもの、死後に対する恐怖』の克服」について移る。
まとめると以下のようになるという。
① 主体的に生きてきた人間は、「死そのもの」や「あの世での生活」について、頭で考えようとしても、本気にはなれず、体の方が勝手に動いてしまう。
② なんらかの価値観にハマっているときには、自己への配慮が低下する。「老醜と自然死」を避けるということを本気で考え、それを本気でなんとかしようと思った人間は、それ以外のことはあまり気にならなくなる。
③ もし、地獄というものがあるのなら、人間は全員地獄に行くことは免れないはずである。
④ 「苦痛」に関しては、こちらから迎え撃つときには、そんなに怖くないようである。「なにくそ、やってやる」ような気持ち。自然死のだらだらとした苦痛は恐ろしいが、人工的な死は一瞬でどうってことはない。
⑤ 世俗的に考えれば、この世と別途に「他の時間の流れ」や「別の世界」が存在する事はあり得ないだろう。
(要約含む)
p113-116
死後に対する価値観を固め、「死ぬこと」にさえ、熱中してしまえば、恐ろしくないということだろうか。
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「死の受容 五段階説」というものがある。
ガンや余命を告知された人間が辿るプロセスは
「否認 → 怒り → 取引 → 抑うつ → 受容」
であるという。
一方、須原氏は「能動的・積極的受容の五段階説」を提唱した。
① 人生に対する納得
人生体験を通じて、「人間は生まれて、成長し、良いことも悪いことも経験し、老化して死んでいく」ということを身をもって納得すること。それには「極み」によって「自分は確かに生きた」という体感が必要である。
② 死に対する体感としての知識
「人生」と「死」に対する熟考。そして、「自身の死」「知人の死」「他人の死」に対する理解。
③ 死に対する主体性の確立
自然死派…「どんなに悲惨な形であっても、耐えて死んでみせる」という覚悟を持つ。
人工死派…葉隠的「死に狂い」の心構えを構築する。(死ぬことを見つけたり)
④ キッカケと意味付け
自然死派…共同体への配慮と、最期まで生活様式の確立。
人工死派…決断の時期とその理由付け、共同体への配慮。
⑤ 能動的行動
自然死派…「さあ、来い!」という心構え。
人工死派…「さあ、行くぞ!」という心構え。
p126-128
ここで「自然死」についても言及する。
ベストセラーとなり、全米図書賞を受賞した『人間らしい死にかた』という本がある。
そこには病院による自然死例が多数収録されており、医師でもある著者のヌーランド氏によると、
「私自身、人が死にゆく過程で尊厳を感じた例に出会ったことはほどんどない」
「臨終の瞬間は概じて平穏であるが、この静けさはつねに、恐ろしい代償と引き換えでなければ得られない」
と述べられている。
つまり、「穏やかな自然死」や「眠るような老衰死」などは幻想にすぎず、自然死の大半は悲惨で恐ろしいものであるとヌーランド氏は主張しているのだ。
我々は一度、本気で「自然死」の現実について考えてみる必要があるだろう。
しかし、それでも自然死を選択するような、「積極的自然死派」の人々には賞賛を送るべきだと須原氏は述べている。
積極的自然死。例えば、死へ向かう苦痛すら人生の一部と考え、全てを受け止めるような。
そのような人々にはリスペクトを示すべきだという。
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そして、話は「武士道」に移る。(この本の副題〔というか須原氏が名付けた本来のタイトル〕は『新・葉隠』であるのだ)
「武士道とは死ぬことを見つけたり」。
この言葉の真意を述べると、本来は一国一城の主を目指すような身分であった武士たちが、サラリーマン的な幕藩体制のもとでプライドを保つ方法、それが「死にたがり」の姿勢だったのだ。
いつだって腹を切って死んでしまうような覚悟を決めている存在には、お上も蔑ろに扱うことはできない。
「いつでも死ぬ(ような覚悟を決める)ことによって、強く生きる」、それが「死ぬことを見つけたり」なのである。
(現代的な例では「すぐに指を詰めたがるヤクザの子分がいたら軽く扱うことができない」とある。)
つまり、武士道ならぬ老人道においても、「死ぬことを見つけたり」であるのだ。
死を想定することによって、強く生きる。
自身の主体性や自尊心が残っているうちに、強く死ぬ。
(この辺りはアカギの葬式編に通じるものもある)
この章の後半では「老後や病中において自己を保つことの難しさ」が述べられている。
40年以上、ターミナルケア(終末医療)に関わってきた熱心なキリスト教徒、キューブラー・ロス氏であるが、晩年は脳梗塞に倒れ、罵声を叫び続けるような性格に豹変してしまったという。
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最終章では須原氏が自死を実行するまでの日記・エッセイが載せられている。
死を覚悟している時点でも、落ち込んだら「あー死にたい」なんて思ってしまう。
そんなことが、ユーモラスに淡々と綴られている。
以下は読書を踏まえた上での個人の感想である。
【自殺は正しいのか?】
言ってしまえば、自分は「自死肯定派寄り」である。
以前の記事では、人生をコスパから考えてしまえば、老人になるまで遊び倒した後にサクッと死んでしまうのが最高だ、なんて述べたこともある。
ただ、思うのは「自殺が決まっている人生を強く生きることができるのか?」という問題だ。
誰だって死ぬことや、その直前の苦しみは怖い。
そんなことが決定している人生を前を向いて生きることができるのだろうか。
…けれども、この問題に関してはまだ「先送り」で構わないと思っている。
「死ぬことを見つけたり」はあくまで「老人道」だ。
今は「極み」を見出すこと。すなわち、人生を楽しむことに集中するべきなのではないだろうか。
楽観的と言われるかもしれないが、人生なるようになる部分があると思っている。
「死」に囚われすぎてしまうことも、本末転倒だ。
そして、もう1つ提起したいのは、残された人々から考える、「自殺の正しさ」である。
自分は本を読んだだけだが、須原氏が死んでしまったという事実は寂しい。
後書きにおいては、家族の方が、「父にもう会えないのは寂しいが、悲しむことではない」とコメントを残している。
(その他、「父の残した原稿を多くの方に読んで欲しい」「死ぬことについて本気で考えるきっかけになってほしい」「連鎖自殺が起こることは望んでいない」など…)
人が死んでしまうことは寂しい。できれば死なないでほしかった。
でも、それはあくまで結果論なのかもしれない。
須原氏がこの計画を実行していなければ、自分は本に出合うこともなかっただろう。
そして、家族とだって、計画を実行しなければ、認知症を発症したり、寝たきりになって介護生活の果てに亡くなってしまったりと、大きなわだかまりを残したのかもしれない。
改めて述べると、須原氏が死んでしまったことは寂しい。
ただ、氏の哲学的プロジェクトに対して敬意を払い、その選択が間違っていたと判断することは決してしない。
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【弱者はどうすればいいんだろう】
この本を読んでいて思ったのは、須原氏は「つよい人」なのだ。
社会的地位だけを見て述べる訳ではないが、学者であり、大学教授である。
インテリジェンスやバイタリティにも富んでいるように感じた。
それでは、自分のようなやる気もなく、体力もないような、社会的地位も低い「よわい人々」はどうしたらいいのだろうか。
「極み」の理論にも非常に同意できるのだが、「極み」(またはその片鱗さえ)を得ることができないからこそ、死んでしまいたいような人たち、そういった人々もこの世にたくさん存在するはずだ。
「死ぬことを見つけたり」という武士道的な価値観も、そのような理屈を持って死んで行った人々を批判する訳ではないが、自分には性に合わない。
プライドの為に生きて、プライドの為に死ぬ。世間体の為に自殺するような価値観と紙一重ではないだろうか。
自身が心掛けているのは「ドライに生きる」ということである。
須原氏の示した方向性は間違っていないと思う。
しかし、時代に合わせて新たに解釈・改変していく必要が現代の価値観を持った人々には必要なのではないだろうか。
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【サクッと死にたい】
思うに、「死」に対してみな重く考えすぎなのだ。
一種の信仰というか、洗脳というか。
(「洗脳」って言葉を悪い意味で使うのが、あまり好きではない。この世の全てのものごとが新たな洗脳でもあるから。この文章だって洗脳だ。)
「命を大切にしましょう」とか「自殺は悪いこと」だとか凝り固まりすぎなのだ。
こんな光景が実現したら、一種のカルト集団のようだが、サクッとラフに死を受け入れるような集まりがあってもいい。
みんなに囲まれながら、朗らかな雰囲気で、死の順番を受け入れた人から首を吊るような。
ひとりで首を吊るのはなんだかんだ言って寂しいだろう。そんな価値観もあり得ない話ではない。
自分は「人生は基本的に苦」だと思っている。
よく言う例えなのだが、「そろそろ、しんどくなって来たからサウナ(現世)出るわー」ぐらいのノリで水風呂(三途の川)に飛び込みたい。
「サウナは水風呂に入るために存在している」というが、「人生も死ぬために存在している」のかもしれない。
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【ニートと哲学者】
たぶん、この世で「死」について、真摯に向き合っている人間は「ニート」か「哲学者」しかいないのだ。(多忙な現代で「死について考える時間を持つ人」と言ってもいい)
人間は全員いつか死ぬ。明日には死ぬかもしれない。
ただ、多くの人は目の前の仕事や遊びによって、それを直視しようとせず、絶対的な事実を誤魔化して生きている。(ひねくれニートが批判するような言い方をすればってコトですよ)
そのような在り方も”幸せ”なのかもしれないが、それが本当に正しいと言えるような人生なのだろうか。
ニートや無職になってしまったことを悲観的に捉える人も多いかもしれない。
ただ、個人的にはチャンスでもあると思う。
「人はいつか死ぬ」、その事実にきちんと向き合えるのはこのタイミングしかないはずだ。
人は死ぬ。ニートだって哲学者だってサラリーマンだって資本家だって、みんな死ぬ。
我々はどうすればいいのだろう。
思うに、「どう生きるか?」といったふわっとした話ではなく、「どう死ぬか?」といった具体的な方面からの思考が重要なのだ。
絶対的な死に標準を合わせて人生を考えることによって、逆算的に強く生きることができる。
そんなことを提唱してみたい。
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「死について真摯に考えているのは哲学者とニートしかいない」
そう述べたが、正確にはニートの方が死に肉薄しているかもしれない。
なぜなら、死に歩み寄る学者とは違い、ニートは貧困によって、「死そのもの」にも歩み寄られているのだから。(今回のオチ)