老荘思想の実践とは?

この本を読んだら、自分の中で腑に落ちるものがあったのでここにまとめておく。

まず、東洋哲学(仏教哲学や老荘思想)が伝えようとしている事とはなんだろう。

ものすごくザックリ言ってしまえば

「あらゆるものに実体は無い(世界には境界など無い)のに、私たち人間が五感や思考で世界を区切り、言葉によって分別をしてしまうから、苦しんだりするんだよ」

ということである。

例えば、一番有名なお経、般若心経ではとにかく「無い!無い!」と言いまくっている。

「感覚など無い!意識など無い!世界など無い!

仏教の教え(四諦)も無い!『私』さえ無い!」

というような内容だ。(ハードコアすぎる)

仏教と言えば、「戒律を守って正しい人間になろう!」というイメージがあるかもしれないが、それは本質ではない。

「正しい行いや、正しい思考をしよう」というのは、あくまで方法に過ぎないのだ。

例えるなら、何かのスポーツでインターハイ優勝を目指している学生がいたとしよう。

その学生が本気で優勝を目指すなら、日常的に「正しい行い」をしなければならないのは当たり前である。

早起きをして朝練をして、部活に支障が出ないように授業にもしっかり取り組み、栄養バランスに優れた食事を摂取し、ベストな練習を終えた後に、しっかりと眠る…。

こんな生活を怠りなく過ごさなくてはならない。

とはいえ、この学生にとって目標とはあくまで「優勝」であり、日常的に正しい行いをすることではないはずだ。

話を戻してみれば、正しい行いをすることによって、仏教も「優勝」を目指しているだけである。

では、仏教における「優勝」とは何か。

それは、悟りであり、無我、梵我一如(世界=私)、もしくは言葉では表現できない境地に至ることを指すのである。

考えてみれば当然かもしれないが、「仏教の教えや悟りすら無い!私すら無い!」といったハイレベルな戦いを目指しているのに、地方予選レベルの俗世的煩悩に囚われているようでは話にならない。

日常的に戒律を守るというのは、本質ではないが、悟りを目指す者にとっては基礎中の基礎なのだ。

だがしかし、優勝を目指す方法はただひたすらにストイックな生活を送ることだけなのだろうか。

例えば、世の中には「何もせずに遊んでばかりいるのにめちゃくちゃ運動神経が良くて上手いヤツ」とか、「のびのびとやって優勝を目指すヤツ」がいてもおかしくはないはずだ。

(現実でどうなのかは知らないが、マンガ的なフィクションでそれらを見かけることは少なくない)

仏教の教えを実践するのが「剛」だとしたら、天才型やのびのびとやって優勝を目指そうというのは「柔」のアプローチであり、それは老荘思想に分類されるのではないかと思う。

老荘思想とは、老子と荘子の思想のことである。

老子は紀元前500年頃の人物だ。実在はせず、複数の文章をまとめたものが『老子』と呼ばれているのではないか、という説もある。

一方、荘子は紀元前300年頃の人物である。老子の哲学を受け継ぎ、寓話を用いてその思想を展開させた。

老子が言っているのは、ザックリと以下のようなことである。

「混沌とした何かが、この世界が生み出された前に存在していた。でも、それには名前がない。

というか、名前を付けてしまったら、それは世界が生まれた状態になってしまうんだよね。

もし、仮にそれ(混沌)に名前を付けるのだとしたら、『道』(タオ)とでも呼ぼうか」

→ 道 = 混沌とした何か = 名前がないもの = 「私」(の五感・思考・言葉)によって世界が分別されていない状態(←これ最高)

この思想は仏教哲学にとても類似している。古代中国では「釈迦=老子」とする学説まで生まれたらしい。

では、無我の境地、すなわち、道(タオ)と一体化した境地に至ると人はどうなるのか。

それは、「無為自然」である。

無為とは「何もしない」という意味だが、決して廃人のようになってしまう訳ではない。

無為自然においては、全てが在るがままに行われる。

物事の起こりに身を任せ、水のように柔らかく、しなやかさを持ち合わせた存在に至るという。(上善如水)

なんだか言っていることはカッコイイ。

自分も道(タオ)とひとつになった無為自然ニートになりたい。

けれども、老子の思想を具体的に実践する為には一体どうしたらいいのだろう。

そんな所が引っかかっていたのだが、それに関しては荘子がヒントを与えてくれたような気がする。

釈迦や老子には、聖人や仙人に例えられるような、どこか人間離れしたような印象を受ける。

だが、荘子はそうではない。人間らしさを持ち合わせた、気ままな自由人だ。

例えば、「舐痔得車(じじとくしゃ)」という四字熟語がある。

これは「卑しいことをしてまで利益を得る」という意味だが、『荘子』のあるエピソードが由来となっている。

宋国に曹商という人物がいた。彼は、宋王の命令で、秦国へ使者として向かった。

秦王は彼をもてなして、100台の車(馬車)を与えた。

そして、宋国に戻った曹商は荘子に会ってこう言った。

「せまくてごみごみとした下町に住んで、わらじを作り続けるようなビンボー生活はオレには向いてないんだよね(笑)

やっぱり、オレは王様と接待して、100台の車を貰うような仕事が得意なワケ(笑)」

これを聞いた荘子はこういった。

「ふーん。でも、聞いた噂によると、秦王って病気の腫物を破って膿を出したヤツには車を1台与えて、痔を舐めて直したヤツには5台の車を与えるらしいね。

(事実かどうかは別として、そのような態度の人物であったということだろう)

曹商くんは随分車を貰ったようだけど、たくさん王様のケツを舐めたんだろうな(笑)。汚いからさっさと帰ってくれ」

『荘子』 列禦寇編 より意訳

とてもじゃないが、聖人とは思えないような物言いである。

他に、こんなエピソードはどうだろう。

楚の威王が荘子の賢才を聞いて、立派な礼物を持たせた使者を送り、宰相(大臣)として迎えようとした。

しかし、その話を聞いた荘子は笑いながらこう言った。

「千金は大金だし、大臣は立派な地位かもしれないね。

でも、君は儀式の生贄に使われる牛を見たことは無いのかい?

あの牛は、数年間、大切に養われた後に、豪華な衣装を着せられて、先祖の墓に並べられるだけじゃないか。

私は孤独で居たいんだ。帰ってくれ。

汚いドブの中で気持ちよく泳いでいたいんだよ。

国を所有するものに繋がれているのはごめんだね。

死ぬまで何かに仕えることは無い。自由に生きるのが私の志さ」

司馬遷史記』より意訳

…というように、皮肉屋な自由人であったことが分かる。

これでなんとなく荘子の人物像は掴んで貰えたのではないだろうか。

(以前に、『方丈記』を読んだ時にも思ったが、やはり人間臭い人物の方が自分にとっては参考になるものだ)

老子の思想は言葉で真理を語れるものではない。

なぜなら、言葉によって表現(区別)してしまったのなら、それは道(タオ)では無くなるのだから。

しかし、あえて荘子はそのエッセンスを物語や寓話を用いて表現している。

『胡蝶の夢』は老荘を知らない人でも聞いたことがあるのではないだろうか。

昔、荘子は夢の中で、蝶になってひらひらと舞っていた。

心の赴くままに蝶であることを楽しみ、自分が荘子であることを忘れていた。

突然、目が覚めると、我に返って、自分は間違いなく荘子であった。

(しかし)、荘子が夢の中で蝶になったのか、蝶が夢の中で荘子になったのかは分からない。

荘子と蝶には確かに区別がある。これを物化(ぶっか)という。

『荘子』斉物論編より

単純にこの話を読めば、ファンタジーなおっさんにしか思えないが、東洋哲学や道(タオ)の思想を踏まえてみれば、より深く読み解けるのではないだろうか。

最後の「荘子と蝶には確かに区別がある。これを物化(ぶっか)という」が少し難しい。

これは専門家の間でも議論されていることである。

物化とは、万物の変化のこと。ここから自分なりに解釈してみるのなら

「荘子と蝶の区別はある。けれども、それは僕ら(人間)が区別しているだけすぎない。

本来、万物の根源である道(タオ)が姿を変えて顕れているだけだ」

といったところだろうか。

他に紹介したいのは荘子と恵子(けいし)の問答である。

恵子は魏国の役人であり、思想家だった人物だ。

自由人の荘子と対比するように、ロジカルな堅物であり、2人は親友かつ好敵手であったという。

この凸凹コンビがなかなか面白い。

以下は『無用の用(樗櫟散木)』である。

恵子が荘子にこういった。

「私の家の庭には、大きな木があるんだが、その木はデコボコして曲がりくねっていて、何にも使えないんだ。

仮に大工が道を通ったとしても見向きもしないだろうね。

荘子は大げさでファンタジーなことを言っているようだけど、それって何の役にも立たないじゃないか」

そして、荘子はこう答えた。

「恵子はイタチを見たことはあるかい?

彼らは俊敏に動き回る能力を持っているけれど、それ故に罠にかかって死んでしまうこともある。

一方、大きな牛はボーっとしているだけだけど、そのようなことはない。

君は大きな木が役に立たないことを心配しているようだけど、その木の根元で昼寝でもすればいいじゃないか。

無用だからこそ、その木は斧で切られたり、傷つけられることはない。

役に立たないからといって、何を心配することがあるんだい」

『荘子』逍遥遊編より意訳

無用だからこそ、使えないからこそ、安心がある。と荘子は言っている。

例えば、その木も、大工に使いやすい木、有用な木だったのなら、切られて利用されてしまっていたはずである。

現世的な価値観を離れて大きく見てみる。そうすれば、無用であることが有用であったりするのだ。

これも道の実践である。

この『無用の用』は色々なシリーズがあるのだが、他ではこんなことも言っている。

「役に立つ木というのは、実がなればもぎ取られてしまい、枝を折られてしまう。

人間も能力を持っているが故に、かえって自分の人生を苦しめていることがある」

これは古代中国における役人の事情を揶揄しているのかもしれないが、現代においても充分に通じる理屈である。

有能であるが故に、周囲から期待され、多くのタスクをこなし、プライドに左右されて、気苦労の多い人生を送ることになる。

昨日ちょうどこんな記事を読んだが、必ずしも優れた能力を持つ事が幸せとは限らないのではないか、と考えてしまうものだ。

推定IQ250~300。世界で最も優れた頭脳を持った男性の悲しい物語 – カラパイア

荘子と恵子では、他にこんなエピソードがある。

荘子の妻の死に関する話だ。

荘子の妻が死んだため、恵子は弔問に向かった。

そうすると、荘子は両足を投げ出して座りながら、瓶を叩きながら歌っているではないか。

恵子はこう問い詰める。

「君は何をしてるんだ。

夫婦として共に暮らし、子供を育てて老年になった相手が死んだんだぞ。

それで泣きもしないのは不人情だが、更に瓶を叩きながら歌うなんて、君はひどいやつだ」

しかし、荘子はこう答えた。

「そうではないさ。

私だって、妻が死んだ直後は悲しかったよ。泣かずにはいられなかった。

ただ、人の始まりを考えてみれば、元々生命なんてなかったんだよ。

混沌と朧で捉えようのなかったものが、やがて気になり、形になり、生命になった。

そして、また元の状態に還っていくだけなのさ。

人が大きな天地の中で安らかに眠ろうとしているのに、私が大声を張り上げて泣くのは、道理に逆らうことだろう?

だから、私は泣くことをやめて歌を歌ったんだ。」

『荘子』至楽編より意訳

千の風になって理論を唱える荘子。

「妻が死んだ直後は悲しくて、泣かずにはいられなかった」、というのがいい。

仙人に至ったのではなく、あくまで人間の範疇で、道を実践している。

このような人間臭さにやはり魅力を感じてしまう。

荘子と恵子の問答の紹介はこのぐらいにしておく。

恵子が亡くなった時も、荘子は「議論できる相手がこの世に一人もいなくなってしまった」と悲しんだという。(けっこうすぐ泣くね)

なんとなく、道(タオ)やそれにまつわる解釈は分かってきた。

しかし、「老荘思想を実践する」とは、具体的にどういうことなのだろう?

個人的に、以下の2つのエピソードが参考になるように思った。

荘子はこのように言う。

「自分の性(もちまえ)を修めれば、徳に立ち返る。

徳を全うすれば、初めの無に同化する。

同化すれば、空虚になる。

空虚になれば、それは無限大にも等しい」(『荘子』天地編より)

ここで、「自分の性(もちまえ)」とは何なのか。達生編にこんな話がある。

孔子と弟子が旅をしていると、非常に大きな激しい滝(川)の中に男がいた。(『荘子』において孔子は寓話のキャラクターとして度々に登場する)

男が自殺をしようとしているのではないかと思い、弟子が近くに向かったところ、男は下流から楽々と出てきて、濡れた髪をかき上げ、歌を歌い始めたではないか。

孔子は男に近づくと、こう尋ねた。

「鬼かと思ったら人間じゃないか。

ちょっと聞いてみたいのだが、こんな激流の中を泳ぐのに、何かコツはあるのかね?」

「いや、別に秘訣などないですよ。

私はただ、『故』から始めて、『性』のまま成長し、『命』に従っているだけなのです。

渦巻きに身を任せ、湧き水と共に浮かび上がる。

道(水の法則)に従って、自分の心を差し込まないのです。

これが私が泳げる所以です」

孔子は言った。

「『故』から始めて、『性』のまま成長し、『命』に従う、とはどういうことだい?」

「私はこの山で生まれました。この山に住んでいるのが、落ち着きます。これが『故』です。

水と共に成長して、水に慣れ親しんでいる。これが『性』です。

また、なぜそうであるのか分からぬままに泳いでいる。これが『命』です」

『荘子』達生編より意訳

水泳の達人によれば、

「性(もちまえ)とは、先天的な才能に限らず、後天的(生まれ育った環境)によって、獲得したものでもよい」

「道(タオ)に従うとは、無意識の領域、いわゆるフロー状態に突入すること」

ということなのではないだろうか。

次のエピソードは料理人の話である。

魏の恵王のもとに、庖丁(ほうてい)という料理人がいた。

牛を解体してみせる庖丁の刀捌きは、まるで音楽のようにリズミカルなもので、芸術を思わせるようだった。

恵王はこう言う。

「ああ、素晴らしい。技術もここまでになるとは」

庖丁は以下のように語る。

「いえ、私が求めているのは技ではなく、道なのです。

牛の解体を始めたばかりの頃は、目に映るのは牛の全体ばかりで、どこから手を付ければよいのか見当もつきませんでした。

しかし、三年も経つと、牛の全身は目に入らなくなりました。

今では、私は心で牛を見て、目で見ることはしません。

感覚による知覚は止まり、精神だけが働きます。

牛の体に備わった、自然のすじ目に沿って切り進み、肉と骨の隙間に入り込み、牛の肉体の必然に従って進みます。

もはや、牛刀が骨や腱にぶつかることはありません。

(中略)

やがて解体を終えると、バサリと肉は落ち、あたかも土が大地に落ちるように崩れ落ちます。

私はしばらく刀を手にして立ち尽くし、辺りを見回し、達成感に浸った後、血をぬぐって刀を収めるのです」

恵王は言う。

「なんと善きかな。庖丁の言葉によって、生きる上での道を会得した」

『荘子』養生主編より意訳

このエピソードでも「無意識」による道(タオ)との同一化が描かれている。

達人の動きはすべて無意識に行われるというが、それが1つの無為自然の完成形のなのだろう。

現代的に解釈するなら、道(タオ)とひとつになるとは、「フロー」・「ゾーン」・「トランス」などで表される状態に没入することである。

言葉で「これをああして、あれをこうして……」など考えるのではなく、全てが在るがままに動く境地のことだ。

これを専門分野だけでなく、四六時中行っているのが、究極の無為自然であるのかもしれない。

水泳や牛捌きによる、「部分的な無為自然」を取っ掛かりに、「究極の無為自然」を目指すというアプローチも考えられるだろう。

そして、そのフロー状態に突入する為には、ひたすらな反復作業が必要である。

現代ならば、芸術やスポーツなど様々な分野が挙げられるかもしれないが、「自分の性(もちまえ)である」と思えるようなものを磨くのがよいのかもしれない。

これが、個人的に考える、老荘思想の実践だ。

 

(おまけ)

東洋哲学入門を学ぶなら以下の本がオススメ。

飲茶氏の本。西洋編が有名だが、東洋編もマストである。

個人的にはこちらの方が何回も読んでしまう。

解説も初めのインド哲学から順を追っており、ユニークかつ非常に分かりやすい。

 

魚川祐司(ニー仏)氏の本。「ニートになれ。世界を終わらせろ。」という”ヤバイ”キャッチコピーが付いている。

初期仏教について解説した本で、対談形式であり、とても読みやすい。

「仏教をやると善い人になれる」といった世間的なイメージに切り込み、”仏教のヤバさ”についてきちんと触れていく1冊。

 

老荘思想については以下の2冊だろうか。

「NHK」はオススメだが、「よくわかる」は文法的な解説も多いので、読むのが少し疲れるかもしれない。

 

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