人間は善なのか悪なのか?そして滅びた方がいいのか?

今日はタイトルのようなことを考えていた。

「そーいう妄想は中学生までにしとけっ」という声が聞こえて来る気がしなくもないが、暇人なので勘弁してほしい。

「厨二病」って罪な言葉だよな、と思う。

そりゃ、思春期特有の恥ずかしい行いも含まれているかもしれないけれど、生涯に渡って問い続けてもいい”人生の課題”さえも、「恥ずかしいこと」として黒く塗りつぶされてしまうのだから。

偏差値の良い学校を目指すとか、部活動に打ち込むとか、そういったことを常に考えているのが健全ですよ、といった社会の兵隊化の圧力が心地悪かったのを未だに覚えている。

自分は反抗期がほとんど存在しないような真面目クンだったので、20代にして、”ぐれ期”が来たのかもしれない。

10代で不良になるのと、20代でニートになるの、どっちが親泣かせなのだろうか。

逆に言えば、10代からヤンキーになるということ(または、ヤンキーカルチャーに触れるということ)は自主性があり、自己表現というガス抜きが上手いということなのだから、なんだかんだ一部を除き、マイルドヤンキーと呼ばれる人々は社会と上手く付き合っていると思う。(むしろ、世の中を一番上手く生きているかもしれない)

自分のような、不器用で内向的なタイプの方が、学校では優等生でも、後々に「こじらす」のだろう。

「うちの息子/娘ちゃんは反抗期が無くて素晴らしいわ!」

と考えている全国の教育ママは、子供がニートになる日を想像して震えて欲しいものである。

(そもそも、反抗期という時期に適切なリアクションが起こらないということは、見えないけれど、彼/彼女の中で良くないものが育まれている、と少し考えてみれば分かることだろう)

個人的な愚痴が長くなってしまった。

まず、「人間は善なのか?悪なのか?」という問題に触れる。

性善説や性悪説があるが(ここではシンプルに文字通りのものとする)、自分の結論から言ってしまえば、人間は中立だと思う。

人間は善くも悪くもないけれど、「人を善くする環境」や「人を悪くする環境」が存在するだけなのだ。

例えば、性善説を支持するものとして、「どんな悪人でも、赤子が井戸に落ちそうになっていたら助けるだろう」というものがある。

これには同意できるし、自分でもそうするだろうが、こんな場合はどうだろう。

「目の前で赤子が井戸に落ちそうになっているが、赤子を助けたら、お前に『この世で最も残酷な拷問』を課した上で殺す」

見知らぬ赤子の為に凌遅刑を受けて死ねるか?と問われたら難しい。

非情だと言われるかもしれないが、少なくとも自分には無理である。

結局のところ、人の行動は環境や条件によるのだ。

とはいえ、「人間は中立である」と言えど、生きる為や人間という種を残す為に培われた本能、すなわち「赤子などの弱者を守る」「他者との集団活動を大切にする」などを「善いこと」だと考えるのならば、人間は善寄りなのかもしれない。

(そこから他グループに対する、掠奪や争いが発生するのだから、皮肉なものであるが)

また、生まれ付き気性が荒い人間、つまり生まれた時から「悪寄り」の人種も存在するのかもしれないが、それだって環境が悪いと言ってもいい。

「そうでないと生き残れない環境」であったから、そのような人々が誕生してしまったのだ。

これは「赤子を守る」などの善性に対しても言えることだろう。

繰り返すが、「そうでないと生き残れない環境」によって、どんな人間も本能(遺伝子レベル)と性格(個人レベル)共に、善/悪が方向付けられてしまうのである。

つまり、自分が何を言いたいかというと、「人間の善/悪は環境によって決まるのだから、『善い環境』を作っていこう」ということだ。

そう意味では、現代日本はよくやっていると思う。

健全な社会とは言えないかもしれないけれど、理不尽に人の命が奪われたり、大飢饉や自然災害で苦しんで死ぬ人は、過去に比べたら物凄く少ないからだ。

歴史を学ぶと、どれだけの人が無慈悲に苦しんで死んだのだろう、と思いを馳せることがある。

こんなことをほとんど働いていない人が言うと、噴飯物かもしれないが、我々は『より善い社会』を作り上げていくべきであるのだ。

ここで急に新たなテーマをぶっ込むが、前後の理由からして、自分は「人間は生まれない方がいい。又は、繁殖しない方がいい」と考える反出生主義には、現実的な理由から賛同できない。

例えば、「全生物が苦しみを感じず安らかに死んだ後に、宇宙が消滅するスイッチ」があるのなら自分は間違いなく押すだろう。

けれども、現実にはそんなものは存在しないし、「未来に発生する全人類の苦痛」を考慮して、現代に生きる人々を犠牲に、全世界に核ミサイルをばら撒くのも、現実的ではない。

もし、反出生が推進されたのなら、人類は緩やかに滅亡に向かうことになるが、そうすれば国や治安、インフラなどは崩壊し、苦痛の全盛期と言ってもいい、原始時代や中世時代に戻る、もしくは世紀末のような時代になってしまうだろう。

自分だって、「生まれたことはめんどくさい」と思う。けれども、人類が誕生してしまったということは、止まらない列車のようなものであり、限界を迎えるその日まで、『より善い社会』を作ることが、我々にできるベストなのではないだろうか。

反出生を掲げるのならば、人口減少と未来における平和や幸福の維持を両立させる方法が議論に上がっても良いと思うのだが、自分が見ている限りは「己の苦痛」のみにフォーカスされすぎているような意見ばかりであり、そこにも辟易としてしまう。

例えば、社会の管理をどんどんロボットに任せるなどどうだろうか。食料問題・治安維持・国防などをロボットに任せ、人間は存在しているだけでいい状態にしていく。

そんな退屈な社会、どんどん人が減っていきそうであるし、人類による反出生的な約束を結んでおいてもいい。(いや、むしろ肉体的な娯楽と反発を求めてセックスが盛んになるのだろうか?)

とにかく、その管理された社会で、平和なまま人間が滅亡すれば、あとはロボットのシステムに限界が来て、勝手に崩壊してくれるだろう。

…と、こんなものは妄想であるが、『より善い社会』を作るのが自分にできること、というのはあながち間違っていないだろう。

ここで言う社会とは、マイノリティだったり、マニアックだったり、小さなものでもいいと考えている。

例えば、インターネットで「働きたくない」「だるい」と言って集まることでもいいし、将来的にはリアルでそういうコミュニティを立ち上げてもいい。

社会不適合者とかフリーライダーの増加だとか言われるかもしれないが、それは我々がインターネットをいつも見ているから勘違いしているだけであって、世の中の多くの人は「働いて贅沢したい」や「結婚して子供が欲しい」と考えているはずであり、我々が少し働かなかったところで、社会に大きな影響を与えるものではないように思う。

むしろ、将来性や多様性を考慮した上で、資本主義の労働の価値観が限界を迎えることを考えると、我々のような「働きたくない人」が顕れることは「悪くないこと」なのではないだろうか。

働かないという社会貢献、それが今の自分にできることなのである。

(ここまで長々と書いたが、つまりは自分が「働きたくないこと」を正当化したいだけの文章であった)

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