自分の中で「死ブーム」が来ている。(死ブームとは、やたら死について考えてしまう時期のことである。)
最近では、『自死という生き方』という本を読んだのだが、その中にはこのような内容が書かれていた。
ある一章を要約すると、「人生を堪能し尽してしまえば、生に対する執着もあまり無くなる」ということだ。
なるほど、その理屈にはなかなか同意できる。
不完全燃焼だとこの世に未練が残るかもしれないが、完全燃焼してしまえば、あとに残されているのは死ぬことぐらいであると。
その中で著者は「極み(≒ これ以上はないと思えるような喜び)」という概念を提唱していた。
人生には様々な「極み」が存在し、「家族の極み」「食事の極み」「友情の極み」など、様々な極みを体験することによって、人生を生き切り、未練なくこの世を去れるのだという。
著者が言っていることは概ね正しいと感じた。自分も「極み」を探求していくべきだと思う。
ただ、この世の中には「極み」が得られないからこそ、「死んでしまいたい」ような人々がたくさんいるのではないだろうか。
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慢性的な「死にたさ」について冷静に分析すれば
① 人生において「快楽 < 苦痛」である。
② この後、生きていても、「快楽」が「苦痛」を上回ることが無いと予想される。
以上の理由から、「人生の損切り」として、「死」を選択するパターンが多いのではないだろうか。
(何かに失敗してしまったような、急激な「人生の落差」による、突発的な死にたさはここでは除く)
先ほどの本の著者を批判するつもりは全くないが、彼は「強者」であるのだ。
学者であり、大学教授であり、家庭を持つような。
インテリジェンスとバイタリティを持ち合わせた「強者」なのである。
「強者」だからこそ「人生の極み」を得て、満足に死んでいく事が可能であるのだ。
死にたさのマジョリティである「弱者」は、「極みのかけら」さえ得る事ができないからこそ、受動的に死んでしまいたくなるのではないだろうか。
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「弱者」について。
具体的に言ってしまえば、容姿が優れず、頭も回らず、家庭環境も悪く、学校では孤立し、友達も存在せず、恋愛経験も乏しく、社会的地位においても底辺のような特徴を持つ人々である。
このような人々は、現代において、もはやインターネットでルサンチマンを吐き出すしかない。
それらに対して、「ウジウジしてるんじゃねーよ」とか「努力してみれば?」と返信されている光景によく出くわすが、誰が彼/彼女らを責めることができるだろうか。
彼/彼女らがそうなってしまったのは、そのような「肉体的条件(性別/容姿/才能 など)」と「環境的条件(社会/家庭/学校 など)」を持ち合わせてしまったからである。
逆に言えば、我々は現在の条件の元に生まれてきたからこそ、現在の意識が発生しているのだ。
(例えば、自分の性別が逆だったら?、同じ身体でも違う家庭で育てられたら?、今の「自分」が存在しているだろうか。)
“たまたま”「いい条件」で生まれてきた人々が、”たまたま”「悪い条件」で生まれてきた人々を見下す。
恵まれた先進国の人々が、貧しい後進国の人々に対して、「君たちが生活に苦労しているのは、努力が足りないからさ」と説教を垂れることはどう考えてもおかしいだろう。
スケールが違うだけで、国内でも同じことが起こっているだけなのだ。
持たざる者は負のスパイラルに突入し、無気力に陥り、持つ者は正のスパイラルを得て、「人生は楽しい」と主張するのである。
そんな光景を見かけるたびに、やるせない気持ちになってしまう。
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ここで述べたいのは「持つ者は捨てることもできるが、持たざる者は捨てることさえできない」という残酷さについてである。
例えば、ある程度の恋愛経験を積んできた人ならば、「生涯パートナーがいなくてもいい」という選択を積極的に選ぶことができるかもしれない。
だが、一切恋愛経験が無く、苦しんでいるような人が「生涯パートナーがいなくてもいい」という選択を心の底から選べるだろうか。
第三者から見れば、同じ状態であったとしても、自ら選択したのか、そうせざるを得なかったのかでは、大きく「人生の納得度」が変わってくる。
分かりやすく恋愛を挙げたが、他にも多数の例が存在するだろう。
身近で言えば、「ニートをしているのか」、「ニートをせざるを得ないのか」では、同じ界隈でも大きくメンタル面が異なるように感じた。
自分はニートをしている高学歴の人が大体好きである。発信している内容や文章が面白い。
それでも、分析的に述べてしまえば、高学歴ニートの人は「学歴」や「そこに至るまでの人生経験」を”持っていた”からこそ、「主体的にニートをする」という選択肢を選ぶことができたのだ。
「ニートをせざるを得ないような人々」はニートをしていてもツラいだけに決まっている。
結局のところ、持つ者の多くは「本質的な放棄」をしたのではなく、「それを捨てた」という自己肯定と等価交換をしているだけにすぎないのかもしれない。
言ってしまえば、ブッダだって、元々は生活に困らない貴族で、イケメンで、家族に恵まれていたからこそ、”全て”を捨てて、悟ることができたのではないだろうか。
それなのに、貧しい出身の弟子に対して「無欲になれ!」なんていうのは、少し横暴ですらあると思う。
インターネットでは、聖者でもないのに「無欲になれ!」と、「たまたま強者」が「たまたま弱者」に対して説教を垂れている光景をよく見かける。
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ここで、ひとまずまとめてみよう。
強者は「極み(これ以上はないと思えるような喜び)」を得て満足できるからこそ、極端な話「命」さえ捨てることができる。(積極的な自死)
一方、弱者は「極み」を得ることができないからこそ、「命を捨てさせられること」になってしまう。(受動的な自死)
果たして、弱者はどうすればいいのだろうか。
ここで「前向きに生きよう」なんて言っても噓くさいだけである。
そもそも、「アドバイス」なんてこと自体も押しつけがましく、自己満足的だ。
この記事を書いているときに、色々と真剣に考えたが、自分にできるのは、「自分はここにいる」と主張することだけなのかもしれない。
唐突であるが、一旦ここで、自分の「人生観」について述べたいと思う。
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人生は本質的に「苦」である。
「生まれてしまった」ということは「蟻地獄に落とされた」ようなものなのだ。
真ん中には「絶対的な苦(死)」が存在しており、みんながそれから逃れようと、もがくことを強制されている。
生き残るためには、他の生き物を蹴落とし、犠牲にすることが必要だ。
これが「地獄」でなく、なんなのだろうか。
「そんなことないよ。ほら、原っぱに寝っ転がって昼寝をすれば、こんなに幸せじゃあないか。」
という人もいるかもしれない。
だが、あえて言おう、この世で「幸せ」と言っている人間は「自分が無知で、鈍感な、バカである」と主張しているのと同じ事であると。
我々の幸せは何を犠牲にして成立しているのだろうか。
資本主義による後進国への搾取と環境破壊、コストの為に行われる劣悪な家畜への扱い。
なんのために生まれてきたのか分からないまま死んで行くような人々。
生まれてすぐにシュレッダーに轢き殺される雄ヒヨコたち。
この世には不幸な命がたくさん存在する。例を挙げればキリがない。
ほんの少しでも、知性と想像力を持ち合わせているのなら、自分だけ「幸せ」なんてことはあり得ないはずだ。
ご飯を食べたりすることは確かに「幸せ」なのかもしれない。
でも、それは「絶対的な苦(死)」に対する、「相対的な幸せ」であるだけなのだ。
我々は「絶対的な苦痛」を「相対的な幸せ」で誤魔化して生きているに過ぎないのである。
そして、最終的には老いて、病気になって、苦しんで、穴に落ちて死ぬ。
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…というのは、わざと過激で煽るような言い方であるが、おおまかな認識はそんな感じである。
自分はうつ病経験者だ。今も慢性的に仄暗いような気分が続いている。
有名な学説で「うつ病の人は悲観的なのではなく、世界を正しく認識しているのかもしれない」というものを知っているだろうか。
言い換えれば、「普通の人には、世界がキラキラして見えるようなバイアスがかかっている」ということだ。
『進撃の巨人』に「みんな何かに酔っ払ってないと、やってらんなかったんだな」というセリフがある。
まさに、この世界は「酔っぱらっている人」ばかりなのだ。
つまらない大人数の飲み会を想像してみて欲しい。
中央では、声だけやたらデカいような酔っ払いたちがテーブルの上ではしゃいでいる。
あなたは、「ハア、こんな飲み会、さっさと終わって帰りたいな…」なんて考えているのだ。
自分もそう思う。
宴会会場の端っこで、「キミも飽きちゃったのかい?」と言って話しかけるのだ。
「そうなんですよ。ほんとくだらないですね」
「じゃあ、ここで終わるまでグダグダしてますか…」
おそらく、我々がお互いにできるのは、この程度のことなのだろう。
シラフである者たちは、インターネットの隅っこで、この世をやり過ごすのである。