「生きているのがつらい人」はどうすればいいのか?

先日、こんなツイートをした。

具体的に何かをしてくれる訳でもないのに、社会が「自殺はいけないこと」って価値観を押し付けてくるのすげえ気持ち悪いよなー。別に死んでもいいじゃん。逆に、いつだって首吊ればサクッと楽に死ねると思えば、人生なんてわりと気楽に生きれると思うけどね。

実際そうである。

「死んではいけない」と言われるから「生きづらい」のだ。

「いつでも死ねる」という切り札を持ち合わせておけば、案外のびのびと生きられるように思う。

そうしたところ、このような相談のリプライを頂いた。

とても同意です。 でも、生きてる全てが苦痛で仕方なくなっている同居人が、今まさに死のうと考えています。 もっと気楽に考えてラクに生きてから死ぬならいいのですが、このままではただ苦しむために生まれてきたみたいで…何て言ってあげたらいいのでしょう?

生きている全てが苦痛で仕方ない人。

とても難しい問題だ。

相談者さんの同居人の方の気持ちは大いに分かる。

自分も重度の鬱が再発してしまった時は、まさに「生きていること全てが苦痛」であるように感じてしまうからだ。

まず、何か原因があって苦しんでいるのならば、そこから離れようとアドバイスしたい。(おそらく、そういうことではないのだろうが)

インターネット上で無責任に「逃げてもいい」と言うことは叩かれる流れであるが、自分は「逃げてもいい」と思う。

一般的に、最も避けなければならないのは「生きる気力」を無くしてしまうことだ。

ブラックな環境であると、その気力を無くしてしまい、鬱や自殺に追い込まれてしまうという訳である。

将来や老後のことを考えてサラリーマンをしていても、今死んでしまったのなら全く意味は無い。(まるで笑い話である)

幸い、この国には生活保護というシステムが存在するし、野垂れ死ぬ方が難しい。

まずは、とりあえず生きること。これが重要である。

そして、個人的な意見を言えば、我々は「死ぬこと」から決して逃れられない。

誰だって、生きている限り、老いて、病気になって、苦しんで死ぬのだ。

そんな絶対的な絶望から逃れられないのだから、人生において会社から逃げるとか、世間体から逃げるなどということは、非常に「ささいなこと」であると思う。

むしろ、逃げられることからは積極的に逃れるべきなのだ。

しかし、同居人の方の「絶望」はおそらくそういう類いのものではないのだろう。

「存在していることが苦痛」であるはずだ。

初めに言った通り、死んでいけない理由はない。

けれども、似たタイプの人間として、勝手ながら自分は「死んで欲しくない」と思う。

これは完全にエゴであるが、2つほど参考になりそうな意見を述べたい。

まず、1つ目に「人生は分からない」ということだ。

「生きていればいいことある」という安っぽい言葉を言いたい訳ではないが、本当に人生は分からない。というか、自分でコントロールできることなど全く無いように思う。

これは「自由意志は存在するか?」のような問題になってしまうが、人生など「遺伝」と「環境」に全て決定されていて、あとは死に吸い込まれていくだけのパチンコ玉なのだ。

自分はこの「流れ」に抗うことはやめた。流れに身を任せて脱力的に生きていこうと思う。(そう考えることさえ「決定されている」のかもしれないが)

完全に人生を終わりにするのではなく、「我がまま」に生きようとする自分を殺す。

そんな「小さな自殺」をしてみるのもありだと思う。

身を漂い任せていれば、思わぬ所に辿り着くかもしれない。

2つ目に伝えたいのは、「あなたにしかできないことをしてみよう」ということだ。

昔からよく考えていた。

「自分は何の為に生まれてきたんだろう」

おそらく、意味はない。

ただ、我々は「生み落とされた」だけなのだ。

けれども、特別に何か意味を見出すとしたら「人間(特に自分)にしかできないことするべき」であると考える。

鳥は空を飛び、魚は海を泳ぐ。

我々もそうするのが、”自然”であるということだ。

「生きているのが苦痛で仕方がない」

そういう人は、自分も含めて、文章を書くべきなのである。

この世界がどんなに苦痛で、醜く、残酷であるか、文章に残してみるのだ。

この世への呪詛と言ってもいい。

それは「生きているのがつらい」という人間にしかできない仕事である。

「全ての本は遺書である」というが、死ぬ前に一度、どれだけ苦しいかを作品として公開してみてほしい。

膿を出し切ればすっきりするかもしれないし、そこからまた人生が変化することもあるだろう。

自分のエゴによる助言はこの程度にしておく。

哲学者の中島義道氏は自殺についてこう述べている。

『自殺してはいけない理由はない。でも、君が死んだら僕は悲しい』

「死にたい」という気持ちに対して、突き詰めて考えれば論理的にそれを止める理由は存在しない。

「自殺はするべきではない」というが、この世の全ての「べき」はただの誰かの主観でしかないのである。(これをヒュームのギロチンと呼ぶ)

しかし、それを止め得るのも、最終的には「私は悲しい」という主観的で感情的な理由となるのだろう。

当たり前だが、人が死んだら悲しい。

そのような人間元来の道徳的な価値観に沿って生きることが間違っていると、自分に否定することはできない。

結局のところ、絶対的な意味で、死んではいけない理由も存在しないし、死ななくてはならない理由も存在しない。

つまりは、主観によるエゴの押し付け合いに落ち着くということだ。

ここで重要に思うのは、「人との繋がり」である。

孤独は極めて主観的に人を死に追いやる。極端な話、地球上で自分1人になってしまったら、その人は発狂して死んでしまうだろう。

かといって、ごく少数の繋がりであると、歪であったり、綱引き(エゴの押し付け合い)の力関係が悪い場合が多いように思う。

無理のない範囲で多くの人と繋がることによって、「バランス」を取ることが大切なのだ。

蜘蛛の巣のようなイメージが分かりやすいかもしれない。

リアルでの人間関係が嫌いという人は、インターネットでもいいだろう。自分もそのパターンだ。

結論として言えば

「死んではいけない理由はない。

けれども、個人的なエゴでアドバイスさせてもらうなら、『生きているのがつらい人』は、インターネットでも構わないので、人との繋がりを構築するべきなのである。

その為にも、『脱力的に漂流して生きる』や『自分の心境を文章に起こす』ことを勧めてみたい」

ということである。

(中島義道氏の本は色々読んだが、今回のテーマだと以上の2冊がおすすめだ。)

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