よく見えすぎても疲れてしまう

この前、サウナに行ったという日記を書いたのだが、その時にテレビで高校野球をやっていた。

そこでそういえばと思ったのは、インターネットの住民だったり、内向的な性格であっても、野球が好きな人は一定数存在するよなー、ということだ。なんJ民みたいな。

というより、どちらかでしかないのかもしれない。

ニート系の人々を見ていても「野球が好き」or「全く興味ない(もしくは嫌い)」の二択であるようなイメージがある。

ちなみに自分は全く興味がない方のタイプだ。

別に嫌いって訳ではないけれど、自分と関係無い人々の活躍によって一喜一憂する感覚があまり分からない。

最近ではオリンピックをやっていたが、全てのスポーツ観戦諸々に対しても同じ気持ちだ。

選ばれた選手は立派だと思うし、試合だって世界最高峰の技術のぶつかり合いなのだと思う。

それに対して「すごいなー」って思う気持ちはあるけれど、「勇気を貰える」みたいな雰囲気には困惑している。

例えるなら、スーパーカーだろう。

車がものすごい速度で走っていたとしても、「すごい速いなー」と思うだけで、「自分も頑張ろう」とはならない。そんな感覚である。

あとは、家族がたまに見ている、テレビの「大盛り料理や激辛料理を完食してみんなに勇気を与えたい」みたいな番組もよく分からない。

食い物を粗末にするような様子を見ていても、個人的にはげんなりとした気持ちになるだけだ。

これに関しては、自分がテレビを見なければいいだけの話なので、画面の中の人々が何をしていても構わないのだが、スポーツにしろ大食いにしろ、「◯◯を見て私たちも頑張りましょう!」という雰囲気を押し付けるような「頑張ろうハラスメント」だけは勘弁してほしい。

とはいえ、自分が野球やその他のスポーツを面白く感じないのは「解像度」が低いからなのだろう。

例えば、自分は学生時代にバンドをやっていたのだが、音楽を聴いたり、ライブを観たりするのは、もちろん面白い訳である。

知識や体験といった眼鏡のレンズを習得せず、ぼやけたままよく分からない景色を観てもつまらないのは当然だ。

プロ野球だってオリンピックだって、見る人が見れば至高の芸術なのだろう。

つまらないのは自分が悪いとも言える。

「解像度」に関しては、こんなツイートがあった。

なるほど。基本的には自分も概ね同意だ。

けれども、解像度をアップさせることが、必ずしも全てプラスになるとは限らない、と主張してみる。

ちょっと地獄のミサワ(痛いアピールするヤツ)みたいになってしまうが、先程も述べた通り、自分は音楽の解像度が平均より高い(はずだ)。

普通の人は基本的にボーカルを聴いて楽しむのかもしれないけれど、自分の場合は

「ギターは◯◯の影響受けてるな」「ベースのエフェクター定番のアレ使ってるな」「ドラムパターン、△△のジャンルから流用してるな」「ミックスの仕上げ、有名な□□を意識してるな」「コード進行、よくある××進行だな」etc…

みたいな情報がドドドと流れ込んでくる訳である。

つまり、すごく疲れるし、それに強制的に集中させられてしまうということだ。

例えば、電車の移動中に音楽を聴くことはできるけれど、何か頭を使う作業をしながら音楽を聴くことは絶対にできない。

これはこれで仕方のないことであるし、培った能力を捨てたいとも思わないが、解像度アップには「疲れる」「日頃の行動が制限される」といった強制的なデメリットも存在する、ということを伝えたかったのである。

もちろん、音楽以外でも似たような症状はあるだろう。職業病も近い概念かもしれない。

もし、突然に”全て”を理解できるような解像度を得てしまったら、どうなるのだろうか。

皮肉なことに、その人は何もできなくなってしまう気がしてならない。

古代中国の思想家、老子はこんなことを言っていた。

「本来、この世界は境界のない混沌とした存在(これを道[タオ]と呼ぶ)で、それが至上であるのに、”私”がいると思い込み、さらに他の存在に対しても『アレはアレ』『コレはコレ』とか勝手に判断して、喜んだり悲しんだりするから苦しむんだよ」

更にこうも言う。

「勉強すると知識は増えていくけど、道(タオ)を修めると知識は減っていくよ」

「知識(言葉による勝手な分別)をどんどん捨てていけば無為の境地に至るよ」

「無為に至れば、自然とありのままに生きることができるよ」

現代的な価値観は「もっと賢くなれ!詳しくなれ!」であるのに対して、老子は「もっと分別を捨てよう!」と言っているのが面白い。

これは仏教の無分別智に通ずるものを感じる。

(勝手に判断しないで、世の中のものごとをありのままに捉える境地のこと。例えば、多くの人は「風呂のカビ」を「汚い」と認識するかもしれないが、フラットに人間の偏見を消し去って観てみれば、そこでは生命の営みが発生しているだけ、ということである)

…とはいえ、自分はただの自堕落な凡人なので、道(タオ)や無分別の境地に至るのは難しそうだ。

勝手に頭の中で「おいしそう」とか「エロい」とか判断してしまうし、風呂のカビだって普通に嫌だなーと思う。

しかし、ここで主張したいのは、聖人でも凡人でも、「捨てる」という能力は持ち合わせておくべきだろう、ということである。

先程も述べた通り、現代は「学べ!賢くなれ!知識や経験を積め!」というプレッシャーが大きい。

学ぶことは悪いことではないが、それらに雁字搦めにされて、自身が自由に動けなくなる可能性だって大いにあるはずだ。

そんなとき、捨てることによって、生き延びることができたり、新たな道が切り開けることもあるように思う。

何かを得るのは悪いことではない。

けれども、何かを捨てるのも、同じぐらい重要なことなのではないだろうか。

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