宗教とかゲームとかのメモ

いつも僕のツイッターやブログを読んでくださっている方はご存じかもしれないが、僕は宗教的なもの・神秘的なものに対してリスペクトがある方だ。

その理由をひとえに言えば、哲学も科学も「なぜこの世界が存在しているか?」という根源的な問いに答えを与えてくれないからである。

僕はニートになってから、この「分からなさ」に取り憑かれてしまった。

社会のレールから転がり落ち、学歴・職業・家庭のような、これまで僕が「基準」として捉えていた価値観が剥がれ落ちると、この世界が一気に「分からなく」なってしまった。

これは決して安易なニヒリズムではない。

例えば、「この世界は全て無意味だ!頑張っても意味なんかないんだ!」という世間の価値観に対するカウンターとしての”無意味”を述べる人は、世界に対して「無意味」という意味付けを行っている。

そうした「マイナス」としての「無意味」ではなく――ただそこに不条理に在る――という「ニュートラル」な「無意味」として、この世界のラベリングが剥がれ落ちてしまったのだ。

このような「意味不明さ」が頭の底まで染みわたると、あらゆる存在・現象・思考について、メタ的な「?」が付くようになる。

例えば、現在僕はノートパソコンのモニターを眺めながら、キーボードをカタカタと入力しているが、冷静に考えてみれば「全く意味が分からない」としか申しようがない。

なぜこれが起こっているのか? そうする意味はなんなのか? そうでなくてもよかったはずではないか?

「パソコン」とは何か? そうした確固たる実体があるのか? 「パソコン」を「パソコン」と呼ぶ必然性などあるのか?

何を言っているのかよく分からない、という方のためにアプローチを少し変えてみよう。

例えば、あなたの目の前に火の玉が浮かんでいたとする(UMAでも貞子でもなんでもいいよ)。

これは間違いなくオカルトである。

現代の科学ではなにも解明できない、意味不明な、人知を超えた出来事だ。

そんなときあなたはどうするだろう?

「驚愕する」「ひざまずく」「怒る」「泣きわめく」「発狂する」……。

さまざまなパターンが考えられるだろうが、僕がこの世界に常に感じているのはそうした「驚き」と「畏怖」である。

逆に問いたい。なぜ、そんなに平然としていられるのだ?

目の前に現れては消える「これ」はなんなのだ?

神秘を体感するのに、特別な場所に行ったり、儀式を行ったりする必要はない。

今起こっている「これ」そのものが、神秘であり、僕の理解を超えた、超常的な現象なのである。

 

こういった内容を述べると「だったら何かしらの宗教を信仰すればいいじゃないか」という意見も聞こえてきそうだ。

それももっともで、おそらく「なぜ世界は存在するのか?」という問いに答え(らしきもの)を与えてくれるのは宗教だけであるだろう。

だが、僕には宗教が「なぜそうするのか」分からない。

なぜそうした戒律やルールがあるのか?

なぜ特定の神仏をそのような名前で呼ぶのか?

それが僕には分からない。

あと一歩、暗闇の中に足を踏み出せば、宗教者として生きることもできるのかもしれない。

こうしたちっぽけな「疑い」を捨てて、「個」から離れることこそが信仰なのかもしれない。

勘違いしないでほしいのは、むやみに「非科学的だ」とかいう批判を行いたいわけではないのだ。

むしろ祈りたい、祈りたいぐらいなのである。

だが、僕には祈りのかたちが分からない。

僕が宗教をやるとするならば、意味も分からずこの世界が「与えられている」ということのみが根拠になるだろう。

 

僕はゲームをしていると”安心”する。

ゲームが好きなのではない。”安心”するのである。

ただ無心でスマホのパズルゲームや麻雀アプリをやっていると非常に安心する。

この項目では、その背景についてちょっと語ってみたい。

今となっては左巻きな主張をしていることが多いが、元々僕は既存のルールや競争に盲目的に従い、そこで上位層に入り込むのを是としていたタイプである(というか、そういった教育方針が強かった)。

そうした幼少期からの刷り込みもあって、僕は現在のニート的な生活に、どこかで不安やストレスを感じていることが否めない。

つまり、一般的な人生(いい大学や会社に入って・お金を稼いで・家庭を築く)から脱落してしまったために、この世界で行うべき方針が何も見つからず、無為に引き裂かれそうになっているというわけだ。

そうした”人生ゲーム”の代わりに、僕に安堵を与えてくれるのが、パズルゲームやボードゲームといった仮初めの秩序なのである。

ゲームの中では、ひたすらにゲームをしていればいい。

ルールやそこから導き出される定石に従って、何も考えずにそれを実行していればいい。

勝ちや負けは大して重要ではないのだ。

ただ「それをしていれば正しい」という状況に、僕は強く安堵感を覚えてしまうのである。

とはいえ、こういったことを述べると、世間一般からは以下のような反応が返ってくるだろう。

「おいニート、ゲームで現実逃避をしているんじゃない! 現実に向き合え!」と。

それは認めよう。

僕はゲームで現実から逃避しているのだと。

だが、そういった”説教”をしてくる人のうち、いったい何人が「この世界」のことを分かっているのだろうか?

そういった人物が指す”現実”とは、”人生ゲーム”のことを指しているだけなのではないか?

申し訳ないが、それは例えるなら「格ゲーよりFPSの方がゲームとして優れている!」という個人的な主張をされているだけのようにしか思えないのだ。

(逆に考えれば、そういったニートへの攻撃性が強い人の根源には、”異教徒”への恐怖があるのかもしれない。

「オレらのやっている”人生ゲーム”を無視するな!否定するな!」……と)

僕に向けて「ゲームで現実逃避をやめろ」と物申す人は、同じシリアスさで「無意味な世界に向き合う恐怖」を実感している人だけにしてほしい。

そういう方のお説教であれば謹んでお受けいたします。

 

かき氷のシロップは色が違うだけで味はほとんど変わらないらしい。

僕が今から伝えたいのは、そういう類の悩みである。

この前、4月の頭に誕生日を迎えて29歳になった(1995年生まれ)。

まだ偉そうなことを言える年齢ではないのかもしれないが、この歳になると「快楽のパターン」がだいたい出尽くしてしまったな、と感じてしまう。

食べ物でも、エンタメでも、スケベでもなんでもいいのだが、「それ前にやった(見た)よね」という既視感がどうしても拭えないのだ。

マクドナルドも、ケンタッキーも、モスバーガーも、”色”が違うだけで、大して”味”が変わるようには思えないのである。

(こういうときに、僕は「快楽主義」で生きることの限界を感じてしまう)

しかし、かといって、そういった快楽への執着を完全に断ち切り、心穏やかな修行僧のような生活を行えるわけでもない。

向井秀徳が「繰り返される諸行は無常」「それでも蘇る性的衝動」という謎の決まり文句を繰り返しているが、まさにその通りなのである。

諸行無常、分かる。

諸法無我、分かる。

一切皆空、分かる。

頭では分かっている。

しかし、それでも生きている限りは、どうしても快楽への欲求が再び発生してしまうのだ。

祭りに来たのならば、くだらない子供だまし、色が違うシロップを氷にかけただけのぼったくり出店だと分かっていても、かき氷を食べたくなってしまうのである。

つらいのは、子供のように無垢に「快楽」を楽しめるのでもなく、くだらないと分かりつつも、気晴らしとして、鎮痛剤のように「快楽」を摂取してしまうことだ。

 

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