哲学と宗教

そろそろね、みなさんの言いたいことも分かるんですよ。

「こいつなんか最近うさんくせえな」と。

「初期のおもしろニートキャラから変わってしまった」と。

「哲学とか宗教とか、”そっち系”行っちゃったネ(^^;)」と。

だから、今回はそういう傾向について、ここで一度弁解をしておこうと思います。

 

■ 哲学について

そもそも、哲学的な問いについては、小さい頃からよく考えてしまうタイプだったんですよね。

「正しい生き方とはなんだろう」とか。

「死んだらどうなるのだろう」とか。

かっこよく言えば、物思いに耽やすいタイプだった。

ぶっちゃけて言えば、ネクラで陰キャだった(笑)。

でも、そういうのって、あくまで思考実験というか、ある種の”戯れ”でしかなかったんですね。

だから、基本的には、「テストでいい点とって、いい大学行って、いい企業に行く」みたいな、”世間教”の価値観の中で生きてきた。

そんな感じの10代を送っていたのでした。

 

ですが、大学4年のときに鬱になって、そのまま無内定卒業で、社会のレールからドロップアウト。

1年ぐらいずっとひきこもって寝込んでたんですけど、次第に本が読めるぐらいには回復してきて、この頃から哲学系の本に触れるようにになりました。

でも、ぶっちゃけこの頃は、そんなにシリアスな問題意識は無かったんですね。

むしろ、「世間のヤツらは何も考えずに働いているが、俺は真理を探究しているッ」みたいな、現実逃避性というか、痛さとスケベ心があった。

(今もそうではないとは言い切れないんですけどね)

まあ、そんな感じで、ニートの暇つぶし感覚で、哲学・宗教・思想系の本をしばらくは読んでいたのでした。

 

そうだったんですけど、そんな生活もしばらく続けていると、問いが自分を追い越してしまうような、劇的な経験があるんですよね。

なんて言えばいいのだろう、机上の問題から、実感の問題に変わってしまったとでも言えばいいのか。

「この世界はなんなのだろう?」という問いが、「この世界はなんなのだろう?」という実感に変わってしまったんです。

たぶん何を言ってるのかよく分からないって人が殆どかもしれないんですけど、この世界が存在していることは、僕にとってかなりの恐怖・不安なんですよね。

うーん。なんだろう、別のアプローチから考えてみれば、「死」が怖いって人はそれなりにいると思うんですよ。

死に至る過程の痛み……もそうなんですけど、死後の未知さとか、永遠の無とか、そもそも、自分が消えるのだから「死」を感じることすらできないとか。

そういう死恐怖症(タナトフォビア)の人はそれなりにいると思うんですね。

でも、そう考えると、「生」自体も「死」と同じぐらい、意味不明で理不尽っていうか、ヤバさのレベルで言うと同じぐらいじゃないですか?

|死のヤバさ|=|生のヤバさ|、みたいな(笑)。

なんかすごいアホっぽい説明になっちゃったけど、伝わるかな。

 

そういうわけでですね、現在、僕が哲学系の本を読んでいるのには、ある種の切実さがあるんです。

例えるなら、腰痛で苦しんでいる人は、『腰痛研究』の本を真剣に読むよね、っていう。

そんな風に、自分も”症状”をなんとかしてくれるものを探して、図書館の棚を眺めているわけですね。

 

■ 宗教について

なぜ宗教を学ぶのか?

この問いに対しては、個人的に2つの回答があります。

 

まず、1つ目に、ニート的に宗教は重要で、学ぶべきところが多くある、ということ。

なんでニートと宗教が繋がってるねん、と思う人が多いと思うので解説します。

結局、人類の歴史って「陽」と「陰」が並走して進んできたと思うんですよね。

「陽」っていうのは、イメージ通りイケイケな価値観のこと。

国家や子孫の繫栄、富や享楽の追求みたいな。

人間はそういう欲望に従うことで、文明を進化させてきたと。

ただ、その一方で、それと対を成して、世の中のバランスを保ってきた「陰」も存在してきたはずなんです。

それが多くの場合、「欲に節度を持とう」「弱者を思い遣ろう」「世俗と別のところに絶対性を置こう」という宗教だったように思うんですね。

このように考えると、現代において、ニートの役割は間違いなく「陰」側なんですよ。

資本主義・新自由主義の「陽」は「とにかくたくさん働いてカネを稼ごう」「自己責任でどんどん競争してください」じゃないですか。

そういう世の中の価値観に、「いや、くだらね~」「そんなのやってらんないよ」とNOを突き付けているのが、ニートたちになるんですね。

だから、そういうわけで、「陰」の先輩方である宗教からは、生き方や人生のスタンスについて、大いに学ぶべきところがある。

僕はそのように考えています。

 

2つ目は個人的な回答になってしまうのですが、哲学の項目で語ったような、「自分の存在」の不安をどうにかしてくれるものはないか、という探求心です。

現に、僕は世俗の価値観に従うことができずに、ふわふわと生きているわけですが、これは予想以上につらい。

一般的な価値観を”世間教”なんて揶揄してみても、実際問題”世間教”はそれなりに心の支えになっていたことも事実だったんですね。

そういうわけで、僕は自分の存在を保証してくれる価値観、かっこよく言えば実存的な問題をどうにかしてくれる思想を求めている。

とはいえ、逆に言えば、”それだけ”なんです。

だから、お金を払えば人生がうまくいくとか、運勢が良くなるとか、そういった類の物事には一切興味がない。

(神仏を信仰することで自信が生まれ、結果的に”うまくいく”ことはありえるかもしれないが)

基本的に、僕はニヒリストなんですよ。

世の中に、絶対的な価値観なんてない。意味や根拠もなく、人間は存在していると。

ただ、「死ぬまでそういう態度を維持することが正しいのか?」ということについては疑問がある。

この世界が根源的になんなのかは分からない。

でも、生まれてきたからには「何か」に賭けてみてもいいのかもしれない。

達観した人間ぶって、死ぬまで何にも参加しないことが正解だとはあまり思えない。

そういうわけで、今のところは無宗教なんですが、もしかしたらどこかの宗教に帰依することもあるのかもしれない、というわけです。

 

そ~んな感じで、別に怪しい人間ではない、ということは理解してもらえたでしょうか。

むしろ、ニートに哲学と宗教は必修科目なので、図書館の哲学と宗教の棚を反復横跳びしてください。

「入門」「分かりやすい」系の本もいっぱいあるしね。

(おわり)

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