最近人生よく分からんモードに突入したので、ずっと1週間ぐらいフラフラしていた。
知らない街をあてもなく数時間歩いたり、河川敷で水面を眺め続けたり、地図も見ずにサイクリングをしたり。
当たり前のことかもしれないけれど、放浪したからといって、どこかに何か答えのようなものがある訳でもない。
ただ、人生が淡々と続いていくだけだ。
決して自分の選んだ生き方に文句を言うつもりはないが、時折それがとても恐ろしくなってしまう。
ニートが”きつい”のは将来の不安や世間体だけじゃない。
僕はその辺りの心配事に関しては、個人的にある程度折り合いをつけ終えていると思っているのだけど、そうではなくて、社会的な価値観から降りると、現実の存在が生々しい実感を伴って襲いかかってくるのだ。
これはちょっと言っている意味が分からない人もいると思うので解説しておくと、普通に生きていくならば、お金をたくさん稼いだり家族を持ったりすることを「人生のやるべきこと」として生きていけばいい。
そういった目標や物語に色付けされた世界を眺めていればどこか安心感があるだろう(そのような生き方を批判する意図は全くないですよ)。
だけれど、そういった価値観を放棄すると、まるで宇宙に素っ裸で放り出されたように、世界の存在に押しつぶされそうになる。
この意識や感覚は何なのか。今見えてるモノは何なのか。人生があと数十年も続くのか。いずれ死ぬのか。死んだらどうなるのか。永遠の無が恐ろしい。
そんな重圧が延々と襲いかかってくるのだ。
そもそも、この世界が在ること自体がファンタジーでオカルトすぎる。考えるだけで身体が捻じれ切れそうだ。
こんなビョーキのような感覚はニート特有と言うより、僕自身の性質なのかもしれないが、ニートになるような人はそういった素質があることも注意しておきたい。
(卵が先か、鶏が先か、みたいな話かもね)
-
ニートやフリーター、セミリタイア系の人々にありがちなんだけど、みんなやたら「僕はこんなに自由です」とアピールしがちだなと思う。
自己批判も含めて言及すると、本当に自由な人は「僕は自由だ」とは言わないよな、とか考えてしまう。
あとは労働批判に囚われすぎ。
例えば、野球選手の父親に「男なら野球をしろ!野球以外のことは許さないからな!」と育てられた子供が、野球に嫌気が差して別のことを始めたとしても、「野球はこんなにクソ!」や「サッカーは野球に比べてこんなに自由 笑」みたいなことをずっと言い続けているとしたら、誰がどう見てもソイツは自由じゃないし、ある意味野球にとても囚われているヤツだと思うはずだ。
本当に野球の呪縛から解放されたのなら、別に「野球をしてもいいし、野球をしなくてもいい」のである。
僕が言いたいのはそんなところだ。
ニート系作家も、セミリタイアブロガーも、悪く言えば「ねずみ講」なんだよな。
「僕はこんなにのんびり自由な生活を送っています。その収入の一部はこの本やブログの収益です。あなたたちもやりましょう」みたいな。
どんな時代にも隠者(的に生きたい人)は存在するし、労働で死んでしまう人の命を救っているという良い側面もあるんだけど、そこに傾倒しすぎるのはあんまり好きではない。
僕は何にも自由じゃない。
いつ頭がおかしくなって死ぬか分からないし。
そもそも、人生で自由になることなんてあるのだろうか。
「その不自由を楽しむかどうかは自由!」って感じでまとめようかと思ったけどやめた。
どうあがいても逆らえない理不尽や時代の流れがある。
例えば、目の前に砲弾が降ってきた人に対して「不自由を楽しむのは自由 笑」とか言えないからね。