社会の歯車の隙間で暮らす

昨日は労働をした。

5時間。バイト。

もちろん金は欲しいが、もちろん働きたくもない。

週5で8時間働き続けるとボーナスが貰えるのは素晴らしいと思うが、労働アレルギーの自分としては文字通り「死んだ方がマシ状態」になってしまう。

働きたくもないけど、死にたくもないとなると、必然的に最低限だけ働いて暮らす生活を送ることになる。

生活リズムと労働時間について考える。

トータルで2年ニートをやった自分としては、あらゆる時間帯の生活を体験したが、最終的にデフォルトとして設定されたのは「朝日が出る頃に寝て、昼過ぎに起きる」という睡眠リズムである。

となると、働くのは昼勤か夕勤か深夜勤のどれかということになるだろう。

昼勤は微妙だ。12時や13時スタートは目覚ましが必要なので避けたい。

夕勤はありだ。今もそうしている。13〜16時の時間を少し持て余すが。

深夜勤は時給も高く、無しではないのだが、デメリットが2つある。

まず、1つ目に「時間感覚による損失が大きい」ということだ。

勤務日だと、昼過ぎに起きて、22時頃に出勤するまで「今日仕事かよー」という気分がずっと続くことになる。心から休息するのは難しいし、なんだかそわそわしてしまう。

休みを挟んだとしても、寝て起きて、深夜にボーッとして、寝て起きたらまた仕事だ。休んだ気がしない。

2つ目は「夜型人間=夜勤に向いている」ではないということだ。

昔から夜型だったので、夜勤に向いているだろうと思い、学生時代に深夜バイトに応募したことがあるのだが、とてもしんどかった記憶がある。

思うに、夜型人間は「深夜にボーッとしてしまいがち」というだけで、それイコール「深夜でも働ける」ではないのだ。

むしろ、頭は回らず、緊張感とダウナー感の板挟みになり、脳が溶けていく。

これらのデメリットを考慮しても、給料25%アップに執着する必要があるのだろうか。

夜勤はやめとけおじさんである。

何時間働くのが、働きやすいのだろう。

まず、2〜3時間はちょっと短い。

労働に対するコストというのは「準備」も含めて発生している。

気持ち的にもそうだし、シャワーを浴びたりするようなことも含めて。

そう考えると、短時間勤務は楽だが、準備コストとあまり釣り合わないように思う。

逆に、毎日の短時間勤務はアリかもしれない。それが日常のルーティンであるような。

次は4〜5時間の勤務だ。

これはちょうどいい。長過ぎず、短過ぎず、そろそろしんどいなーって時に終わってくれる。

6時間を超える事もないので、職場で休憩のようなロスタイムも存在しない。

当たり前だが、職場で心から休憩できる訳がないのだ。

それどころか「飼われている感覚」が強く、みじめな気持ちになる。

あんな虚無時間を過ごすなら、(時給労働においては)そのまま働いていた方がまだいいかもしれない。

最後に8時間勤務、一般的なサラリーマンのような。

体力がある人はいいけれど、自分のような無気力人間には無理だ。

正確に言うなら、「やれなくもないが、そんな生活を40年も続けるなら、死んだ方がマシ」である。

週2で長時間勤務のような低コスト生活もありなのかもしれないが(大原扁理氏はそうしていたような)、個人としては、「8時間労働のキツさの印象」→「日常における労働に対するストレス意識が強化される」という理由からも厳しい。

たまに「自分には何の取り柄もない」という人がいるけれど、普通にサラリーマンをできているなら、それは充分に才能であり、自分から見れば超人のように感じる。

8時間に加え、残業を行なっている人も少ないはずだ。もはや悪魔超人である。

とはいえ、超人であることが人間らしい生活をもたらしてくれるのかどうかは分からないが。

という訳で、自分は週3で5時間、夕方からバイトをするような生活を送っている。

実家や友人の家に居候をしているので、月6万でも暮らせている訳だ。

ストレスがあまりないので、それを解消する為の贅沢も必要ない。

最低限の労働で、粗食を食べて、そこそこ運動。よく寝て、本を読んだりインターネットをする。

「つまらない人生だなー」と思う人もいるだろうし、自分でもつまらない方だと思うけれど、現代で「自ら望んでつまらない生活を求めている人」はあんまり居ないという意味では、「面白い方」なのではないだろうか。

勘違いしないで欲しいのは、別に自分は社会や労働をそこまで憎んではいない、ということだ。

魚にとっては「海が自然」であり、シカにとっては「山が自然」であるように、現代社会で育った自分にとっては「都市が自然」なのである。

生きていく為には”自然”の中で食っていく必要があることは間違いない。

そういう意味では、ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、みんな働いているのだ。

自然環境の中で狩りや採取をして生活する狩猟採取民たちは5時間程度しか働かないらしい。残りの時間はのんびり過ごすのだという。(無駄に貴重なエネルギーを消費しないという意味もあるが)

自分が現在行っているのは、都市という自然における「狩猟採取民」のような生活だ。

別に狩猟や採取をする訳ではないが、必要な分だけ自然(街)に出て、金を獲ればいい。

(ゴミを拾ってメルカリで売るとか雑草を食べるとかそういう方向も面白いとは思う)

この社会に蔓延する世間体や同調圧力を除けば、「シンプルに生活していく」という意味において現代社会は超ヌルゲーだ。

栄養豊富な食事が安価に手に入り、医療や治安維持の制度、先人達の知識や技術の恩恵にあやかることができ、「明日死ぬかもしれない」という恐怖に襲われることもない。

労働やバイトだって、生命の危機に晒される事なく、生活に必要な金が得られると考えれば素晴らしいものだ。

昔の狩猟は死と隣り合わせであった場合も多かっただろう。

社会の歯車になりたくない、というフレーズをよく聞くけれど、それならば、社会の歯車の隙間に寝そべって、必要な時だけ脚で歯車を蹴り回して、お駄賃を貰えばいいのだ。

結局、世の中は「ずうずうしい人」や「ずるい人」が得をする。

政府や巨大資本による搾取は「ずるい」と思うけれど、こちらにも「なるべく働かない」という「ずるい」方法が存在するのだ。

ニートやフリーターをしていると、「将来はどうするの?」という質問をよくされる。

確かにどうなるのだろう。

「真面目に働いていれば、幸せに死ねる」なんていうのは一種の思い込みであるが、少額の貯金で老後を過ごすのは厳しいだろうし、そもそも中年で野垂れ死ぬ可能性だってある。

けれども、野垂れ死んだっていいじゃないか。

そのスリルさえ、楽しんでしまえばいい。

先程、「明日死ぬかもしれないという不安の無い現代は恵まれている。狩猟採取民は死と隣り合わせだった。」と述べた。

しかし、我々の人生をうすーいカルピスのようにしているのは、「死」に対する意識の欠如なのではないだろうか。

漠然と老後まで生きることを考えるのではなく、今日を生き延びることを目標に、毎日を濃く生きる。

それが正しい「生」の在り方であるはずだ。

まとめると、自分が提唱したいのは、現代社会と狩猟採取民のハイブリッド、すなわち

・現代社会の恩恵にはあやかる

・必要な分だけしか働かない

・今日を生き延びることを目標にする(死の存在を意識する)

というライフスタイルである。

タイトルとURLをコピーしました