出来川さんが紹介していたページが面白い。
theディープなテキストサイトというか。
90年代後半にも、こうやってインターネット上で社会不適合者(のような人)たちが、「生と死」とか「自死」とか、そういう問題について語り合っていたと思うと、何か感慨深いものがある。
意見を投稿していた人々や、この文章を書いていた人は今も生きているのだろうか?
なんだかんだサラリーマンや主婦になって生きているような気もするし、あっさりとどこかで死んでしまったような気もする。
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さて、紹介したページでも書かれていたことであるのだが、社会(的な価値観)からドロップアウトすることは、「生そのものへの疑問」、ひいては「全宇宙の問題」と表現されるような絶対的な問題に直面する、というある種の恐ろしさを孕んでいる。
我々が毎日の生計を立てることに、ただただ追われているという、この現実の無気力な生活の中でほんのかすかに抱く、漠然とした『生への疑問』、そして真夜中の、孤独の静寂の中で感じる『漠然とした空しさ』。
これら、ごく当たり前の不安から、ほんの、たったの2、3歩のところに、『全宇宙の問題』が横たわっているものなのだよ。
だから、存在の根底疑問に向かう事は、なんら哲学的な疑問でもなく、異常な問題でもない。それは、いつでも我々の『すぐ横』にいるのだ。それは遠い宇宙の果てにあるわけではない。
究極の問いへの発端となる引き金は、神学や経典の中ではなく、まさに日常の中にこそ見い出される。ニーチェが言ったように、『重大問題は常に路上にある』のである。
「自殺と殺人について考える空間」より
さて、リストラや倒産にあい、呆然とするサラリーマンが、ここにいたとしよう。彼には、特に借金もなく、また扶養すべき家族もいないとしよう。だが、彼の心にはこんな疑問が起きても不思議ではない。
「一体、私は今まで何のために生きてきたのか?。そしてこれから何の為に生きるのだろう?」
「自殺と殺人について考える空間」より
いとも簡単に、自由に自分の死を選択でき、しかも自殺が社会的にも、簡単に実行可能な環境こそが、一人の人間の中に、本当の知性による根本疑問を浮上させる。
「自殺と殺人について考える空間」より
つまり、自分が何を言いたいかと言うと、なるべく働かないで生きていくような、ニート・フリーター・寝そべり族のような生き方も、決して楽ではない。
むしろ、「普通」に生きるより、茨の道かもしれない、ということである。
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寝そべり族に必要なのは、バランス感覚であると思う。
なぜバランスなのか?
そもそも、何によって「バランスを崩されるのか?」
まず、第一に社会的な価値観だ。
「僕/私はマイペースにのんびり生きていくぞ!」と決めた所で、小さい頃から染み付いた「普通」という社会的な価値観を断ち切るのは難しい。
「普通の人は正社員で働いてるのに」
「普通の人は家庭を築いているのに」
「普通の人は子供を作っているのに」
こういった価値観には、必ず囚われてしまうものである。
「自分はそんなことない!」と言う人もいるかもしれないが、それは一種の自己欺瞞であるようにも思えてしまう。
第二に、自意識の肥大化である。
例えば、
「働いているヤツはバカ」
「サラリーマンは負け組」
「自分は自由人で正しい生き方をしている」
「哲学的なことを考え、社会の常識に染まらない自分は知的で賢い」
…など、”拗らせて”しまうというヤツだ。
こういった人々が真に幸福であるのか?
少なくとも、自分にとって「正しい」とは思えない。
そして、第三に生死や虚無による問題である。
社会的な価値観や一般的な成功から降りるということは、先程述べたような「漠然とした大宇宙の問題」と直面するということだ。
「生きている意味はなんなのか?」
「突き詰めれば人生に意味なんて無いんじゃないのか?」
「なぜこの宇宙は存在するのか?」
こういった絶対的な問題に飲み込まれ、結果的に死を選択することになった人々も、少なく無いように個人的には思う。
この国では、1時間に3人が自殺をしているそうだ。
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つまり、まとめると、ニートや寝そべり族として生きていくということは、①社会的な価値観、②肥大化する自意識、③哲学的な問題、とせめぎ合いながら、綱渡りのように生きていくことが求められるということである。
これならば、「家庭を築いて一軒家を建てる」や「年収〇〇〇万円になる」といった社会的な価値観やゴールに沿って生きた方が、ある意味では楽だと言える。
以前、こんなツイートをしたが、「ニートの難しさ」を説明した今、「なぜ向いているのか?」ということも伝わりやすいかもしれない。