「自分の一日の三分の二を自己のために持っていない者は奴隷である」

「自分の一日の三分の二を自己のために持っていない者は奴隷である」

とニーチェが言ってた。

ニートじゃなくて、ニーチェである。

1日24時間。8時間労働とはいえ、働く為に「休憩している」「ストレス発散している」人々が多いことを考えると、現代人の殆どは、ニーチェの定義だと奴隷なのかもしれない。

前に「ニーチェ入門」的な本はいくつか読んだのだけど、ニーチェの生い立ちについては知らなかったのでWikipediaやネットの記事を色々読んでみた。

どうやら若い頃から才能の頭角を表しており、なんと24歳で大学教授になったそうだが、34歳の時に病気によって退職する。その後は大学の年金やパトロンの支援によって暮らしていたそうだ。(やっぱり、ニートじゃないか)

執筆に専念してからは多くの著作を残すが、なんと44歳の時に”発狂”してしまったらしい。

トリノの広場で、御者に鞭打たれる馬を守ろうとし、馬の首を抱き締めながら泣き崩れ、そのままおかしくなってしまったそうだ。

その後は意思疎通が不可能になり、55歳に肺炎で亡くなるまで、廃人として余生を過ごしたという。

ニーチェが発狂してしまった理由としては

① 哲学による狂気

② 脳梅毒の進行

③ 梅毒とは関係無い脳腫瘍

が考えられるそうだ。

最初の表題である、「自分の一日の〜」に戻る。

ニーチェはそう言うものの、自分の時間を多く持っているからと言って、「自由」であるとは限らないように思う。

なぜなら、我々は「肉体の奴隷」であり、「環境の奴隷」であるからだ。

生まれた時点で才能や美醜は決まっているし、人間である時点で、「食事をすると気持ちいい」「セックスをすると気持ちいい」などということが、既に決定されてしまっているのは、本当にくだらないことであると思う。

更に、生まれ持った環境によって、我々の行うことのできる可能性や、日常の取り組みは決定されてしまっているだろう。

そして、最終的に死ぬことは免れない。これを「奴隷」と言わずに、何と呼ぶのだろうか。

自分はいわゆる「将来性」や「キャリア」を放棄することによって、あまり働かないで済む生活を得ている訳であるが、幸せであるかと言われたら別にそんなことはない。

ネガティヴではないと思う。

むしろ、「生まれたからには人生を楽しまないと損である」という標語には同意するほどだ。

けれども、自身の紛れもない現実が、考えれば考えるほど、虚無と絶望を突き付けてくるのである。

ニーチェはニヒリズム(虚無主義)に対して超人思想、すなわち「例え全てが無意味だったとしても、一瞬一瞬を肯定して強く生きること」を掲げた。

ニーチェが言っていることも分からなくもない。

しかし、この無機質な現代社会で、微弱で継続的な快楽を求めて、ネットサーフィンに時間を費やすことを、「一瞬一瞬強く肯定できるか?」と言われたら難しい。

我々はただ、快楽と苦痛のアメとムチで、馬車馬のようにせかせかと生かされているだけである。

そんなことを思うと、ニーチェが馬に抱きついて泣き崩れてしまった気持ちも分からなくない。

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