ニートが語るニーチェ

■ ニートとニーチェ

ーー今日は哲学者ニーチェについて、ニートのゆるふわさんにお聞きしたいと思います。よろしくお願いします。

はい。よろしくお願いします。ニートの視点からニーチェを語っていきたいと思います。

ーーなんだか出オチなような気もしますが、駄洒落以外にニートとニーチェの繋がりはあるのでしょうか。

そうですね。ニーチェは24歳にして大学教授になるほどの天才だったのですが、34歳の時、持病の悪化で大学を退職してしまうんです。

その後、彼は大学の退職年金で生活をしつつ、思想家・哲学者として執筆活動を行うのですが、当時、これらの本は殆ど評価されなかったんですね。

物書きとして食っていた訳ではなく、むしろ出版代などを考えると、利益はわずかだったり、マイナスだったりしたのではないかと。

そういう意味では、後期のニーチェはニートでした。どちらかと言えば、リタイア生活者の方が適切な表現かもしれませんが。

ーーニーチェもニートみたいだった時期があるんですね。

ええ。かといって、ニーチェが現代のニートのように自堕落で無気力な態度だったかと言えば、それは全然違います。

むしろ、その逆で、ニーチェの思想はパワフルで力強いような印象を持つものなんです。

ーーそれでは、ニートとニーチェの相性はあまり良くないということでしょうか。

いや、そう断言できるものでもありません。

僕もニーチェの思想を実践してるとは言えないですが、その考え方には大きな影響を受けました。

ニートなら、いや、現代に生きる人なら、一度は学んでみてほしい哲学だと、僕は考えています。

ーーなるほど。それでは、ニーチェについて紹介して頂きたいと思います!

 

■ 実存主義とは

まず、ニーチェの哲学は「実存主義」という思想的な立場に分類されます。

19世紀のヨーロッパで始まって、キルケゴールやニーチェ、20世紀ではハイデガーやサルトルが有名ですね。

ーージツゾン……、聞いたことはありますが、なんだか哲学的で難しそうな言葉です。

そう思われるかもしれないですが、実存とは「現実の存在」を略しただけなんです。

つまり、大雑把に言ってしまえば、現実の存在(自分の存在)を基本に考える哲学。

そう考えてもらえれば、理解しやすいのではないでしょうか。

ーーおお、それならなんとなく分かりそうです。

この実存主義が何故流行ったかと言えば、当時のヨーロッパの社会背景があります。

19世紀、これまでのキリスト教の権威は薄れ、科学や産業が発展し、資本主義の時代になりました。

物質的には豊かな時代になったとはいえ、人々は画一化されていき、社会による管理によって、主体性を失ってしまったんですね。

そこで、実存主義の哲学者たちは、「今、現実の自分の存在を起点にして、主体的な本当の生き方を取り戻そう!」と考えたんです。

ーーなるほど、現代にも当てはまるような概説ですね。

その通りですね。そういう意味でも、実存主義の哲学はとっつきやすく、当事者意識を持って取り組めるものだと思います。

 

■ 人間の生きる意味

まずは初めに簡単な哲学をしてみましょう。

古代から議論されてきた、ザ・哲学なテーマです。

「人間の生きる意味」とはなんだと思いますか?

ーーうーん、私の場合は楽しい体験をしたり、幸せになる為に生きてる、って感じでしょうか。

よく分かります。現代の人々の多くは似たような考えなのではないでしょうか。

ですが、大昔の人々、それこそ原始時代や狩りをしていた時代の人々は「生きることそのものが目的だった」と思いませんか?

ーー確かに、大昔は生きることそれ自体に必死だったような気がします。いつ本当に死んでしまうかも分かりませんし。

ですよね。もちろん、苦難も多くあったでしょうが、生きることそのものに魂を燃やしていた。

それはそれで、生物としては力強く、健全な在り方であったのではないかと。

しかし、農耕をするようになり、ムラやクニが生まれると、人間は文化や信仰を生み出します。

良く言えば、人類の発展ですが、悪く言えば、余計なことを考え始めるんですね。

ーー余計なこと……(笑)

そうすると、その時代の人々にとって、「人間の生きる意味」とは神や宗教によって与えられるものになります。

なにせ、間違いなく意味がある神が人間を作ったのだから、自分が存在していることには、間違いなく意味があるのだと。

ーー絶対的な神を信じることによって、自分の存在にも絶対的な意味を見出していたということですね。

そうです。とはいえ、ここまでだとなんだか宗教批判のようですが、これはこれで別に良いことだと思いませんか?

現代人からしてみたら、神や宗教というのは非科学的なものかもしれませんが、当時の時代の人々はその価値観に救われていた。

宗教による戦争やゴタゴタは別として、人々の心の拠り所になっていたことも確かな事実なんです。

ーーその通りかもしれません。

しかし、時代が進むにつれて、科学的な事実が明らかになっていきます。

特に、19世紀にもなると、ダーウィンによって『種の起源』、すなわち進化論が発表され、神が生物を創造したことが大々的に否定されました。

そうすると、人々は「あれ? もしかして、神様なんていないんじゃないか……?」と思うようになってきてしまう訳ですよね。

ーーなるほど。でもそれってそんなに大変なことなんでしょうか?

そりゃすごい衝撃だったと思いますよ。

例えば、僕たちは「科学」が正しいと思い込んでますけど、「スマン(笑)! 科学とか全部ウソなんだわ(笑)」って言われちゃったようなものですよね。

ーーそれは確かにどうすればいいのか分からなくなります(笑)

そうでしょう(笑)

そのような背景から19世紀というのは、精神的に路頭に迷う人が多かったんです。

そして、そんな時代に、ある男が現れて、こう言ったんですね。

「神は死んだ」「私たちが殺したのだ」と。

ーーおお! ニーチェの登場ですね!

はい(笑)。これで有名な「神は死んだ」の文脈も分かって貰えたんじゃないかと思います。

つまり、「神は死んだ」とは、絶対的な価値観が失われてしまった時代が来たことを言っていたんです。

 

■ ニヒリズムの時代

つまり、ニーチェの哲学とは、「絶対的な価値観が失われた時代でどう生きていくか?」というテーマが主題になっているんですね。

ニーチェはこの絶対的な価値観が失われた時代を「ニヒリズムの時代」と呼んで、「次の2世紀(20~21世紀)はニヒリズムの時代である」と予言しているんです。

ーーまさしく現代がそうなのですね。ここでニヒリズムとは何でしょうか?

ニヒリズムというのは、虚無主義、簡単に言えば「あらゆるものに意味は無い」とする思想ですね。

例えば、インタビュアーさんは何の為にこの仕事をしているのですか?

ーーえっ(笑)? 食っていく為というか、生活をしていく為ですかね……。

それでは、何の為に食事をしたり、生活をしているのでしょうか。

ーーそうですねえ。将来的に結婚したり、子供の顔を見たりする為ですかね。

では、何の為に結婚したり、子供をもうけるのでしょうか?

ーー幸せとか、家族に囲まれたいとか……?

でも、幸せになっても、家族に囲まれても、結局は死ぬだけじゃありませんか?

ーーうーん、極端に言えば、そうかもしれませんけど、自分の行いや血筋は残っていくはずです!

とはいえ、この人類は本当に永遠に続くのでしょうか?

現在のペースで、科学の発展や環境破壊を続けて、核が乱発されるような大規模な戦争が起こらない確証があるのでしょうか?

ーーそれは不安ですが……(笑)、敢えて反論するなら、私は人類の善性や可能性を信じると言っておきます!

仮にそうだとしましょう。しかし、地球の寿命はあと5億年と言われてます。

太陽が大きくなりすぎて、全ての海水が蒸発してしまうそうですよ。

ーーその頃には宇宙ですよ。宇宙。地球なんか脱出しているに決まってます。

しかし、宇宙の終焉も1400億年後にはやってくるそうです。

宇宙の終わりはどうすることもできないんじゃないでしょうか。

ーーそこまで言われたら、もう何も言えません……(笑)。ニートってまともに働かないで、こんな性格の悪いことばかり考えてるんですね。

文句はニートじゃなくて、ニーチェに言ってください(笑)

本題に戻ると、結局、突き詰めて考えれば「あらゆるものに意味は無い」ってことになりますよね。

ゲノム(遺伝子)やミーム(文化の情報)を残しても、いつかは人類も、地球も、宇宙も消滅してしまうんだから、っていう。

ーー宇宙的なスケールで考えたら、それは否定できませんね。

つまり、何のために生きているか分からなくなってしまう。

ニヒリズムについては、実存的なアプローチもあります。

ーー現実の存在から考えるニヒリズムですね。気になるような、気にならないような……。

言ってしまえば、僕らはその辺の石ころと変わらないってことです。

ーーいやいや、人間には人間として、知性や尊厳があるじゃないですか。想い考えて、行動することができるはずです。

でも、それって突き詰めてみれば、どれだけ複雑な振る舞いをするかどうかの違いだけですよね。

現実の存在として、客観的に見てみれば、どちらもただの原子の集まりにすぎない。

ーーそう言われれば、そうですが……。

結局、人間というのは、実存の反対である、想像上の価値観(背後世界)に強く振り回されているだけなんです。

「たくさんお金を稼ぐの方が良い」とか、「若いうちに結婚した方が良い」とか。

もし、人間には見えないけれど、石ころ達の間にこんな価値観があったとしたら、どうですか?

「石は丸ければ丸いほど偉いイシ!」とか、「石は高い位置にあればあるほど良いイシ!」とか。

ーーいや、それは意味が分からないし、意味が無いですね(笑) お前らはみんな同じただの石だよって(笑)

そうですよね(笑)、つまり人間にも同じことが言えてしまうんです。

もし、この世界を客観的に見ている神様みたいな存在がいたら、「いやいや、お前らはみんな同じただの物質だよ」っていう。

ーーなるほどなぁ、この辺りはニートっぽさも感じる哲学ですね。

 

■ 究極のニヒリズム世界:永劫回帰

ーーでも、結局のところ、私たちはこの一度きりの人生を楽しく生きるしかないんじゃないですか? あらゆるものに意味がないっていうニヒリズムの理屈も分かりますけど。

なるほど。そういう考えも大いにアリだと思います。

ですが、ニーチェはそれすら許さない、究極のニヒリズム世界を仮定したんです。

ーーしなくていいです(笑)

例えば、インタビュアーさんがこれまでの人生で一番有意義だったと思う出来事はなんですか?

ーーうーん、恋人と○○に旅行に行ったことですかね。

ありがとうございます。それは、なぜ有意義なんでしょうか?

ーーそれはかけがえのない思い出だからですよ。今は別れちゃったんですけど、当日に雪が降ってきたり、印象深いことも多いですね。

なるほど。つまりは、二度と体験できない唯一無二の思い出だからこそ、大切で意味があると。

ーーそういうことです。

ですが、もし、それと全く同じ出来事が何回も起こるとしたら、どうですか?

ーーえ? それは嬉しいんじゃないですか?

数回の内はそうかもしれません。けれども、もし、それを100万回繰り返すとしたら、どうでしょうか。

ーーそれは流石にしんどいですね(笑)

ですよね(笑)。どんなに好物で高級な料理でも、毎日出てきたら飽きてしまって無意味なものにしか思えない。

ニーチェが仮定した、究極のニヒリズム世界「永劫回帰(えいごうかいき)」は、無限に全く同じ人生が繰り返されるというものなんです。

「宇宙は砂時計のようなものであり、その砂粒である私たちは永遠にひっくり返されるのだ」とニーチェは表現しています。

よく現代的な説明では、「宇宙は無限に始まりと終わりを繰り返すのだから、いくらでも今と同じ世界が発生する」とか言われていますね。

ーーなるほど……。ニーチェの言いたいことは伝わりました。でもそれって本当なんですか? 宇宙の仕組みには様々な仮説があると聞いたことがあります。

「宇宙が始まり(ビッグバン)と終わり(ビッグクランチ)を繰り返す」っていうのは、ビッグクランチ理論と呼ばれているんですが、確かにこれは仮説の1つに過ぎないんですね。

まだまだ宇宙については分からないことばかりですし、これは永劫回帰の議論でも、よく突っ込まれる所です。

とはいえ、「永劫回帰が正しいのかどうか?」はあまりこだわるポイントではないんですよ。

「もし、究極のニヒリズム世界であったとしても、どうすれば正しく生きることができるのか?」

ニーチェが徹底的に突き詰めて考えたかったのはそこなんです。

ーーつまり、私のように「一度きりの人生なんだから楽しく生きればいいだけじゃん」という「逃げ」を封じるための仮定だということですね(笑)

そういうことですね(笑)

 

■ 目指せ「超人」!

それでは、永劫回帰の世界であったとしても、どうすれば正しく生きていけるのか見ていきましょう。

結論から言ってしまえば、「超人になれ!」とニーチェは主張しているんですね。

ーー「超人」とはなんでしょう?

超人については、はっきりとした解説が存在せず、様々な解釈がされているのですが、ざっくり言えば「常に力強く人生を肯定して生きることができる人」でしょうか。

ーーここまで引っ張っといて、なんだかありふれた自己啓発本ような結論ですね(笑)。もっと詳しく知りたいです。

言葉だけでは、そんな感じがしてしまいますよね(笑)、それでは少し遠回りになりますが解説していきます。

まず、ニーチェは「力への意志」を人間は持っていると言ったんですね。

これは「自分を強くしようとする気持ち」や「自分を拡大させようとする気持ち」と言い換えてもいいでしょう。

例えば、この考えによれば、論争なども、まずは両者の「力への意志」がありきで、相手に勝つ為にロジックを組み立てているにすぎないと言います。

ーー俗っぽく言えば、自己主張欲みたいな感じですかね。それは誰にもあるかもしれません。

そうですよね。そして、ニーチェは「騎士的価値観」を在るべき姿だとして、「僧侶的価値観」を批判したんです。

ーーそれらは一体なんでしょう。

はい。まず、「騎士的価値観」とはマッチョなイメージでしょうか。自分を高め、強くしていくこと。これを自然な自己肯定の姿だとしたんですね。

一方、「僧侶的価値観」とは言ってしまえば、キリスト教的な価値観のことです。

ーー確かに、「騎士」の方が素直な印象はありますが、なぜ「僧侶」がダメなのでしょうか。

例えば、キリスト教では「強欲で野蛮な悪人は地獄に落ちて、清貧で慎ましい善人は天国に行く」みたいな価値観があるじゃないですか。

ニーチェはこれを「ルサンチマン(弱者の嫉妬)」だとして批判したんです。

そのような価値観を持つことは、他者を否定することによって、自分の価値を見出している歪んだ状態であり、本来の生を押し殺していると。

ーー必ずしもキリスト教が間違ってるとは思いませんが、言いたいことは分からなくもないです。

とりあえず、キリスト教の価値観の是非は置いておいて、こういったルサンチマンは我々にも関係ない話では無いですよね。

「お金をたくさん稼いでいる人はズルいことをしていたり、性格が悪いに決まっている!」みたいな(笑)

ーー確かにありがちですね(笑)

こういった価値観の転倒を起こして、自分を慰めているのは正しい姿ではない、とニーチェは主張したんです。

「力への意志」を持って、「騎士的価値観」に基づいて自己肯定をしていくこと、これが正しい姿であると。

そして、人生を肯定することとは、「ニヒリズム(無意味さ)を受け入れつつも、一瞬一瞬を強く生きること」だとしたんです。

ーーなぜ、一瞬一瞬を強く生きることが「超人」や「ニヒリズムを克服すること」に繋がるのでしょうか?

永劫回帰、すなわち究極のニヒリズム世界において、我々の人生は無限に繰り返されます。

そのような世界においては、「一瞬は永遠であり、永遠は一瞬である」と解釈することもできますよね。

すなわち、「この瞬間」を肯定して、「これでいい!」とすること。

喜びも苦痛も全てを受け入れて、「よし! 人生よ、もう一度!」という姿勢を持つこと。

これが生の全てを肯定する最高の形式、人間の目指すべき「超人」の姿であると、ニーチェは伝えているんです。

ーー逆説的に言ってしまえば、「永劫回帰」のような絶望的な世界でも、強く生きることができる人間。それが「超人」ということなのかもしれませんね。

はい。その通りだと思います。ニーチェはこのような人生の全てを受け入れる態度を「運命愛」と呼びました。

 

■ ニート vs ニーチェ

ニーチェ哲学の大まかなあらすじはこんなところでしょうか。

省略してしまった部分もありますが、概要は掴んで貰えたかと思います。

ーーはい。ありがとうございました。最初におっしゃっていた通り、パワフルで力強い思想でしたね。

そうですねえ。だから、僕はニーチェがあんまり得意じゃないんです(笑)

ーーこんなに語ってくださったのに、ニーチェ(の哲学)がそこまで好きじゃないと?

うーん。なんか、「一瞬一瞬を強く生きる」とかめんどくさいですよね(笑)

言ってることは分からなくもないですけど、そんなの疲れちゃうよっていう。

僕は逆に、「人生なんて意味がないんだから、気楽に生きればいいじゃん」とか、「永劫回帰するなら、死んでもまた生まれるんだし、テキトーに生きればいいじゃん」みたいな感じですね。

ーーニーチェとは正反対ですね(笑)

はい(笑)

ここで、ニーチェは「超人」に対して、「末人(まつじん)」だとか、「おしまいの人間」という存在を考えたのですが、それについて引用してみましょう。

「おしまいの人間」どもは、厄介な土地を嫌い、温暖な気候、温和な隣人愛を好む。

健康に気を配り、不信を抱かず、摩擦を避けて用心深く暮らす。

酒・たばこを少々たしなむ。

からだにさわらぬ程度に仕事をする。

まずしさもゆたかさも望まない

わずらわしいことは避けて、人々を統治しようとも、他人に服従しようとも思わない。

ときに喧嘩するが、じきに和解する。

だれもが平等であり、また平等であることを望んでいる。

(中略)

「我々は幸福を作り出した」

おしまいの人間たちはこう言い、まばたきをする。

『ツァラトゥストラはかく語りき』より

ーーめちゃくちゃぼろくそに言ってますね(笑)

はい(笑)

これは平穏を望むだけの堕落した大衆、特に現代で言えば、なんとなく働いてるサラリーマンとか、フリーターとか、ニートを強くディスってるって感じですよね。

僕は基本的にニートで、たまにバイトしたりする、いわゆる寝そべり族みたいな生活をしてますけど、ニーチェから言えば「ザ・おしまいの人間」だと思いますよ。

ーーでも、現代では殆どの人間が「おしまいの人間」であるかもしれません。

そうですね。逆に、終わってない人間を探す方が難しいかもしれないです。

僕がニーチェに触れて思ったのは、「すごい優秀だし、言ってることは間違ってないんだけど、頭が固すぎて、話してるとスゲー疲れるヤツ」みたいな印象ですね。

ーーあー、確かにそんな感じの人はたまにいますね。

ニーチェの生真面目を表すのに、こんなエピソードがあるんです。

ニーチェが小学生時代、下校していると、急に雨が降ってきたんですね。

多くの子供たちは、駆け足で家に帰ったのですが、ニーチェは頭にハンカチを乗せただけで、歩いて帰ってきたと。

その様子を見た母親が、なぜ走ってこなかったのかと問い詰めたら、ニーチェはこう言ったそうなんです。

「校則に『下校中は走らず静かに帰らなければならない』って書いてあるから……」って。

ーー小さい頃から、そういった真面目さを持っていたと。

まあ、そういう人はどこか憎めないタイプでもありますが(笑)

そろそろ、「ニート vs ニーチェ」のラストということで、ニーチェの労働観についても解説しておきましょう。

ニーチェは著書『人間的な、あまりに人間的な』でこう言っているんです。

自分の一日の三分の二を自己のために持っていない者は奴隷である。

『人間的な、あまりに人間的な』より

ーーあれ(笑)? 結構ニートっぽいこと言ってますね(笑)

1日24時間。まず、睡眠を8時間としましょう。

そして、多くの現代人は「8時間労働」をしている。

これに通勤時間や休憩時間を加えたら、残りの自由時間は必然的に8時間未満になります。

ニーチェに言わせれば、雇われ労働者として生きることは「奴隷」であると。

いや、そもそも、疲れを癒す為や、明日の仕事に備えて過ごす時間が「自分の時間」なのでしょうか!

ーーここにニート哲学とニーチェ哲学の融合が実現したということですね……!

いや、でも、ニーチェは同じ著書で、こうも言っているんです……(笑)

職業はわたしたちの生活の背骨になる。

背骨がなければ、人は生きていけない。

仕事にたずさわることは、わたしたちを悪から遠ざける。

くだらない妄想を抱くことを忘れさせる。

そして、こころよい疲れと報酬まで与えてくれる。

『人間的な、あまりに人間的な』より

ーーえー! ニーチェは労働肯定派なのか、アンチ労働なのか、よくわかりません(笑)。

僕も最初は困惑しました(笑)

でも、これらの文章から、ニーチェの主張を考察してみれば、「嫌々やっている仕事はダメ」ってことだと思いますね。

仕事には

「ライスワーク(食っていく為だけの仕事)」

「ライクワーク(好きでやっている仕事)」

「ライフワーク(人生の使命だと思えるような仕事)」

の3種類があると言いますが、おそらくニーチェは、「自分の時間そのもの(人生の使命だと思えるようなことや好きなこと)を仕事にしろ」と言いたかったんだと思います。これなら、矛盾もありません。

少なくとも、ニーチェは文句を言いながらライスワーク(食っていく為だけの仕事)を続けるような生き方を良しとしなかったと。

ニーチェの哲学を踏まえてみれば、当たり前のことかもしれませんがね(笑)

ーーなるほど、やはりニートとニーチェは水と油でしたか……。

ですが、この(おそらくそう言っているであろう)ニーチェの主張からは、可能性を感じます。

それこそ、好きなことをやってるだけで、なぜかお金が貰えるのなら、それはネオニートですからね。

水と油も調和すれば、NEW(乳)化するんです。

ーー(早速、背骨の無い人間が、くだらない妄想(ギャグ)を言っているな……)

なんか僕、ひどいこと言われてないですか(笑)?

 

■ ニートが考える現代実践ニーチェ哲学

僕、哲学については「護身術」みたいなものだと思っているんです。

ーーあの身を護るって書く護身術ですか?

はい。心の護身術と言ってもいいですし、言葉遊びで「護心術」とか書いてもいいですけど。

結局、この世の中って、ボーっとしていたら危険な訳ですよ。

犯罪とか、暴漢とか、物理的にもそうですけど、精神だっていつの間にか殺されそうになってしまう時がある。

例えば、「働いていない奴は人間失格!」という価値観に囚われすぎて、ニートやひきこもりが自死してしまったり、ブラック労働によって死んでしまったりする人がいる訳ですよね。

これらは社会や世間体によって心を殺されてしまったと言っても過言ではないと。

ーー確かに、この国の自殺者は毎年2万人程度いると言います。自殺未遂や精神病を含めたら、それ以上の人々が苦しんでいますね。

その通りです。ここでニーチェの哲学を思い出してみましょう。

実存的に考えれば、「~しなければならない」といった価値観は全て想像上のものでそんなものは存在しない。

そして、ニヒリズムを考えれば、あらゆるものには意味が無いので、死んでしまうまで働く必要なんてないんです。

ーー僕らはただの原子の集まりで、あらゆるものには意味がありませんからね(笑)

そういうことです。

僕は形式めいた難しい哲学より、実践的な哲学の方が好きなんですよね。

護身術……、武術で言えば形稽古より、現場で使える金的キックを練習したいみたいな(笑)

ーーそういった意味で、資本主義の発展が背景にある実存主義や、ニーチェの哲学は実践(実戦)的であると。

はい。そう考えています。

先ほど、ニーチェがキリスト教を強く批判したことには触れましたね。

ーーはい。そうでしたね。

「奴隷道徳」とか言っていて、すごいディスり方をしてたんですけど。

ーー奴隷の道徳ってすごい悪口ですね(笑)

でも、こういった世間に浸透している強い価値観って、僕たちにも関係ない話では無いですよね。

現代日本は「労働教」であり、「社畜道徳」だったり、「資本道徳」だったりすると。

ーーあー、そうかもしれません。

「サラリーマンとして定年まで働くべき」

「結婚して、子供を作って、マイホームや車を買うべき」

そういった価値観が正しいとされて、それができない人はおかしいという風潮がありますよね。

ーーでも、それらは絶対的な価値ではないと。

その通りです。

この飽和した資本主義社会でどう生きるか?

21世紀の実存主義は、ニート達にかかっていると言ってもいいかもしれません。

ーー面白いです。でも、それって「その思想そのもの」がルサンチマン(弱者の嫉妬)に陥ってる可能性はありませんか?

なかなか、痛い所を突きますね(笑)

確かに「働いているヤツは負け」だとか、「結婚しているヤツはバカ」みたいなことを言う社会不適合者も少なくありません。

ここには少なからずルサンチマンは含まれますよね。

ニーチェ的に言えば、我々には「力への意志」がある。

「お金をたくさん稼ぎたい」、「偉くなりたい」、「優れたパートナーと付き合いたい」、「子孫を残したい」……。

人生経験や思考を経た後に「働かなくていいや」「結婚しなくていいや」と深く納得することはあるかもしれませんが、どこかで本能的なことを考えてしまうのは当たり前の話です。

それに、キリスト教も、労働もそうですが、その価値観によって救われている人がいるというのも忘れてはならない。

「働いて、家族に囲まれて、幸せに暮らす」、そういった生き方に満足している人も、たくさんいるということです。

僕個人の結論としては、様々な生き方を肯定するということですね。

ーーそれはつまりどういうことでしょう。

単純な結論ですが、サラリーマンとして生きてもいいし、フリーターとして生きてもいいし、ニートとして生きてもいい。

個人が選択した生き方を肯定していくということです。

みんなそれぞれ自分にとってベストな方法で、自分を高めていこうよってことですよね。

例えば、僕はこうやってのんびり暮らしながら、活動していくのが一番向いていると思ってます。

けれども、バリバリ働いているのが、一番輝く人だっていますよね。

それぞれの自己肯定スタイルを否定しない。多様な騎士的価値観(自分を高めて強くしていく)の在り方を目指す。

そんな感じの結論でしょうか。

ーーなるほど。ニーチェが批判していたのは「他者を否定することによって、自身の価値を見出すこと」でしたもんね。

はい。

でも、もしニートをいじめてくるヤツがいたら「お前も石ころと同じだ!」「人生に意味は無い!」って言っていじめ返してやろうと思ってます(笑)

ーーすごいスタイルの嫌がらせですね(笑)

あとは、僕の考えた「実践的なニヒリズム」を解説したいのですが、その前に、ニーチェのニヒリズム観をまとめてみたいと思います。

ーー実践的なニヒリズム、気になります。

ニーチェはニヒリズムを「受動的ニヒリズム」と「能動的ニヒリズム」に分けたんですね。

まず、「受動的ニヒリズム」というのは「末人」的な考え方。

「無意味な人生や世の中を悲観的に捉える」

「どうせ無意味なのだからと自堕落に陥る」

「夢や目標を持たず、トラブルを避け、時間を潰す為に生きる」

といったところでしょうか。

一方、「能動的ニヒリズム」というのは「超人」的な考え方。

「無価値であっても、それを肯定していく」

「一瞬一瞬を強く生きる」

「無価値だからこそ、自分で新たに意味を見出していく」

といった考え方になりますね。

ーーなるほど。改めてまとめると分かりやすいです。ニーチェは「能動的ニヒリズム」や「超人」が最高だと言っているんですよね。

はい。でも、いつも一瞬一瞬を強く生きたり、理不尽なことも多い人生を全て肯定するなんて、かなりしんどいことじゃないですか(笑)?

ーー確かに、誰しもがニーチェのようになれる訳ではないですよね。

これは僕のオリジナルの考えなんですけど、「受動的ニヒリズム」と「能動的ニヒリズム」は、「柔のニヒリズム」と「剛のニヒリズム」に改名するべきだと思うんです。

ーー「柔」と「剛」ですか。

例えば、学校や会社で追い詰められて、本当に死んでしまいそうになった時は「どうせ全てが無意味なんだから、テキトーに生きよう」って考えるんです。

これが「柔のニヒリズム」ですね。

逆に、何かにチャレンジしたりするときは、「どうせ全てが無意味なんだから、好きなように精一杯やろう」って考えるんです。

こっちは「剛のニヒリズム」です。

ーーネガティブな受動的ニヒリズムも、考えようによっては、しなやかに使えるものだと。

はい。その通りです。

これは屁理屈かもしれませんが、ただ強いだけの者より、柔と剛を自在に使いこなせる者の方が、「本当に強い」と思いませんか?

ーーそういった発想も面白いかもしれませんね。

ちなみに、これらは「ニーチェの哲学」ではなく、僕の考えた「居酒屋で語られるような人生哲学」ってことはここに再度注意しておきます!

 

■ ニーチェ哲学の危険性

でも、ニーチェの哲学って非常に危険なものでもあるんですよ。

ーーどういうことでしょう。

例えば、ニーチェはキリスト教を批判しましたが、キリスト教の価値観(僧侶的価値観)によるメリットも存在していた訳ですよね。

隣人愛や同情の思想が人々の助けになっていたことも数多くあったはずだと。

それに、例えば、騎士的価値観の人ばかりになってしまい、全員が自分を高めていくことしか考えなくなったら、色々とマズいと思いませんか?

言ってしまえば、「力への意志」だって、侵略的だったり、暴力的だったりする側面は否めませんよね。

ーーあー……(笑)

既存の価値観を「意味がない」「ルサンチマン」だと言って否定する。

そして、「これが正しい在り方だ!」と言って、新たな価値観を自由に打ち立てる。

これは充分に悪用可能であると。

ーーその通りかもしれません。

犯罪心理学によれば、ニーチェの思想は犯罪を誘発させる可能性があるとされているんです。

世界において事例があるとされてますが、日本で言えば酒鬼薔薇事件の少年A。

彼は取り調べにおいて「全てのものに優劣はない。善悪もない」と述べ、手記には「神は死んだ」と引用もあったそうです。

これはほぼ間違いなく、ニーチェ思想の影響を受けていると言ってもいいでしょう。

ーーうーん、難しい問題です。

極め付けは、ナチスによるニーチェ思想の利用ですよね。

キリスト教の批判とは、そのオリジナルとなったユダヤ教、ひいてはユダヤ人への迫害にも解釈することができると。

これはニーチェの妹、エリーザベトが大きな原因となっているんです。

エリーザベトは1885年に、狂信的な反ユダヤ主義の男と結婚すると、その影響を大きく受けることになりました。

ニーチェの死後、エリザベートはニーチェの遺稿集を勝手に改竄したものを『権力への意志』(最近では『力への意志』とされる)として、ナチスに売り込んだり、その後もニーチェの名声をナチスと関連付けたりしたんですね。

その結果、第二次世界大戦後は、ニーチェの本が禁書になったりと、ニーチェについて論じることは許されない空気感が生まれてしまい、これは1970年頃まで続いたんです。

ーーニーチェとナチスの関連性は聞いたことがありますが、そんないきさつがあったのですね。

他にも、ニーチェ自身も著書では女性差別や弱者差別のようなことを多く語っています。

「女の答えは妊娠だ」とか、「女は男を回復させるためにある」とか、「女は真理を嫌う。女の最大の技巧は虚言で、最大の関心事は外見と美しさだ」とか。

(しかし、最近はただの差別ではなく、女性の現実性を洞察していたと議論されることもある)

弱者についてはとんでもないことを言っていますね。

「弱者と出来損ないは亡びるべし。これはわれわれの人間愛の第一命題。彼らの滅亡に手を貸すことは、さらにわれわれの義務である」

こういった思想を利用して、ナチスは障害者の殺害を行ったりしたという訳です。

ーーニーチェってすごくアブないヤツに思えてきました……。

ですが、弱者については、『アンチクリスト』という本において、キリスト教の同情心を批判する一節での文脈であったこと。

ここで言う弱者とは、いわゆる障害を抱えたりする「社会的弱者」ではなかったとされています。

そして、ナチスにその思想を利用されてしまったものの、ニーチェ自身は決して反ユダヤ主義ではなく、むしろ、ユダヤ人をよく褒めていて、反ユダヤ主義には非常に批判的だったんです。

ーーおお、どこか安心しました。

妹への手紙では「お前が反ユダヤ主義者とつるんでいるならもう絶縁だ」「私の理想が反ユダヤ主義者によって穢されることは決してならない」とまで述べていますしね。

ーーニーチェ自身は強い思想を持っていただけで、決して差別主義者ではなかったと。

当時の価値観もあるので、明言することはできませんが、そう解釈してもいいでしょう。

ですが、ニーチェの哲学は良くも悪くも利用することができる。

取り扱い注意であることを、ここで述べておきたかったんです。

ーーはい。よく分かりました。

 

■ 駱駝・獅子・子供、そしてニーチェの最期

そろそろ、このニーチェ講座も締めに向かいましょう。

ニーチェの著書『ツァラトゥストラはかく語りき』では、精神の変化が三段階で描かれているんです。

まず、第一段階が「駱駝(らくだ)」。

ーーあの砂漠を歩くラクダですか。

はい。その駱駝です。

駱駝は荷物を背負って、人間に歩かされる。

これは重荷を背負ったり、古い価値観に囚われていることを表しているのですね。

次に、第二段階が「獅子」。

自由を得るために獅子は戦いを続けると。

ーーそして、ライオン以上に良いとされる最終段階は……?

最終段階は「子供」ですね(笑)

ーーえー(笑) 獅子より全然弱そうですけど……。

一見、これは非常に不思議ですよね。

そして、もちろん、ニーチェは「超人」を目指すべきだと言っていることから、「最高の精神性 ≒ 子供 ≒ 超人の精神」と主張していることになります。

これらがどういうことかと言うと、子供は「遊ぶ」んですね。

全てを新しく始め、無垢にこの世界を肯定し、新しい価値観を創造していくと。

ーーなるほど! そう考えてみれば、ニーチェの言っていた「超人」の在り方そのままです。

はい。子供は全身全霊でこの世界に存在して、この瞬間を強く肯定している。

これは理想の超人像ですよね。

ここで面白いなと思うのは、ニーチェが至った「一瞬一瞬を強く肯定する」や「遊ぶ」という結論は、東洋哲学に類似していることです。

今ここに集中するという、座禅やマインドフルネス、そして荘子の「遊び」の思想とほぼ同じだと言えるでしょう。

まあ、これはニーチェが仏教に影響を受けていたことも影響しているのかもしれませんが。

ーーどんな時代でも探求者の結論は同じということだったら面白いですけどね。

そして、ニーチェの最期にも触れましょう。

ニーチェはニート(みたいなリタイア生活者)になってから、10年ほど作品を書き続けるのですが、1889年、44歳、ニーチェは発狂してしまうんです。

ーーええ!! 比喩とかじゃなくてですか?

はい。本当に発狂してしまい、意思疎通が不可能な廃人となります。

一説では、トリノの広場で、御者に鞭打たれる馬を守ろうとし、馬の首を抱き締めながら泣き崩れ、そのままおかしくなってしまったそうです。

ーー根本的な原因はなんだったのでしょうか……。

これは様々な理由が考えられているんですね。

「哲学による狂気」「脳梅毒の進行」「脳腫瘍」「赤痢とジフテリアの後遺症」「無茶な薬の服用」「目の痛みや不眠」「失恋」「著書が評価されなかったことによるストレス」……。

これらのどれかが原因かもしれませんし、これらの全てが原因であった可能性も考えられます。

発狂した直後、ニーチェはこんな手紙を知人(元親友の妻)に送るんです。

コジマ・ワーグナーへ トリノから1989年1月3日

私が人間であるということは、ひとつの偏見です。

私はすでに幾度も人間たちの間で生きてきました。

そして、人間の体験することのできる最低のものから最高のものまですべてを知っています。

私はインドでは仏陀で、ギリシアではディオニュソスでした。

アレクサンダーとシーザーは私の化身で、同じものでは詩人のシェークスピア、ベーコン卿。

最後にはヴォルテールであったし、ナポレオンであったのです。

ひょっとしたら、リヒャルト・ワーグナーでもあったかもしれません。

しかし、今度は勝利を収めたディオニュソスとしてやってきて、大地を祝いの日にするでしょう。

そして、天は私の到来を歓喜して迎えています。

私はまた十字架にかかってしまったのです。

愛しのアリアドネへ、ディオニュソスより

『1989年1月3日 コジマ・ワーグナー宛の手紙』より(一部省略)

ーー……。輪廻転生や永劫回帰の思想の果てと言われれば、そうなのかもしれませんが、激しい電波も感じます……。

これは「狂気の手紙」とも呼ばれていますね。

ニーチェはすでに、人間を超えた存在になってしまったと。

ーーその後、ニーチェはどうなったのでしょう。

ニーチェは入院後、10年ほど介護生活を送り、1900年(55歳)、ニーチェは肺炎で亡くなります。

しかし、この間全く寝たきりだったという訳ではありません。

散歩をしたり、ピアノを即興的に数時間も弾くこともあったそうです。

絶縁を宣言した妹に対しても、「何を泣いているんだい。私たちはこんなに幸福じゃないか」「この家には、世界で一番よい人たちが住んでいると思うね」などと声を掛けたといいます。

ニーチェはその思想から、攻撃的だったと思われがちですが、元々は紳士的であり、発狂後はその面が現れていたのでしょう。

ーー悲しくも思いますが、穏やかな日々であるようにも思います。

そうですね。よく解釈するのなら、ニーチェは「子供」に戻ってしまったんじゃないでしょうか。

哲学の向こう側に、ニーチェは行ってしまっただけなのです。

 

■ ニートが語るニーチェ

ーーそれでは、最後にまとめをお願いします。

はい。僕もニートになってしまったばかりの頃は落ち込んだりしたのですが、ニーチェの哲学に触れた時は、救われることも多かったです。

いや、絶望することの方が多かったかもしれませんが(笑)

ーー「人生に意味がない」とか言われたら、絶望しちゃいますもんね(笑)

そうですね。でも、絶望を受け入れて前向きに生きていく。

そういった意味では、ニートに向いているものなのかもしれません。

とことん絶望してみることの大切さを学べたんじゃないかと。

例えば、「人生詰んだ」ってよく言いますけど、あれって多くの場合は背後世界の価値観に振り回されてるだけじゃないですか?

ニーチェに言わせれば、「いやいや、絶望が足りないよ」っていう。

ーーニーチェがゆるふわ氏に与えた影響は大きそうです。

ニーチェを実践できているかと言えば、全然そんなことはないんですけどね。

でも、最高の精神が「子供」で「遊ぶ」ことであるというのには共感します。

ニート的に言わせてもらえば、僕は脱力してゴロゴロしているのが、一番力強く人生を肯定している状態なんです。

……ってことで、ニーチェ先生勘弁してもらえないでしょうか(笑)

ーーニート流のニーチェですね(笑) それでは、ありがとうございました!

こちらこそ、ありがとうございました!

 

■ 参考文献

 

 

 

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